二話 ミュレーズ兄妹
「お嬢様、大丈夫でございますか?」
さらりと前髪を優しく撫でられ、ゆっくりと目を開けた。
嫌な汗がまとわりついて、身体中の血脈がどくどくと波打つのが分かる。
「お水をどうぞ」
侍女が水筒を差し出す。
彼女は、コーデリアがルイーズのことを心配してつけた専属の侍女であり、また、膨大な能力を持つルイーズの侍女として仕えたいと自ら志願した変わり者でもあった。
「ありがとう、サビーヌ」
差し出された水を受け取り、礼を述べた。
どうやら、ルイーズは馬車の中で眠ってしまい、膝枕をしてもらっていたらしい。
身体を起こし、からからに渇いた喉に水を流し込む。
「お嬢様、夢見が悪そうでしたので起こしましたが、大丈夫ですか?」
「ええ、大丈夫よ。ありがとう」
心配そうな面持ちで、サビーヌはルイーズの顔を覗き込んだ。
──あの夢は一体何だったのだろうか。
あの場面だけならば、ルイーズにも見覚えがあった。
「ストレンジ♤ワールド」はソーシャルゲームとは別に、ヒーロー達との恋愛を主題とした乙女ゲーム版も存在している。
乙女ゲーム版「ストレンジ♤ワールド」の中で、ルイーズは第一王子の幼馴染だと名乗り、スタニスラスに似た男性と接触する。
ルイーズが近づく度、何かを言う度、男は激しい頭痛に襲われる。
男の正体は、十五歳となったスタニスラス本人であった。
スタニスラスは記憶を失った状態でルイーズと再会するが、過去を思い出すことに苦しむ。彼は物語の途中で自分が第一王子であったことを思い出すものの、ルイーズや母親のことはなかなか思い出せずにいた。
過去を思い出そうとする度、彼は割れんばかりの頭痛に襲われる。
それを見かねた主人公がこう言うのだ。
「無理に思い出さなくてもいいと思います。貴方にとって、いい思い出なのか分からない。もしかしたら、深層心理で悪い思い出を封じているのかもしれません」
何も知らない者であれば、主人公の言葉も一理あると納得するだろう。だが、プレイヤーたちの多くはルイーズに対して強い批判を抱えていた。
ソーシャルゲームのストーリー、そして乙女ゲーム版のどちらにおいても、ルイーズとスタニスラスの過去について語られることはなかった。
そのため、記憶喪失となり第二の人生を歩んでいるスタニスラスにしつこくつきまとい、想い人を苦しめるルイーズの姿は、多くの日本のプレイヤーには受け入れがたかった。
苦しむスタニスラスに対し、未来を見据え前進を促す主人公と、過去に囚われ続けるルイーズでは、当然主人公の人気が圧倒的だった。
そんな中、主人公の存在がルイーズにとって邪魔だと認識され、彼女は暗殺を企てる。
ルイーズの策略にはまり、最終的にバッドエンドを迎えるルートもあるほど、綿密な計画だった。
しかし、危機を回避しても、ルイーズが主犯だと分かるのは、事件が進行してからだ。彼女が関与していたことは、ルイーズ自身が暴露するまで明らかにはならなかった。
「今となっては、ゲームの中のルイーズの想いが痛いほど分かるわ」
ルイーズ・カプレとして同じ人生を歩んできたからこそ、その心情が理解できるのだろう。
ゲームでは悪役令嬢の視点が描かれることはない。しかし、夢の中で見たものは、紛れもなくスタニスラスを失ったと思い込み、未来に絶望していたルイーズの想いだった。
ルイーズとスタニスラスが共に想い合い、手を取り合っていたのは七歳の頃のこと。所詮は子供の恋愛だと思う者もいるだろう。それでも、ルイーズにとってスタニスラスこそが、世界でたった一人の愛しい人だったのだ。
性格に難はあれど、顔立ちに恵まれた第三王子の婚約者となった後も、他の誰といる時も、ルイーズの心の中にはスタニスラスがずっと居続けた。
スタニスラスを失い、記憶を喪失した彼と再会するまでの八年間。ルイーズには目標も未来もなく、ただ毎日を無為に過ごすだけの日々が続いた。表情は希薄となり、笑顔が消えた。
その世界が色を失ったように感じたルイーズにとって、スタニスラスとの再会は、まさに世界に色が戻る瞬間だった。
幼い頃、必ずルイーズの元に帰って来ると約束した愛しい人が、約束を果たしに来てくれたと思い込んで歓喜した。
だが、現実は違った。
大好きだと、覚えていてと囁いたその口で、他の女性に愛を囁く姿を目にしたルイーズの心は、如何程だっただろうか。
ルイーズの心は、その瞬間、深い痛みに包まれた。どれほど苦しかったことだろう。こんなことなら、出会わなければ良かったと思うほどに。
夢の中で見たルイーズの姿は、すでに心が壊れてしまっていた。
「はぁ……」
「お嬢様?」
思わず、深いため息がこぼれる。
「ごめんなさい、大丈夫よ」
苦しみの中で、ルイーズはふと、思いを巡らせた。最愛の人に命を絶たれたその最期は、現実の痛みとは裏腹に、どこか幸福に感じることができた。
死の間際に感じた幸福感と共に、夢の中で死んでいったルイーズの想いが胸に深く響く。心が苦しくてたまらない。
「お嬢様、もうすぐ目的地に到着致しますが、少し到着を遅らせましょうか?」
サビーヌが優しく声をかけてくる。その気遣いに感謝しながらも、ルイーズは首を振って答える。
「いいえ、このまま時間通りにお願い」
目には涙が浮かび、頬を伝う。それを見たサビーヌは、あらゆる動作に細心の注意を払ってルイーズに寄り添っていた。ルイーズはその心遣いに、感謝しつつも、袖で涙を拭った。
それにしても、思い返せば、やはり「ストレンジ♤ワールド」とは、なんと恐ろしい作品だろうか。
現実ではない夢想の世界で、見目麗しい男性に囲まれて攻略していく。その中で、ヒロインとヒーロー達は共に戦うことで、お互いの好感度を高めていく。婚約者がいる者でさえ、画面上で好意的な発言を繰り広げていた。
それは現実ではないからこそ楽しめるものだった。
しかし、今やこの現実で、あれほど夢中だった「ストレンジ♤ワールド」が、どうしようもなく嫌いになりそうだと、ルイーズは深い息をつきながら思った。
「サビーヌ、あとどのくらいで着くかしら?」
「あと十分程で到着致します」
「グエナエル兄様が迎えに来るのは?」
「十七時で御座いますので、到着してからの制限時間は六時間です」
「そう……」
前世の記憶を思い出してから、もう一年が経った。ルイーズは八歳となっていた。
この一年でルイーズは、情報収集と人脈作りに励んできた。しかし、まだデビュタントも迎えていない段階のルイーズにとって、築けた人脈といえば、ほとんどが限られた範囲に過ぎなかった。屋敷を出ることはほとんどなく、側室レリアに呼ばれて第三王子のルベンに会いに行くか、総帥監督の元騎士団で訓練を受けに行くくらいだ。
それでも、少ないながらも人脈作りは進めていた。その中で、特に重要なのはレリアが主催するお茶会で出会った人物だ。目的の人物との接触は果たしていたため、この人物こそが、ルイーズにとっての一番の重要人物だと言っても過言ではないだろう。
度々開かれたお茶会のお陰で、重要人物との距離はぐんと縮まった。
「今日、早速計画を実行するわ。一時間だけお願いね」
「承知致しました」
ルイーズは今日のために、一年間かけて綿密に計画を練ってきた。その計画を実行するためには、サビーヌの協力が不可欠だ。
今、向かっている先で無事に計画が遂行できなければ、この一年の努力が無駄になってしまうことになる。
もし誰かに計画がバレてしまえば、ルイーズは自由を奪われることになるだろう。
そうなれば、ゲーム内のルイーズと同じ運命を辿ることになる。
頭では理解していても、心はその危機に対して完全には追いついていない。精神面では、まだ年相応の脆さを抱えていることを、ルイーズは自覚していた。
前世の知識を持ちながらも、心は未だに幼いルイーズであり、スタニスラスを想うとどうしても冷静さを欠いてしまう。今のルイーズは、不安定な感情に翻弄される存在だった。自身を抑えるためにも、今回の計画は成功させなければならない。
ルイーズは、喜びと恐怖が入り混じる中で、身体が震えるのを感じながら、心の中で焦りを感じていた。
「お嬢様、大丈夫です。もし、今日が上手くいかなくても次があります。焦ってドジだけは踏まないでくださいね」
「もうっ、サビーヌったら。わたくしがドジなんか踏むわけないでしょう?ふふっ、でも少し気が楽になったわ、ありがとう」
サビーヌは、もし計画が失敗しても、誰にも知られることがなければ、次に持ち越せば良いと思っている。けれど、それでは駄目なのだ。
表面上は平静を装いながらも、内心では不安と恐怖が入り混じり、精神的に追い詰められている。
日々の緊張と神経のすり減りが、ルイーズを苦しめていた。
ルイーズは、そのことをサビーヌには悟られないように、あえて頬を膨らませてみせた。しかし、それがサビーヌの気遣いから来ていることを理解していた。サビーヌが心配してくれることが、ルイーズの緊張を少し和らげてくれた。
サビーヌの手が優しくルイーズの頭を撫でる。その優しさに、ルイーズは一瞬だけ心が和むのを感じた。前髪を撫でられる心地よさに、ルイーズは双眸を閉じ、深く息を吐いて心を落ち着けた。
「到着致しました」
目的地に着き、馬車が止まった。御者が扉を開け、最初にサビーヌが馬車から降り立つ。次いで、転ばないようにとルイーズの手を引いて降ろしていると、目の前にある大きな邸の扉が勢いよく開いた。
「お姉様ぁ、お待ちしておりましたわあッ」
「姐さん久し振りですーーッッ」
ルイーズが馬車から降り立つと、扉の影から妖精たちが二匹ほど飛び出して突進してきた。
腹部目掛けて突進してきた物体を、身体で受けたルイーズは、踏ん張りがきかず後方に傾く。背後には、サビーヌが立っており、倒れそうになるルイーズをしっかりと支えた。
ルイーズの両脇には、二人の少女が頭をぐりぐりと押し付けながら、ぎゅうぎゅうと抱きしめていた。
「お久し振りですわね。ソレンヌ、エド」
抱き着く二人の頭を撫でると、ふと、獣耳と尻尾の幻覚が見えたような気がした。ルイーズは思わず笑みをこぼしながらその感覚を払う。
彼女はレリア主催のお茶会の一件をきっかけに、宰相の娘であるソレンヌと親しくなり、何度も遊びに行ったり来たりするうちに、ソレンヌの幼馴染であるエド・ミュレーズとも仲良くなった。
エドは代々王家の側近や護衛として選ばれる者が多い家系に生まれ、南の国境を守る辺境伯のご令嬢だ。
紫の髪と同色の瞳、目尻が少し釣り上がった姿は、どこかクールで綺麗な印象を与える。ソレンヌが可愛らしい系統なら、エドはどちらかと言えば美しい系統だろうか。
実はこの二人、いとこ同士であり、エドは総帥の孫の次期婚約者となることが決まっている。
ソレンヌの邸に遊びに行った際に出会い、二人はすぐに打ち解けて仲良くなった。
エドは、王都に呼ばれた父親の馬車に勝手に張り付いて、辺境の地からついてきたというちょっと変わったエピソードを持っている。それが可能なのも、彼女が持つストレンジの能力のお陰だろう。
エドは親戚のペルシエ家に預けられて、王都に二週間ほど滞在していた。その間、ルイーズはソレンヌだけでなくエドとも仲良くなり、二人から姉のように慕われるようになった。
「何をやってる。ちゃんと挨拶をしろといつも教えているだろうがッ」
「いでっ、兄さん痛い!」
二人の背後から現れた人物が、エドを無理やり引き剥がす。エドはまるで仔猫のように首根っこを掴まれ、容赦なく拳骨を落とされた。
その音はひどく痛々しいが、エド本人は「痛い!」と言いながらも、案外痛がっていない様子だ。後から現れた人物は、エドとよく似た顔立ちをしていた。
「アドルフ様、お初にお目にかかります。私はカプレ公爵家の長女、ルイーズ・カプレと申します。グエナエルお兄様のご友人だとお聞きしております。今後とも、兄妹共々よろしくお願い申し上げますわ」
「グエナエルから話は聞いていたが、実際に会うのは初めてだな。本当によく出来た妹だな。俺はアドルフ・ミュレーズ、よろしくな」
アドルフは、グエナエルと同じストレンジ学園に通う同級生であり、友人でもある。
十歳になった子供たちは、国営のストレンジ学園に集められ、平民も貴族も関係なく学び舎に通う。学園は全寮制で、長期休暇や休日に申請すれば実家に帰れる。今は夏休み期間ということもあり、アドルフも実家に帰ってきていた。
グエナエルや、同じ学園に通うマティアスも帰省しており、現在はマルセルの元で手伝いをしている。辺境の地ということもあら、十七時にはグエナエルがミュレーズ邸まで迎えに来る予定だ。
「兄さん、いい加減離してよっ。大体、兄さんだってルイーズ姐さんが来るの楽しみにしてたじゃん!」
未だに仔猫のように捕まっているエドは、じたばたと暴れて抗議している。
エドの発言に、ルイーズは首をかしげる。初対面であるはずのアドルフが、どうして自分に会うのを楽しみにしていたのだろうか。
首を捻るルイーズに、ソレンヌがそっと顔を寄せ、耳打ちする。
「実は、お姉様の噂を騎士団の方々から聞いたそうなのです。総帥に認められるほどの力を持ったお姉様に、以前から興味を持っていたようでして。一度お会いしたいと仰っていたそうですわ。それに、グエナエル様やマティアス様に何度もお願いしたのに、毎回お断りされていたそうで……きっと、今日という日をより一層楽しみにしていたのだと思いますの」
「なるほど……」
ルイーズは、騎士団の訓練に混じって修行していることを、特に隠してはいない。むしろ、それも彼女の計画の一部だった。ただ、八歳にして総帥から直接“お墨付き”をもらったとあれば、それだけでも注目を集めるには十分だ。
実際、エドもまたそんな噂を耳にして、王都へ向かう父親の馬車に勝手に乗り込み、ルイーズに会いに来た口である。
ミュレーズ家は、王国でも名門のラクロワ家に並ぶ実力を持つ一族だ。
代々、隣国マラルメとの国境を守る南軍騎士団の長を務めると同時に、地方長官として治安と軍事を担ってきた。
マラルメ王国とは現在、友好関係を結んでおり、定期的に合同訓練なども行っているが、ミュレーズ家の人間はその中でもとりわけ好戦的なことで知られている。家族全員が武を誇り、力を競い合う血を引いているのだ。
エドも例に漏れず、初対面のその日にルイーズへ模擬戦を申し込んできた。
ソレンヌと同い年で、ルイーズよりひとつ年下とはいえ、騎士の名門に育った彼女は自信満々だった。だが、いざ戦ってみれば、結果はルイーズの圧勝。
──もう少し、加減するべきだったかもしれないわね……
ルイーズは少し反省した。けれど、エドの攻撃は油断すればすぐに喉元を狙ってくるような鋭さがあり、つい本気で応じてしまったのだ。
エドとは良好な関係を築いておく必要があった。──とある計画のために。
それが故に、第三王子の婚約者候補という立場を得て、ソレンヌへと近づいたのだから。
しかしその心配は杞憂に終わった。エドは、自分と同じように真剣勝負ができる相手──それも同年代の同性に出会えたことを、心から喜んでくれたのだ。
以来、ルイーズを姉のように慕うエドからの誘いを受け、今回この辺境の地まで訪れることとなったのである。
「本日は戦いに来たのではなく、あくまで遊びに来たのですけれど……まあ、聞き入れてはくれないのでしょうね」
ルイーズはため息まじりに呟きながら、視線を前に移した。
そこでは、どちらが先にルイーズと手合わせをするかで揉めているミュレーズ兄妹が、まるでじゃれ合う子犬のように言い争っていた。
「……そうですわねぇ」
そんな兄妹の様子に、いとこのソレンヌも苦笑いしながら頷く。ルイーズは肩をすくめて、観念したように空を見上げた。