序章
一目見た時、桃の花のような人だと思った。ふわりと舞う、桃の花びらのような。それでいて美しい。
電車を待つ彼女の佇まいは、見事としか言いようがなかった。
その花の揺らめきを、もう少しみていたい。
そう思ったからだろう。彼女が通過電車へ歩みを出したとき、僕は反射的に彼女の腕を掴み、柔らかな重みをこちら側へ引き寄せた。
間一髪だった。あと1秒遅ければ本当に散ってしまっていたかもしれない。
勢いでホームに倒れる。尾てい骨を打ったが、彼女の無事に比べればこんな痛みなどどうったってこともない。初めて会った人であるのに、僕は不思議とそう思った。
腕の中の彼女は驚いたようにこちらを見る。無理もない。見ず知らずの男に、自分のしようとしていることを止められた上に、軽く抱き合うような体勢になっているのだから。
彼女の目から露が1滴伝った。会ったばかりの僕には、その露の意味も、なぜ彼女が電車に飛び込もうとしたのかもわからなかった。
彼女がはっとした顔で露を拭う。
「ご、ごめんなさい。」
今にも消え入りそうな声だったが、声も容姿のように美しかった。
彼女は立ち上がり、僕に一礼した。その礼には戸惑いが隠れているように思えた。
「あのっ。」
僕は立ち去ろうとする彼女の後ろ姿に声をかけた。美しい花を枯らしたくなかったのかもしれない。
「また…お会いできますか?」
彼女は驚いた顔をした。初対面の男に言われたのだから、これもまた無理もない。
「え、あ、ナンパとかじゃなくて、その……また、目の前で自殺しようとされても困りますし……」
慌てて弁明する。真意はナンパになるだろ、と心の中でツッコむ。だが、自殺して欲しくないと思うのは本心である。
彼女は驚いた顔をしたあと、すこし笑った。
「お会いしましょう。また。」
そう言って彼女はホームの階段を駆け上がっていった。
内心ほっとする。会う約束をしてくれた。これは命を救ったことになるだろうか。わからないけれど、心から安心している。あの時僕は何も出来なかったから。
ここから僕らの、花を枯らさないための物語が始まった。