ナイスパ!
黒い文字が続くチャット欄に、突如として現れた長方形の赤背景に白い文字。
「猫音ニャンちゃん今日も可愛いニャン! 結婚しようニャン! 俺が養うニャン!」
またあいつだ。「肉欲マン3世」だ。
チャット欄の上部にデカデカと輝く「¥10,000」。「ナイスパ!」、「ナイスパ!」、「ナイスパ!」と下から上にどんどんコメントが流れていく。
「あー! 肉欲マン3世さんいつもありがとう! とっても嬉しいニャン!」
画面上では、猫のコスプレをした女の子のキャラクター、3Ⅾモデルの猫音ニャンちゃんが可愛い笑顔を振りまいている。ひとしきりの「ナイスパ!」を終えたチャット欄には「また肉欲マンw」、「大富豪だな」といった言葉が書き込まれていく。
俺がニャンちゃんの配信を見始めたのは3か月ほど前からだ。可愛いサムネイルに惹かれてなんとなく動画のリンクをクリックしたら、あっという間にハマってしまっていた。声が綺麗で、聞いているとなんだか落ち着くのだ。どんなゲームをやっていても反応がとっても素直で新鮮で楽しいし、攻略を教えてあげると嬉しそうに「ありがとう!」って言ってくれるのが心をくすぐって仕方がない。
ある日俺はニャンちゃんにどうしても俺のコメントを読んでほしくなった。だから投げ銭をした。240円。
「あー、ありがとう! えっと、初めましてだね? 温玉牛丼さん! とっても嬉しいニャン!」
視聴者たちの「ナイスパ!」もほどほどに、チャット欄に書かれた240円の文字は数十秒で消えてしまったが、俺はニャンちゃんが俺のユーザー名を読み上げてくれたのがうれしくて、とてもうれしくて、その日は興奮して眠れなかった。その日の配信が終わった後、ニャンちゃんの過去の動画や配信を漁りまくった。ニャンちゃんをネットで検索しまくった。
一体、ニャンちゃんの正体は誰なんだろうと思った。こういった3Ⅾモデルを利用した配信者は過去に別の配信サイトで配信者をやっていることが多いらしいから、本名や顔がバレている人も多い。もしかしたらその正体がわかるかもしれないと思うと期待が膨らんで心が破裂しそうだった。きっと中身も可愛いに違いない。絶対に探し出してやると思った。
しかし、ニャンちゃんの正体は分からなかった。それもそうだ。ネット検索なんかで中身がバレたら、実生活で弊害があるだろうから、分からないほうがいいのだ。俺は自分に言い聞かせ、健全にファンを続けることにした。そして、今に至る。
「あ、真・ニートさんこんばんは。今日も応援ありがとう! 嬉しいニャン!」
「猫大好きさんこんばんは! とっても嬉しいニャン!」
「読まれたら俺とニャンが結婚さんこんばんは! 結婚はしないけどありがとう。嬉しいニャン!」
チャット欄にいつもの面々の名前が現れては、ニャンちゃんがそれを読み上げていく。続いて「ナイスパ!」、「ナイスパ!」とコメントが書き込まれていく。その流れは投げ銭のたびに行われ、配信の最後に名前をもう一度読み上げてもらえる。自分の名前が読み上げてもらえるのを今か今かと待っていると、日常では味わうことのないドキドキを感じることができる。
俺は配信が盛り上がったところで、いつものようにメッセージを書いて投げ銭をした。チャット欄に現れる特別な背景には、気合を入れた俺のニャンちゃんへの思いが書かれている。
その直後だった。チャット欄にデカデカと現れた「¥10,000」の文字。またあいつだ。肉欲マン3世。
「あ! 肉欲マン3世さん! 凄い! 本当にありがとう! 私がんばるよー」
「すげええええええ」、「マジで金持ちだな」とチャットが続く。
絶望だ。俺のなけなしの投げ銭は、肉欲マン3世の力にかき消されてしまった。一気に気分が悪くなり、俺はブラウザを閉じた。
動悸がする。せっかくの俺の楽しみを、どこの誰かもわからないクソに奪われてしまった。こんなに腹立たしいことは無い。現実から逃れるための配信に金の力を持ち込まれると、見ているほうは興が覚めてウンザリすることくらい分かるだろう。なにが「ナイスパ」だ、バカバカしい。
気分を落ち着けるためにコンビニへ向かった。小腹が空いているから、なにか食べれば少しは気分が収まるだろうと思った。
深夜の外の空気はひんやりとしていて落ち着く。歩きながら、周囲に誰もいないことを祈る。夜道で他人とすれ違うと、腹が立つからだ。
運良く誰とも出会わずにコンビニにたどり着くと、店内にはいつも見かける外国人店員がいた。時給1200円の哀れな異邦人。彼はいったい何が楽しくて生きているのだろうか。
うんざりするほど明るい蛍光灯の白い光で照らされた店内をうろうろし、俺はいくつかの惣菜と菓子、飲み物を選んでレジまで運んだ。店員は慣れた手つきでレジを打ち、俺に金銭を要求した。俺は財布からもたもたと小銭を探して、数十秒かけて会計を済ませた。
ふと目線を横にやると、緑の募金箱があった。どこかの貧しい国に寄付するらしいが、中身はあまり入っていないようだ。
裸のままの商品をつかんで、俺は店を出た。有料ならば袋はいらない。
「ありがとうございましたぁ」
背後から感情のない声が聞こえる。きっとあいつはこう思っているはずだ。「面倒くせえからこんな時間に来るんじゃねえよ。さっさと帰れ」と。間違いない。
街灯に照らされてほとんど星の見えない空を眺めながら俺は歩いた。俺もどこかで輝く星なのだ、と昔は信じていたが、今は誰にも見えない闇の中にいる。
誰にも会いたくない、比べられてしまうから。それはちょうど、俺がほかの誰かをそうしてしまうように。
部屋まで帰ってくると、椅子に座ってPCのスリープを解除した。コンビニで購入したソーセージを齧り、ペットボトルのお茶を飲んだ。まあまあの味。
ちょうど、ニャンちゃんの配信が終わろうとしていた。チャット欄にはまだ「¥10,000」の文字が輝いている。うっとうしい。
「今日も見てくれてありがとうねー。それじゃあ最後に、今日応援してくれた人たちのお名前読み上げますよー」
可憐なニャンちゃんの声が聞こえる。彼女はいったいどんな顔をしているのだろう。どこに住んでいるのだろう。どんな人生を送っているのだろうか。
配信を見ている人間は、誰も本物の彼女の姿を知らない。だがそれでいいのだ。俺の人生を満たしてくれるのは「猫音ニャン」であり、その背後にいる誰かではないのだから。
「――真・ニートさん、猫大好きさん、読まれたら俺とニャンが結婚さん、温玉牛丼さん、肉欲マン3世さん――」
俺の名前が読み上げられた。これで今日も安眠することができる。
温玉牛丼。本当の俺の名前ではないのに、彼女に覚えてもらうとどうしてこんなに嬉しいのだろう。
それはきっと本当の俺なんてものはこの世に存在しないからだ。今の俺はこの瞬間にはネットユーザーの「温玉牛丼」であり、他の誰でもない。俺は俺を「温玉牛丼」として「猫音ニャン」に認めてもらえたから嬉しいのだ。
部屋の電気を消して、ベッドに横になった。スマートフォンのブルーライトが目に痛い。
しばらくSNSを徘徊した後、スマートフォンを放り投げて目を瞑った。
ふと、思った。
「温玉牛丼」でないのなら、今の俺はいったい誰なんだ。誰も知らない本当の俺。他の強い明りに消され、もはや夜空に浮かぶことのない六等星。
俺はいったい誰なんだ。何者なんだ。
ネットで調べても出てこない。当たり前だ。そんなことは、誰も知らないのだから。