一話 夢現
どこで間違えたのだろう。
冷たい視線が突き刺さり、体温が急激に低下するのがわかった。
「ルイーズ・カプレ嬢、君には失望した」
彼の声は低く、怒気を孕んでいた。
その一言がルイーズの心を震わせ、血の気が引くのを感じる。心臓の鼓動が耳に響き、なぜ彼がこんなにも怒りを抱いているのか理解できなかった。
「聞いているのか!君は俺の大切な人を危険な目に合わせた」
向かい合う銀髪の男性が、隣に立つ女性の腰を引いて、ルイーズに対して警戒心を示すように冷徹な目を向けた。
彼は、ハニーピンクの髪と、蜂蜜色の瞳を持つ女性を腕に抱いている。
スタニスラスに似た顔立ちをしたその男性。
かつては、互いに愛し合った者同士だったはずだが、今や彼の隣には自分ではなく、他の女がいる。
その事実が胸の奥深くを引き裂くように痛んだ。
「──さ、ま。わたくしは貴方のためにっ」
「俺の為と言いながら、結局は自分のためだろう。俺は君に何かを頼んだ覚えは一切ない」
冷徹な言葉が突き刺さる。
その声の冷たさに、彼の目に映る自分が凍りついてしまいそうで、ルイーズは思わず顔を俯けた。
「返して……」
呟かれた言葉は、誰の耳にも届くことはなかった。
胸の中に広がる空虚感、切り裂かれた傷口から流れる痛みが全身を巡っているようだった。
スタニスラスの訃報を知らされたのは七歳の頃。最愛の人を失ったあの日から、ルイーズの世界は色を失った。
その後、第三王子の婚約者として選ばれたが、すべてがどうでもよくなった。
言葉数が減り、笑顔は消え、瞳の輝きも失われていった。
ただただ、機械のように日々を繰り返すだけの毎日。
それが続いたのは、十五歳になり、学園で彼に再び出会うまでだった。
「約束したのに……」
彼に出会った時、スタニスラスが戻って来たのだと思った。
自分との約束を果たしに、再び自分に会いに来てくれたのだと信じていた。
しかし、それは違った。
スタニスラスによく似た彼は、すでに別人となり果て、別の女性を愛した。
「お願いです。貴方は本当に忘れてしまったのですか?わたくしのことも、あの日の約束もっ」
「確かに俺は幼少の頃の記憶が欠落している……」
「ならば!ならば、今思い出して下さいませっ!わたくしはずっと貴方を愛しておりました!貴方もわたくしを愛していてくださったではありませんか!!」
何度繰り返しただろうか。
彼に出会ってから、何度も何度も、この台詞を言い続けた。
スタニスラスに似た彼は、七歳より前の記憶がない。
ルイーズは信じていた。記憶を失っていても、彼が最愛の人であることに変わりはないと。
名前も、一人称も、喋り方も、性格も何もかも変わってしまっていたが、あの透き通るような青い瞳だけは、幼少期のままだった。
「愛してるというのなら、なぜ彼女のように努力をしなかった。君は口だけだ。俺は彼女に会って、彼女は俺の心を埋めてくれた。俺は心から彼女を愛している。昔は君に愛を囁いたかもしれないが、人の心は移ろいゆく。君が本当に魅力的な女性であれば、記憶がなくとも再び惹かれたはずだ」
──あなたがそんなことを仰るのですか?
ルイーズの胸に広がるのは絶望だけだった。訃報が届いたとき、どれほどの絶望に包まれたか。愛した人の葬儀にどんな思いで参列したか。どれだけ悲しくて、寂しくて、会いたくて、何度も何度も逢いにゆきたいと願ったことか。
スタニスラスがいない毎日は色褪せ、無気力になっていった。どれほど努力しても、その先に彼はいない。すべてが無意味に思えた。
「貴方様の愛が得られないのなら、どうか死んでくださいませ」
他の女と添い遂げる未来など見たくない。そんな未来なら、もう要らない。ルイーズは意を決し、人体を貫通するほどの水流でウォータージェットを放つ。
目の前にいる、スタニスラスに似た男は、隣に立つ女性を遠ざける。ルイーズの口元が微かに上がる。最初から狙いは女性ではなかった。
「安心してくださいませ。決して一人にはしませんわ。直ぐに私も後を追いますから、少しだけ先にあの世で待っていてくださいませ」
男を殺して、そして自分も死ぬ。現世で手に入らないのなら、共に死んで死後の世界で一緒になるのだ。
「いや、やめて……」
──ああ、本当に憎い。
彼女の能力も、存在も。最初から女を先に殺すべきだった。女の保有するストレンジは【無効化】。
ルイーズが放ったウォータージェットは、その女によって打ち消された。
「ごぶっ……」
氷でできた杭が、ルイーズの身体を貫通する。ルイーズが放ったウォータージェットに対抗するため、目の前の男性から放たれた氷の塊だった。
氷の杭はウォータージェットと相殺される強度で出来ており、ウォータージェットが消失したことにより、直線上にいたルイーズの肉体へと深く突き刺さった。
空気が漏れるような呼吸音が響く。
「スタ……さま……っ……ん……さま……」
ああ、寒い。冷たい。冷えゆく体よりも心が凍りそうだ。
「スタン……さま。わたくしも……だい、す……き」
迫り上がる血が口から吐き出され、声にならない声が必死に発せられる。手を伸ばすが、彼までの距離は限りなく遠い。
男性の腕の中には、今、彼の寵愛を受けている女性がいる。男は女性の肩を抱き寄せて、ルイーズの死に際を眺めている。
ルイーズの瞳には、すでに世界の景色は映っていなかった。愛しい人の手で、この命を終わらせることができるなら、それで良かったのかもしれない。
遠のく意識の中で、幼い頃のスタニスラスとルイーズが、エヴリーヌが温かく見守る中、箱庭を駆ける。楽しかった日々、毎日がキラキラと輝いていた。
大好きで暖かく、第二の母のようだったエヴリーヌ。彼女の元へ、今度は自分も行ける。愛してやまない彼によって、大好きでずっと会いたかった方の元へ行ける。
現世は辛いことばかりだった。やっと解放されるのだと、ルイーズは幸福感に包まれていた。
事切れる瞬間、目の前に映るのは、遠い記憶の中の愛しい人。七歳の時で止まった、スタニスラスが目の前にいた。
「あぁ……そんなところに、いらっしゃったのですね……」
その言葉を最後に、ルイーズは息を引き取った。
⸻
『覚えていて?僕は君のことが大好きだよ』
『わたくしはお戻りになる日をずっと待っています。何があろうと、一生忘れませんわ。約束です……スタン様』