五話 遭逢
ルイーズは森の中で静かに佇んでいた。
「わたくしは、何を……」
その言葉を口にしかけて、慌てて臨戦態勢をとり、周囲を見渡した。背後から視線を感じて振り返ると、血まみれで横たわる男がいた。
「ああ、そうだったわ。殺されそうになったから、頭に血が上って、風を操るピッピコで鎌鼬の攻撃をして倒したんだったわ」
男は、ライの治癒能力によって、何とか一命を取り留めていた。
「うっ……」
「起きたかしら」
男がうめき声を漏らしながら目を覚ますと、ルイーズは蹲踞の姿勢で、冷徹に男を見下ろしていた。
身体を縛られることなく自由に動ける状況に、男は少し驚きながらも、力なく体を起こし、近くの木に背を預けた。
ルイーズは男が動けるようになったのを確認し、立ち上がった。
「何故殺さなかった」
「殺すつもりはないもの」
「何故自由にした」
「縛るものがなかったから」
「俺がまたお前を殺そうとしたらどうする」
「それはできないわ」
ルイーズは、男に戦意がないことを知っていた。彼の目には怒りや復讐心のようなものは見えなかった。ただ、何かを感じ取っている様子でじっとルイーズを見つめている。
「何故そう言い切れる。今度は躊躇わず、お前を殺すかもしれない」
「だって、あなたにわたくしは殺せないもの」
男の鋭い目がルイーズに向けられた。ルイーズはその視線を涼しげに受け流し、冷静に言葉を続けた。
「わたくしはあなたのストレンジを理解したわ。そして、あなたのストレンジの弱点も理解した。その点、あなたはわたくしのことを何も知らない」
「俺のストレンジは理解しても並大抵の者では防げるものじゃないんだかな」
「わたくしに治癒のストレンジを持つピッピコがいる限り無理よ。この子は傷だけでなく、状態異常も解除するわ」
「かーッ!それを早く言ってくれよ」
男はその言葉に驚き、思わず顔を片手で覆い、天を仰いだ。
「あんたには色々と聞きたいことがあるが、こんなところで何をしていた」
「ある人を探していたのですわ」
「人を探しているだと?お嬢ちゃん以外にも、この森に入った奴がいるのか」
「いいえ。元々、この森にいる人に会いに来たの」
「……なんの真似だ?」
ルイーズの手にはダガーナイフが握られ、その切っ先が男の喉元に突き付けられていた。
「ダルシアク国第一王子、スタニスラス・ダルシー様に会わせなさい」
その言葉に、男の目が一瞬で大きく見開かれる。
「くっ……くくっ、そうか。嬢ちゃん、あんたはルイーズ・カプレ嬢だな」
「ご名答。早くスタニスラス様──いえ、今はジェルヴェール様かしら。彼に会わせて」
「どこまで知っている」
「全て。あなた達が『陰影』と呼ばれる集団で、そして何者かも。ジェルヴェール様のことも全て知っているわ」
「陛下はそこまであんたに教えたのか?」
「いいえ。これはわたくしの力よ。国王陛下も知らない力。ただ、あなたなら分かるでしょう。情報がどれほど大事かを。わたくしが何者か分かっても、あなたはわたくしのことを何も知らない」
「ふう、嬢ちゃんの言う通りだな。しかし、だからといって、はいそうですかと彼奴に合わせるわけにはいかない」
ルイーズは一度深く息を吐き、ダガーナイフをゆっくりと下ろした。
男は警戒しながらも身構えるが、ルイーズはそれに構うことなく、森の奥へと足を踏み出した。
「どこへ行く」
「スタン様を探しに」
告げると同時に、ルイーズは一歩を踏み出し、そのまま歩みを進める。
突如として、木々の間から何かが飛んできた気配と、殺気を感じた。ルイーズは瞬時に反応し、木の上へ飛び乗る。
「師匠、大丈夫ですかッ!」
木々の間から姿を現したのは、銀髪の少年だった。鋭い目でルイーズを睨み、警戒を強める。
ルイーズは、時が止まったかのように少年を見つめていた。彼の姿を見た瞬間、心が震えるのを感じた。
何度も、何度も、この瞬間を待ち望んでいた。
声を聞いただけで、心が震える。
自分の身体がどうしてこんなにも反応するのか、理解できなかった。木の上から飛び降りる。ただ、自然と足が動き、目の前の少年に近づいていく。
── ああ、やっと……貴方に会えた。
その声が、ルイーズの心を激しく揺さぶった。
彼がそこにいる。それが現実であると信じられず、心が浮かれ、喜びで胸がいっぱいになった。
かつて、あれだけ近くにいたはずの彼。
その幸せな時間が、まるで泡沫のように消えてしまったと思っていた。
何度も何度も、あの時間が夢だったのではないかと疑った。しかし、今、目の前にいる。彼が──スタニスラスが、ここにいる。
ルイーズは、目の前にいる少年の顔を、静かに見つめた。
その瞳の奥に見えるのは、かつての彼の面影。
そして、心の奥底で、過去に抱えていた深い愛情が今も変わらずに湧き上がってきた。
「やっと、見つけた。お会いしたかったですわ。スタ──……」
ルイーズの足は、少年の元へ駆け寄ろうとしたその瞬間に止まった。喜びのあまり、愛しい彼の名を呼ぼうとしたのに、その声はどこかに消えてしまった。口をパクパクと開閉し、声が出ない。
動こうとする身体は、まるで地面に縫い付けられたかのように、どうしても動かない。
「ジェルヴェール!そこから動くな!!嬢ちゃんも動くなよ」
──成程。……この男、やはり邪魔ですわね。
身体を止められたのは、男の仕業だとすぐに気づき、ルイーズはその男を恨みがましく睨みつけた。
ジェルヴェールは驚きの表情を浮かべたまま、攻撃した相手が自分と同じ年頃の少女であることに気づいて呆然としている。
暑くもないのに、背中から汗が噴き出し、カタカタと奥歯が鳴る。
男が自分に攻撃をしているのだと理解したルイーズは、目を閉じ深呼吸して心を落ち着けた。
「公爵家の嬢ちゃんだろうと、俺達の事を知られちゃあ、このまま帰すわけにはいかない。悪いが、縛らせてもらうぞ」
男が背後から歩み寄ってくる気配がした。
──ライ。
心の中で呼びかけると、すぐにライが現れ、ルイーズの身体が金色の光に包まれる。
ライの力が、ルイーズを包み込んだ瞬間、彼女は状態異常から解放され、声を発することができるようになった。
「邪魔をしないで下さるかしら」
ルイーズは声を取り戻し、冷静に告げた。
ライの力によって、彼女の身体と精神は徐々に落ち着き、興奮していた状態が緩和された。
「本当に、貴方、嫌な男ですわね。わたくしとスタン様の感動の再会までも邪魔するなんて。いくらスタン様の命の恩人だからと言っても、こればっかりは許されませんわ」
スタニスラスとの再会の喜びが、今、この瞬間に引き裂かれようとしていることに対する怒りが、ルイーズの心の中で湧き上がった。
その怒りが、体の中で暴れ出し、足元に小さな水の渦を作り出した。
「……あんたには、俺のストレンジは効かないんだったな」
男は苦笑しながら、軽く後頭部をかく。その姿勢は、どう見ても焦りとは程遠い。
「やばいなぁ」なんて言いながら、まるで大したことではないかのように振る舞っているが、その態度が逆にルイーズを苛立たせる。
男は、あえて余裕を見せつけようとしているのだろう。
ライの治癒能力は、ルイーズにとって非常に重要だった。怪我や病気だけでなく、状態異常や精神的な影響にも一定の効果があるため、そのおかげでルイーズは冷静さを取り戻し、焦燥感や不安が沈静化された。冷や汗も止まり、彼女の声も再びはっきりと出るようになった。
──なるほど。この男の能力は、精神や状態異常に干渉するもののようですわね。
ルイーズの目測通り、男の能力が精神的な影響を与えるものであることが分かる。その能力によって一時的に彼女は動けなくされていたが、ライの力によってその影響を打破することができた。
「“威圧”とは、珍しいストレンジですわね。初めてお目にかかりましたわ。相手に気づかれることなく、深層心理にまでその影響を及ぼすだなんて、とても恐ろしい能力ですわ」
「へえ、さすがはカプレ家の嬢ちゃん。噂には聞いてたが、まさかここまでとはな。まったく、手に負えない厄介者だ」
男は足を止め、ルイーズとの間に一定の距離を保ったまま動こうとしない。その距離は、彼なりの警戒の証。不用意に近づけば、次は自分が術中に落ちると理解しているのだろう。
ルイーズはすでに、男のストレンジの本質を見抜いていた。
彼の能力は【威圧】。対象の精神に無自覚な恐怖や不安を植え付け、行動を制限する精神干渉型の能力。
理解した今なら、ライの治癒を解いても問題はない。だが、依然として命令に従ってじっと動かずにいる“彼”が前に出てくるならば話は別だ。
理解していても、完全に影響を免れるわけではない。発動者の能力が威圧をかけた相手より力量が上回っている場合や、あるいは動揺などの“心の隙”を見せた瞬間に術が牙をむく。
──そしてわたくしは、スタン様のこととなると、簡単に心が揺れてしまう。
本当は今すぐにでも駆け寄って、抱きしめて、咽び泣きながら「思い出して」とすがりつきたい。
でも、それをしてしまえば、この男の思う壺。
彼の前で弱さを晒すことだけは、絶対にしてはいけない。
この“威圧”というストレンジは、それほどに危険なのだ。
“威圧”──それは、力や威光によって相手を押さえつける精神的圧力。弱肉強食の世界ではごく自然に行われる行動であり、強者の前で萎縮するのは生き物として当然の反応だ。古くからの諺で言うところの──「蛇に睨まれた蛙」。
思えば最初の対面時、ルイーズが反応に遅れたのも、この“威圧”のせいだった。知らず知らずのうちに精神が押さえ込まれ、彼女は本来の力を引き出せずにいた。
一瞬にして相手の力を半減させる恐怖のストレンジ。過度のストレスに晒されれば、声を失う失声症を起こす危険性すらある。
気の弱い者であれば、心臓に過負荷がかかり、最悪の場合、急性心不全で命を落とすことすらあるという。
あの時、声が出せず、汗が止まらなかったのもすべて“威圧”の影響だ。
「曲者なのは……お互い様でしょう。むしろ、油断ならないのは貴方の方よ」
ルイーズは一歩も引かぬ態度で男の目を見据えた。
「わたくしはスタン様に、ただ、会いに来ただけ。彼を無理やり連れ戻すつもりなんて、これっぽっちもないわ。……だから、お願い。少しだけ──ほんの少しだけ、話をさせてくれませんか」
真っ直ぐに交渉を申し出るその瞳に、嘘はなかった。しかし男の目は冷えたまま、わずかに考える素振りを見せながらも、視線は一瞬たりとも外さない。目も、笑っていない。
完全に“危険対象”として見なされている。それは、火を見るよりも明らかだった。
「それは、出来ねぇわ。嬢ちゃんが公爵令嬢以外の何モンで、何処まで何を知ってるか知らねぇが嬢ちゃんとアイツを接触させるわけにはいかない」
「なっ!なぜですの!?彼は、彼は今ここにいるではありませんか!ほんの少しでいいの。話を……話をさせてくださいませ……お願いです……」
この空間に、スタニスラスは確かにいる。記憶を失い、名前も変わり、ルイーズのことも完全に忘れてしまっている。だが、彼の佇まいを見れば一目瞭然だった。
あの頃の彼はもう、いないのかもしれない。
だけど、一年以上も彼を求めて来たのだ。この気持ちが、彼の記憶から存在が消えた程度で無くなるものではない。
ルイーズは静かに腰を折り、深々と頭を下げた。
彼に関わることならば、幾度でもこの頭を地に着けよう。この国に“土下座”という習慣があれば、矜持など捨て去って何度でもしてみせる。
「師匠……彼女は何を言っているのですか? 今ここにいるのは、俺と師匠だけですよね?」
背後から、困惑を含んだ愛しい彼の声が届く。
その声音をもっと聞きたい。彼の顔をもっとよく見たい。手をつないで、またあの薔薇園を歩きたい──ただそれだけなのに。
「……お願いします」
込み上げる想いを押し込め、小刻みに震える身体を抑えながら、彼女は顔を上げることなく、ただひたすらに許しを乞う。
「ジェルヴェール。彼女と少しだけ話してやれ」
「よろしいのですか!!」
思わず顔を上げたルイーズの目に、男が重いため息を吐きながらも渋々頷く様子が映った。彼もまた、国家の機密に深く関わる立場にある男。
今ここで無用な争いを起こして戦力を損なうわけにはいかない。加えて、ダルシアク王とマラルメ王の両陛下に事の経緯を説明するなど、考えるだけで面倒極まりない──彼はそう判断したのだ。
「ただし、俺も同席する。それから、こいつの名はジェルヴェール。余計なことは言うな。嬢ちゃんの首が飛ぶことにもなりかねんぞ」
男との距離が近いこともあり、ジェルヴェールには今のやり取りは届いていない。彼はただ困惑しながら、急に話しかけられたことに戸惑っている最中だった。
男の同伴は構わない。だが、その警告は本気だろう。既に彼の“威圧”の本質は見抜いた。経験では男が勝るが、戦闘力だけで言えばルイーズの方が上だ。もう争うつもりはないという意思表示でもある。
だが、脅しているのは“戦力”ではない。“国家”の力だ。国家機密に属するジェルヴェールへの接触は、それだけで重罪に値する。ルイーズ自身、それを百も承知していた。
「わかっておりますわ。覚悟の上でここに来ましたもの。それに、あなたさえ黙っていてくだされば、わたくしの首が飛ぶこともありませんわ」
「ははっ。肝の据わった、嫌な嬢ちゃんだな。今回だけは見逃してやる。おじさんの首まで飛びかねねぇからな。だから、嬢ちゃんも俺たちのことは黙っててくれよ」
流石は“陰影”のリーダー格。その目は鋭くも、全体の力関係とリスクを正確に把握していた。
今回はルイーズの方が有利だと気付いていたようだ。国家機密事項に足を踏み入れるのだ。何の対策も無しに罪を犯すはずもない。その為に一年以上も時間を費やしたのだから。
彼女はそっと、ポケットの上からマティアス製の録音装置に触れ、慎重に指先でその存在を確かめる。
「ご安心なさい。わたくしも誰かに告げるつもりなどございませんわ。先ほどから申し上げている通り、わたくしの目的はただひとつ。ジェルヴェール様に、お会いすることだけですもの」
微笑みを浮かべながらそう告げると、ルイーズは迷いなく駆け出した。
──愛しき人のもとへ。
逢瀬の制限時間は、残り五分──




