☆閑話:異世界に居た彼の話:第六話
彼女が怖い思いをしただろうとわかっていたのに、俺は自分の事にいっぱいいっぱいで。
あの日城に戻るや否や彼女を置いて先に部屋に帰った己の情けなさに呆れてしまう。
翌日、俺は憂鬱な面持ちで研究室へとやってくると、そこにはすでに彼女が居た。
俺の姿を見た彼女は、いつも通り俺に接してくる。
そんな彼女の優しさに安心する中、自分の不甲斐なさに、いつものように話す事が出来なかった。
彼女とギクシャクする中、最近ライト殿下がなぜか研究室へとやってくる。
彼女と何やら楽しそうに話をする姿に、苛立つ自分がいた。
けれども俺には何も言う権利はない。
あいつは婚約者でも……恋人でもないんだからな……。
不機嫌な俺の様子を覗う彼女を横目に、ある日ライト殿下が俺の傍へやってきた。
そのまま別室へと呼ばれると、俺は黙って彼の後ろをついていった。
どうして俺を……?
話しとは何だ?
仕事の事なら、こういった呼び出し方はしないだろう。
ライト殿下と研究室の奥にある応接室へ入ると、彼は座るように促す。
彼の指示通り向かいの席へ腰かけると、琥珀色の瞳が俺をじっと見つめていた。
「エルヴィン殿は彼女が今、何の研究をしているのかを知っているかな?」
「……別の生き物になる研究でしょう。それぐらい存じております」
「なら、何の為にそんな研究をしているのか知っているだろうか?」
何の為に?
只研究が楽しいからじゃないのか?
ライト殿下はニッコリと笑みを浮かべると、静かに口を開いた。
「その様子だと、知らないみたいだね。でも君には知っておく権利があると思うんだ。本人から聞くのが一番良いのだろうけれど、君はあからさまに僕と彼女を見て、焼きもちを焼ているだろう。彼女は君の不機嫌な理由に気が付いていないけれど……君のその態度に彼女はいつも怯えている。あの様子だと彼女が君に話をする事なんて出来ないだろう」
わかっているのなら研究室に来なければいいのに。
そう心の中で思ったが、口にすることはない。
ライト殿下も俺と同じ感情を彼女に抱いている事はわかっている。
しかし俺の知らない彼女を知っている事実に苛立ち、俺は拳を強く握りしめた。
「何が言いたいんですか?」
「はぁ……そう怒らないでほしい。……彼女は元の世界へ帰るために頑張っているんだよ。彼女は池からやってきただろう。そこで彼女は池の底に何かあると考えているようだ。だが人間では底まで潜ることは出来ない。だから魚になる研究をしているんだ。新しい発想だよ、本当に彼女は面白い」
元の世界へ帰る……?
彼女はまだあきらめていなかったのか……。
「彼女から聞いたんですか?真実なのですか?」
「あぁ、そうだ。疑うのなら自分で確認してみるといい。彼女は君に伝えたがっていたからね」
そう意味深に笑って見せると、そのまま何も言うことなく研究室を去って行った。
ライト殿下の言葉がずっと頭の中で反芻する中、夜も更けたとある日、研究室で彼女と二人っきりになった。
彼女はじっと魔術板を見つめたまま、うんうんと頭を悩ませている。
その姿を可愛らしいと思うと、自然と頬が緩んでいた。
いつも苛立ちの根源であるライト殿下はいない。
そう思うと聞かずには……確かめずにはいられなかった。
「その魔術が完成すればお前は帰るのか?」
そう言葉にすると、彼女はとても驚いた様子でハッと顔を上げた。
「……うん。大事な人を待たせてしまっているから……帰らないと」
その言葉に鈍器で殴られたような強い衝撃を受けた。
彼女は本当に元の世界へ帰ろうとしている事実に。
ライト殿下の言葉は真実だった。
俺はどうすればいいんだ?
育ってしまった気持ちを今更なかった事には出来ない。
好きだと、傍に居てくれと、ゆっくりと時間をかけて彼女に伝えるはずだったのに。
けれども……彼女は俺の傍から離れていく……。
彼女の中に居る忘れていない大切な存在に会うために……。
その事実に胸が張り裂けそうなほどに痛み、息苦しさに胸を掴んだ。
彼女が居なくなる現実を受け止める事なんて出来ない。
心がそう強く叫ぶと、俺は求めるままに彼女の傍へ近づいていく。
月明かりに照らされた美しい漆黒の瞳を見つめながらに、俺は手を伸ばすと……彼女は何かを思い浮かべているのだろう……今までに見たことがない幸せそうな笑みを浮かべていた。
そんな彼女の表情に俺はグッと拳を握りしめると、彼女に触れることなく、逃げるように研究室を出て行った。
そうして俺は研究室へ行かなくなった。
あれやこれやと理由をつけて部屋に籠る毎日。
こんな状態で、彼女の姿を見る事なんて出来ない。
戻りたいと願う彼女の想いを応援する事なんて出来ない。
かといって止めることも出来ない。
あれはきっと大事な人の事を考えていたのだろう。
あんな幸せそうな顔を見てしまってはどうすることも出来ないだろう。
会いたいが会いたくない、そんな矛盾した想いを抱える中、とうとうその日がやってきてしまった。
彼女は嬉しそうに魔術が完成したと、帰るのだとそう俺に伝えにきた。
そんな彼女を真っすぐに見る事が出来なくて、当たり障りない台詞しか返せなかった。
俺は本当にダメな男だ。
もっと今まで人と接していれば、もっといい答えが見つかったんだろうか。
そうして翌日の夜、彼女は魔術板を持って池の前へやってきた。
ここで彼女を行かせてしまえば、もう二度と会う事も出来なくなってしまう。
チャンスは今しかない。
彼女を引き留めないと。
この想いを伝えないと。
彼女は俺の前から消えてしまう。
もう二度と会う事も出来なくなる。
だが……彼女には大事な人がいる。
想っている相手がいる。
なら俺が伝えても無意味じゃないのか。
どうすればいい。
どうすればいいんだ。
縋ればいいのか?
行かないでくれと、懇願すればいいのか。
だが……それは彼女を困らせてしまうとわかっている。
彼女は優しい。
俺の想いを知れば、同情でも傍に居てくれるのかもしれない。
だがそれは彼女の幸せでないという事はわかっている。
俺の勝手なわがままだ。
彼女の幸せを願うのなら、言わないのが正解じゃないのか?
俺はグッと拳を握りしめると、池の中へ入ってく彼女をじっと見つめていた。
すると彼女は徐に振り返ると、俺に笑みを浮かべてみせる。
言いたい事、伝えたい事がたくさんある。
けれど何も言葉にすることは出来ない。
でもこのまま別れるのは……。
そう俺は一歩前へ足を踏み出すと、咄嗟に口を開いた。
「お前は私と居て楽しかったか」
月明かりが水面に反射し、彼女がキラキラと輝いてみえる姿が目に映る。
その様は美しく、俺は瞳の奥に彼女の姿を焼き付けていった。
「もちろん、あなたと出会えて本当に良かった。あなたに助けてもらって、魔術の事や街の事、沢山の事をあなたに教えてもらった。本当にありがとう」
その言葉に胸に熱い気持ちが込み上げると、俺は思わず腕を伸ばす。
行けないでくれ、そう口を開くが……彼女は寂し気な表情を浮かべてはいるが、彼女の瞳に俺の姿は映っていない。
彼女の心には別の誰かがいる……。
俺はグッと言葉を飲み込むと、突きつけらた現実に、目頭が熱くなっていく。
心が悲鳴上げ泣き叫びたくなる感情を、必死に心の奥へ閉じ込めると、俺は真っすぐに彼女を見つめた。
「……気をつけろよな」
「ありがとう」
彼女はそのまま池の中へ進んで行くと、手にしていた魔術板が光り始める。
池の中へ彼女が吸い込まれていくのを眺める中、彼女は大きく手を上げたかと思うと、俺に向かって振った。
次第に光が治まり、辺りがシーンと静まり返る中、俺は動く事も出来ぬまま池をじっと見つめていた。
「行かないでくれ、戻ってきてくれ、愛しているんだ、俺の傍に居てくれ、頼むから……」
もう届かないだろうわかっている、だからこそ言葉にする事が出来る。
俺は誰もいない池に向かって自分の想いを吐き出すと、雲が晴れ、水面に映り込んだ月が次第にぼやけていった。




