6
互いに見つめ合ったままの状態で過ぎていく沈黙の時間が、ほんの少しだけ居心地悪く感じた頃。
場の空気がふっと緩むように、大和が笑ったのが分かった。
「すごく戸惑ってる。相当驚かせちゃったみたいだね」
優しい笑みで瑠菜の顔を覗き込みながら大和はそう告げる。
怖いほどに真剣だったあの表情が消えたことで、瑠菜はホッとしたように大和の言葉に頷いた。
「もう一度同じことを言うけど、あれは本気。冗談なんかじゃないよ?」
それはさっきのあの時間でよく分かった。
決して大和がふざけた冗談で口にしたことではないということくらい。
そう。
冗談ではなく本気だと大和が口にしているからこそ瑠菜は戸惑っている。
なぜ、自分にそこまでしてくれるのだろうかと。
「宇佐美さん、そう難しく考えないで?」
「えっ?」
「あくまでもこれは自衛手段の一つとして言ってるだけだから」
「えっと……それって、一体どういうこと……?」
続く大和の言葉にますます戸惑いながら、瑠菜は言葉の真意を問うため大和に質問を重ねた。
「まぁぶっちゃけると、付き合っているフリ、だね?」
「付き合っているフリ?」
「そう。付き合っているフリ」
「どうして……また、そんな……フリだなんて……?」
予想もしていなかった言葉が大和の口から出たことで、瑠菜の驚きが更に大きくなった。
最初の『付き合おっか?』の言葉だけでもかなりの衝撃を受けたというのに、それが更に『付き合っているフリ』だと言うのだから尚更だ。
自衛手段の一つだと大和は言うが、どういう思惑があってのそれなのかが瑠菜にはさっぱり分からない。
「別にフツウに付き合ってもいいんだけど、宇佐美さんにそれはハードル高いでしょ? 元々が男ニガテそうな感じだし、今回のアレでまた更にニガテ意識に拍車がかかっちゃったんじゃない?」
「うぅっ……!」
「でしょ? ニガテなのにホントに付き合うとか宇佐美さんには拷問じゃん? だから敢えての『付き合っているフリ』ってワケ。形だけの関係ならそこまでニガテ意識は出ないで済むだろうから宇佐美さんにはそっちの方がよさそうだって思ってさ。そういうワケで、もう一度同じことを繰り返しての言葉になるけど……」
再び大和の顔に人好きする明るい笑みが浮かんだ。
「オレたち、付き合おっか?」
再度告げられた大和の言葉は決して冗談なんかではなく、至って本気の発言。
けれどもそれは、本当の関係ではなく、嘘の……偽りの関係を築くために必要な、瑠菜のことを思っての提案だ。
何も事情を知らない第三者の目で見れば、嘘の告白をして偽物の付き合いを始めているのだと取られてもおかしくはないだろう。
だが、あくまでもこれは瑠菜のためを思って大和が言ってくれていることであって、決して瑠菜を傷つけるために言っているのではないのだ。
「もしかしたら宇佐美さんはよく分かってないのかもしんないけど……」
「?」
「誰かしら付き合っている相手がいたら、それだけである程度は合コン回避できるんだよね」
「そうなの?」
「うん、そうなの。彼氏持ちの女のコはそうそう合コンに誘われたりはしない。彼女持ちの男もまた然り」
尤もな大和の言葉を聞いたことで、瑠菜は瞬きも忘れ、驚きの表情を隠せないままじっと大和の顔を見つめた。
「……ってことはだよ? オレとキミが付き合ってる、ってことにしておけば、この先オレもキミも嫌~な合コンに参加せずに済むってワケ」
「それは……」
「願ってもないことでしょ?」
まさにその通りな心の内を言い当てられて瑠菜は何度もコクコクと頷く。
「特に宇佐美さんに至っては、いいこと尽くしなんじゃないかな? 合コンに誘われずに済むようになるし、何よりも、今日みたいに強引に迫られてお酒を飲まされるような目に遭うこともなくなるよ?」
「……あっ」
『本当だ……』という微かな呟きが聞こえて大和は満足そうに笑った。
自分の言わんとしていたことがきちんと瑠菜に伝わっていたことに対する安心感から出た笑みだ。
「ね?」
「う、ん……」
一応理解はしてもらえたようだが、心の奥底の方に未だ戸惑いや躊躇いがあるのか、さすがにすぐに頷けるような状態ではないのはひと目で分かる。
恐らく瑠菜は大和に対して気を遣っているのだろうが、当の本人である大和からして見ればそんな気遣いなど全くの無用だ。
だから『気にするな』と言わんばかりの笑顔で、瑠菜に答えを促すための言葉を口にする。
「ってわけでどお? オレなら最強の虫除けになれると思うんだけど?」
明るい笑顔とともにそう告げた大和の言葉は、瑠菜にとってはまるで『そうしなよ』って言われているように聞こえた。
そこには恋の感情や、甘い響きが含まれているわけでもなんでもない。
なのにどういうわけか、大和の言葉には、優しく引き寄せられるように素直に頷いてしまいたくなる不思議な力を感じてしまうのだ。
総じてそれは『大和という人物』の『人柄』がそうさせているのだろうが、それだけではない別の何かがあるようにも思えてますます不思議な感じがした。
狙われていた獲物、というわけでもないのに、いつの間にか囚われの身になってしまった気分だ。
けれどそれは決して、痛くも苦しくもなく、ただただ柔らかな何かで包まれているような、温かで優しい空間に閉じ込められているかのような感覚に似ている。
────否定、したくない……
正直に感じた瑠菜の思いはこうだ。
大和の言葉を否定したくない。
自分を守ろうとして言ってくれた言葉だ。
抗う理由も拒絶する理由もない。
何よりも……
その言葉に頷いてしまいたいという気持ちが少しずつ瑠菜の中に芽生え始めている。
「存分に利用していいよ、オレっていう存在を。それだけで、良からぬことを考える輩から十分にキミを守ってあげられる」
揺れる瑠菜の気持ちに更に揺さぶりをかけるように、大和の言葉が誘惑を重ねてくる。
頷きたいけれど、でも即座にはできない。
気持ちが傾きかけているとはいえ、まだまだ瑠菜の中では惑う気持ちの方が大きいからだ。
それと同時に、大和に気を遣わせて申し訳ないという思いも。
「でも……それじゃ、鷹乃瀬くんが……」
それが、遠慮を滲ませた返答となって声になる。
だが大和はそれも分かっているとばかりに言葉を繋げた。
「もちろんオレだってキミのこと最大限に利用させてもらうよ? 『オレのカノジョです!』ってね?」
「!」
「オレももう合コンとか付き合いたくないしさ~。『カノジョがいるからムリ!』って言って突っ撥ねやすくなるってことを考えると、彼女がいるっていう事実はオレにとっても非常にありがたいことなんだよね。だから、宇佐美さんが罪悪感を覚える必要なんて全然ないんだ。互いが互いに利用し合えばいいよ。自分自身の身を守るためにも。それと、心の平穏を保つためにも……ね?」
そう告げた大和の言葉には確かな説得力がある。
罪悪感を覚えなくていいという点は素直に頷けそうにはないが、合コンに誘われずに済むというのは大変な魅力だ。
たとえ偽りの関係だったとしても『大和が瑠菜の彼氏である』という認識が周りにあれば、それだけで瑠菜の身の安全は保障されているも同然だ。
そして大和もまた『彼女に申し訳ない』という理由を合コン参加拒否の口実にできるわけだ。
二人にとって、完全に利害が一致している。
いや、この場合は『害』など全くなく、寧ろ『利』しかないと言っても過言ではない。
どちらにとってもいいこと尽くめなのだ。
「宇佐美さんさえよければ、オレはそうしたいって思ってる。……どう、かな?」
明るく笑っていた顔が、徐々に優しさを帯びてくる。
決して無理強いをすることなく瑠菜の気持ちを尊重してくれるような、穏やかな笑みを向けられての再度の提案。
今度こそ、抗う理由も拒否する理由もなくなってしまった。
先ほどの言葉で、そのどちらをも大和が解消してくれたからだ。
残るのはただ一つ、大和に対する『申し訳ない』という気持ち。
だがそれも、すぐに解消されていくのだろう。
他でもない大和自身の言葉によって。
『お互いさまだよ』───なんて言ってくれるのだろうか。
あるいは、『自分も同じだから』───という言葉を聞かせてくれるのだろうか。
どちらにしても、大和自身がこう言ったのだ。
『互いが互いを利用すればいい』のだと。
それは即ち、瑠菜が大和に『申し訳ない』という気持ちを抱いているのと同じように、大和もまた瑠菜に対して『申し訳ない』という気持ちを抱いてくれているということに他ならない。
そうでなければ『相手を利用する』などという言葉を、よりにもよってその本人に向かって発することなどまずしないだろう。
「ね、宇佐美さん」
「鷹乃瀬くん」
「同じこと繰り返すようだけど、キミさえよければオレはそうしたい。どうかな?」
問われた言葉と同時に向けられた笑顔。
ハの字に下がった眉が、なんとも申し訳なさそうな、困ったようにお伺いを立てる時の表情に見えてくる。
その顔を見るだけで十分だった。
いや、それだけで十分すぎた。
瑠菜が問われた言葉に肯定の返事を返すには。
────大丈夫……
────この人は、信用できる人だから
────だからきっと、大丈夫……
瑠菜のことを思い、器用にも困ったような表情で笑う大和の言葉に瑠菜が頷くまで、そう、時間はかからなかった……─────