七話 ストレンジ学園
『俺のことは……ジルと呼んでくれ!』
ジェルヴェールの最後の言葉が、今も心に鮮やかに残っている。
「ふふふ……ふふふふふ」
彼との別れから約半年が経ち、十歳となったルイーズは、ダルシアク国が誇るストレンジ育成の最高機関、ストレンジ学園へと入学した。
ここは、国内のみならず世界中の子どもたちが集う、最も格式高い教育機関のひとつ。ストレンジを保有する者としての将来を期待される者しか招かれない場所だった。
ジェルヴェールとの別れは、思い出すたびに胸を締めつける。それでも最後に彼から聞けた言葉は、ルイーズにとって何よりも大切な宝物になった。
彼と過ごした日々を思い返すたびに、自然と頬が緩み、表情が和らぐ。ふと笑みがこぼれてしまうのも無理はない。
学園の敷地には強力な結界が張られており、外部からの侵入や無断外出は厳しく制限されていた。テレポートも敷地内でしか使用できず、外の世界とは物理的に隔てられている。
入学から一年が過ぎ、ルイーズは再びジェルヴェールに会えるのは早くともあと四年後だと実感していた。
彼は今ごろ、マラルメ国第一王子の側近として正式に任命され、その王子と共に現地のストレンジ学園へと通っているはずだ。
日々の訓練や王子の護衛に追われているのだろう。会いに行く隙など、どこにもない。
「四年って、長すぎますわ……」
思わずテーブルに頬を乗せて呟く。彼に会えない日々は、空気が薄い世界で生きているようなものだ。
会う前は、どうやって毎日を過ごしていたのかさえ思い出せない。
ジェルヴェールの不在が、こんなにも自分を弱くするなんて。
そんな心の隙間を埋めるかのように、ルイーズは毎日ある“物”を眺める癖がついていた。
小さなペンダントに収められた、彼と最後に交わした言葉。スタニスラスとしての記憶と、ジルとしての名。
そのすべてを心の中で反芻し、口元をほころばせる。それだけで、まるで別の次元に飛んでいくような気持ちになれた。
「……、お嬢様。その不気味な笑いはおやめくださいと、何度注意申し上げればよろしいのですか」
サビーヌの呆れた声が現実に引き戻す。忠義心の強い侍女である彼女は、今日もルイーズに小言を投げかけた。
二人がいるのは、学園内の喫茶店テラス席。まだ春の冷えが残るこの時期、外に出ている生徒は少ない。
テラス席にも人影はまばらで、ルイーズ以外は平民出自の生徒たちがちらほらいるだけだった。
公爵令嬢であるルイーズに気軽に近づこうとする者など、当然いない。
寒さは嫌いではない。むしろ好きだった。
それは、まるで氷のストレンジを持つ彼、ジェルヴェールのそばにいるような気がしたから。
「いいじゃないの、思い出すくらい。だって最後の最後で、あの方はわたくしに愛称で呼ぶ許可をくださったのよ?それってもう、わたくしのこと特別だって思ってくださってるってことじゃなくて?」
鼻息を荒くして力説するルイーズに、サビーヌは呆れを通り越して半ば諦めの表情を浮かべる。
しかし、その表情の奥にほんの少しだけ心配そうな色も見えていた。
「お嬢様。厳しいようですが、早とちりは泣きを見ます。どうか、慎重にお進みくださいませ」
「うっ……わかってるわよぅ。でも、気があるかもって、少しくらい夢見たって、いいじゃない」
サビーヌの言い分が正しいことは、ルイーズにも分かっていた。
今はまだ計画の序章に過ぎない。ジェルヴェールが留学生としてストレンジ学園にやって来てからが、本当の勝負所。
それまでは、ひたすら種をまいて芽が出るのを待つ時期。焦っても仕方がないのだ。
彼にとっては、もしかすると今のところ“友達”程度の認識かもしれない。
でも、別れてから六年も待つ覚悟をしているのだから、今くらい夢を見たって、許されるべきだ。
ルイーズはそう思って、むくれた表情で頬を膨らませる。そんな彼女の頭に、サビーヌが優しく手を伸ばし、ぽんと撫でた。完全に子ども扱いだ。
──もう、十一歳なんだけどな。
ルイーズは心の中でぼやいた。
「お嬢様、来ます」
「ええ。わかっているわ」
気配を感じ取ったサビーヌの声に頷き、ルイーズは手にしていた物をそっとポケットへとしまい込んだ。
直後、目の前の空間に人が通れるほどのゲートが、ひゅうっと風を巻いて現れる。
「お姉様ぁ~っ!やっぱり、こちらにいらしたのですねぇ~!」
「姐さ~~ん!! ここで会ったが百年目だッ!!」
先に飛び出してきたのは、見覚えのある二人の妖精──ソレンヌとエドだった。
あまりにいつも通りの登場に、ルイーズは思わず「デジャブ」と呟きそうになる。
そしてゲートの奥からは、さらに数人の新入生と、一人の教師の姿が続いて現れる。
その光景に思わず心の中で「まだ出てくるのかよ!」とツッコミを入れるが、顔には出さない。あくまで公爵令嬢として、優雅に、冷静に。
新入生と教師が全員通過すると、ゲートはすうっと消え、まるで最初から何もなかったかのように、空間は元の静けさを取り戻した。
「ああ、なるほど。君がここにいるから、ソレンヌ嬢とエド嬢はこの喫茶店で懇親会を開きたいと言ったんだね」
柔らかな声でそう言ったのは、ストレンジ学園の教師であるシーグフリード・ラーゲルベックだ。
ストレンジ学園の卒業生でもある彼は、若くして教壇に立つ期待の教育者だ。
そして、前世でプレイしていた乙女ゲーム「ストレンジ♤ワールド」第一章に登場する隠れキャラであり、攻略対象の一人。
ルイーズが最も推していたキャラクターでもあった。
大人の落ち着きに加え、どこか陰を感じさせるミステリアスな雰囲気。
表向きは穏やかな教師でありながら、実はヒロインと因縁深い過去を持ち、陰ながらその幸せを願って見守るという……
前世で何度も心を打たれた、まさに“理想の推し”だった。
だからこそ、彼と初めて対面したとき、少しは胸が高鳴るのではと思っていた。
だが、ルイーズの心は驚くほど静かだった。推しキャラとの運命的な邂逅。そのはずなのに、心は動かない。
彼女の中で、もう別の“特別”が存在している証だった。
「お初にお目にかかります、シーグフリード・ラーゲルベック先生。わたくし、ルイーズ・カプレと申します。どうぞ、ルイーズとお呼びください。」
公式の場ではないので、席を立ち、簡潔な挨拶と軽くカーテシーをしながら名乗った。
「流石は初等部の模範生と名高いルイーズ嬢。僕の名前までご存知とは。ですが、改めて自己紹介をさせていただきます。シーグフリード・ラーゲルベックと申します。気軽にラーゲル先生と呼んでくださいね」
深緑色の落ち着いた髪と瞳に、優しい笑顔。全てが穏やかで優しさに溢れているように見える。
しかし、彼の第一印象はそれとは裏腹に、何か不穏なものを感じさせるものだった。
シーグフリードの両肩に担がれている、ある物体を見た瞬間、思わず頬を引き攣らせた。
「ところで、あの……その肩に乗っているのは…?」
「ああ、この子達はレナルド殿下とルベン殿下ですよ」
──ですよねー…。どう見ても、双子の王子ですね。うん。
変わらぬ笑顔で答えるシーグフリードの表情が、どうにも不気味に感じられた。
双子が何か仕出かしたのは間違いないだろう。思わず、ルイーズは遠くを見つめてしまう。
──それにしても、何をしたんだ、このイタズラ兄弟は。
「レナルド殿下とルベン殿下、何をされているのでしょうか?」
二人の王子はじたばたと暴れているものの、全く声を発しない。いや、後ろ向きで見えづらいが、時折見える口元は、二人とも怒った表情で何か喚いている。どうやら、音だけが消えているようだ。
ルイーズは微笑みを保ちながらも、その笑顔が引き攣るのを必死に抑えながら尋ねる。
「もしかして、無音キャンディを食べさせたのですか?」
無音キャンディ。
一舐めするだけで、十数秒は声を発することができなくなるという奇妙なキャンディだ。それを全て舐めきると、最長で三分間、声が出なくなる。
あまりにもいたずらすぎるその性質に、思わず苦笑いしてしまうルイーズだった。
「ちょっとおいたが過ぎたので、お灸を据えたんですよ。レディのスカートをめくろうとしていたものですから」
──おいおいおい、仮にも一国の王子が二人揃ってスカートめくりって……
呆れてものも言えない。教師として、こういう対応になるのも仕方ないというもの。
──それにしても、どの子にそんなことをしようとしたのか。
辺りをざっと見渡すが、被害者らしき人物は見当たらない。
女の子が八人ほど固まって怯えているが、泣いているわけでもないし、どうやら被害にあったわけでもないようだ。
ルイーズの両脇にぴったりと引っ付いているソレンヌとエドは、ケロッとした表情をしている。まさか、幼馴染だからって王子もそんなことしないだろう、と再び女子の集団に目を戻したその瞬間。
「ああ、捲られたのはソレンヌ嬢とエド嬢ですよ」
視線を感じたシーグフリードが、何気なく教えてくれた。
──お前達やったんかーい!!
というツッコミはさておき、シーグフリードの発言に、なぜか二人はドヤ顔でルイーズを見ている。
「私は常に動きやすいようにしているから、動いた時にスカートが捲れても大丈夫なように、ドロ───」
「ストップッッ! ですわよ、エド!」
思わず、エドの口を塞ぎ、スカートの裾を掴んだ手の動きを制止する。
──この子、今「ドロワーズ」って言ってスカートを上げようとした!?ちょっとミュレーズ家、どんな教育してるんですか!!
エドだけでなく、ルイーズも常にドロワーズを履いている。
ドロワーズは、かぼちゃパンツのような形で、確かに普通のパンツではないが、ここには男子もいるのだ。
その中には、親同士が決めたエドの婚約者もいるわけで。
いくら自分の婚約者でも下着の情報を知りたがるわけがない。ましてや、齢十歳でそんな話題を知る必要もないだろう。
同じく、ドヤ顔をしていたソレンヌも、スカートの下にドロワーズを履いているのだろう。
ここ数年、ソレンヌもルイーズやエドの模擬戦に参加するようになり、力をつけてきていた。
本人いわく、「レナルドの隣に立てるような強い女性になるため」とのことだが、その意味、完全に間違っている気がする。
というか、絶対に間違ってる。
そんな意気込みを持つソレンヌが、可愛くて訂正しなかっただけだが。
「ルイーズ嬢、エド嬢を止めていただきありがとうございます」
「いえ、慣れておりますので。それにしても、先生もこれからお忙しそうですね。何かお力になれることがありましたら、どうぞ申し付けくださいね」
「先ずはみんなと仲良くなることが目標ですからね。大変なのは当たり前です。ははっ、では何かあった時はお願いしますよ」
シーグフリードは受け持つクラスの顔触れを見渡し、微苦笑を浮かべた。
双子の王子は勿論、将来悪役令嬢となる予定の婚約者ソレンヌに、エドのようなお転婆娘、そしてエドに負けず劣らず筋肉バカな婚約者レオポルド・ラクロワ、ストレンジ騎士団団長の息子フェルナン・コデルリエ、ゲーム内でヒロインと同級生として登場するキャラクターたちが、全員勢揃いしている。
前世で推していたシーグフリードや他の攻略対象キャラたちを見ても、ルイーズの心は揺らぐことはない。
ドキドキすることも、恋しくなることも、今や一人の人物にしか感じない。
こんなにも胸が苦しくて寂しく、でも彼を思うだけで胸が温かくなる。
早く、ジェルヴェールに会いたい──。
そんな気持ちが胸に広がると、急に音が戻ってきたかのように、甲高い声が聞こえてきた。
「僕の婚約者なんだから、婚約者にイタズラして何が悪いんだ!」
「お前、僕達が誰か分かってるのか!父上に言いつけるぞ!!」
レナルドとルベンに、ようやく声が戻ってきた。
シーグフリードはそれを見越して、既に二人を降ろしていたのだが、レナルドとルベンは最高潮に怒っている。
──というか、レナルド殿下よ。婚約者だからって、それが許される理由にはならないからね!?
ルベンに関しても、権力を振りかざすのが最早口癖となっていた。
これが更に成長するにつれてエスカレートしていくのかと思うと、悪魔にしか見えなくなってきた。いや、初対面からすでに天使の皮を被った悪魔だった。
幾度となく双子の歪んだ性格を矯正しようと尽力してきたが、二人は一向にルイーズの言葉に耳を貸さなかった。
ゴゴンッ──。
鈍い音が二連発。
シーグフリードが拳を作り、二人の脳天に叩き落とした後だった。
「そのお父上であらせられる国王陛下から『他の子達と同様に接し、また悪いことをしたら罰して良い』と言われていますからね。あれほど言って聞かせたつもりでしたが、まだ分かりませんでしたか?」
前世の記憶から、ゲーム内でも容赦ない人物だったことを思い出す。
裏表のある人だったが、ゲーム内ではもっと優しさが全面に出ていたはずだと思う一方で、レナルドとルベンのシーグフリードに対する態度はゲーム開始時から他のキャラクターたちと異なっていた。
こんなところでその教育が行われていたのかと、密かに思った。
テラスに来る前にお灸を据えられたことが効いているのだろう。二人はすぐに口を噤み、目を潤ませた。こういう所は可愛いと思うけれど、口を開くと……あれだ。
──先生には二人の教育をもっともっと頑張ってもらわなければならない。特にルベン殿下の教育を、もちろん私のために。
それからというもの、ルイーズは何故か一つ年上の自分まで、新入生同士の懇親会に混ざることとなった。
その結果、エドの婚約者である北軍騎士団長の息子、中央騎士団を統括する総帥の孫でもあるレオポルド・ラクロワから目をつけられ、後日模擬戦を申し込まれた。
全ては、エドが得意気に「ルイーズは総帥に引けを取らない強さを持っている」と早々にバラしてくれたお陰である。
他の者たちに自分の強さを暴露しないように口止めをしておかなかった自分の責任だと、ルイーズは後悔していた。




