異世界へ行った彼女の話:第二十五話
ライト殿下はきっと研究室にいるはず。
私は廊下を真っすぐに進んで行くと、塔の階段を駆け上がって行く。
そうして研究室へやってくると、やはりそこに彼の姿があった。
「ライト殿下、ようやく完成しました。明日にでも帰ります」
逸る気持ちを押さえながらに近づいていくと、彼は寂し気な笑みを浮かべてみせる。
「……おめでとう。君が居なくなるのは正直とても残念だよ」
「そういって頂けて嬉しいです。今までありがとうございました」
深く頭を下げると、彼はグッと私の体を抱き寄せる。
そのまま彼の胸の中へ囚われると、抱きしめる腕を強めた。
「へぇっ!?ライト殿下!?」
「……僕の声は君の大事な人と似ているんだよね?」
彼はそう話しながらに、そっと耳元へ唇を近づけると、熱い吐息が耳にかかる。
「行かないで」
思ってもみなかった言葉にグレンの顔が頭を過る。
違う……彼じゃない……。
私はグレンの姿を振り払い、ハッと顔を上げると、琥珀色の瞳が静かに揺れていた。
「えーと、ごめんなさい……。私は……」
そう気まずげに視線を逸らせながら、何とか言葉を紡ぐと、彼は抱きしめる腕を弱め体を離した。
「冗談だ……気を付けて。見送りには行けないと思うけど……今までありがとう。一緒に過ごしてこんなにも楽しいと思った女性は君が初めてだった。……そうだ、帰る事は誰にも言わない方が良い。君が居なくなれば僕がうまく説明しておくよ」
「はいっ、私も楽しかったです。ありがとうございました。でもどうしてですか……?」
私は深く頭を下げると、戸惑いながらにライト殿下へ視線を向ける。
「もし……何かあって帰ることが出来なかったら、いつでも戻って来られるように。みんなに挨拶をしてしまえば、戻りづらくなってしまうだろう。君の帰る場所を、ちゃんと残しておきたいんだ」
「あっ……ありがとうございます。わかりました……本当にありがとうございます」
彼の優しい言葉に胸がジワリと熱くなると、私はまた深く頭を下げる。
そんな私の様子に、ライト殿下は背を向けると、研究室を去って行った。
そうして次の日の夜、私はエルヴィンと二人で、あの池の前へやってきた。
ここから全てが始まった。
最初は受け入れられない事ばかりで……。
でもこの世界に居る人たちの優しさに救われた。
戻ると言う事は、そんな彼らを裏切る事になるのかもしれない。
でも……戻らないという選択はないんだ。
シーンと静まり返る中、庭には虫の鳴き声が響き、暖かい風に髪が揺れる。
服はこちらへ来たときに着ていた、黒のビキニ。
池をじっと眺めると、自分の姿が水面に映し出される。
そっと爪先を水の中へ入れると、冷たさに鳥肌がたっていった。
私はグッと体へ力を入れると、そのまま池の中へ足を踏み出すと、水位が腰の位置までくるようにゆっくり歩き始める。
水波紋が私の周りを囲んでいく中、沈黙を保っていたエルヴィンの声に私は振り返った。
「お前は私と居て楽しかったか」
月明かりが照らされた彼のエメラルドの瞳に目を奪われる。
私は彼を見つめながらに笑みを浮かべると、コクリと深く頷いた。
「もちろん。あなたと出会えて本当に良かった。たくさんの思い出をありがとう」
過ごしてきた彼との生活を頭の中で思い描くと、自然と顔が緩んでいくのを感じた。
彼と出会って、私は城で暮らすようになった、
魔術を通して、彼の事を知った。
仏頂面ばかりな彼だったけれど、知れば知るほど彼の表情を見ることが好きになった。
パーティーに参加させてもらったり、一緒にお出かけをしたり……。
そして成長していく彼を楽しみに思い始める自分もいた。
この世界での思い出は、ずっと心の中に残るだろう。
この世界で過ごした楽しい思い出に、寂しいとの気持ちが芽生える中、月が雲に覆われていく。
心地よい木々の揺れる音が耳にとどき、辺りが闇に染まると、彼の顔が闇に隠されていった。
寂しいけれど……帰らなきゃ……。
「そろそろ行くね。あっ、風邪をひかないようにね!えーと、研究も頑張ってね。でも頑張りすぎなのはダメだよ。それで、あの……元気でね……。本当に色々ありがとう」
そうニッコリ彼へ微笑みかけると、寂しいとの思いが胸にこみ上げる。
この世界での事、彼と過ごした日々は楽しかった。
けれど私には大事な約束がある。
私はそう自分に言い聞かせると、真っすぐに顔を上げた。
「……気を付けてな」
彼の言葉に、私は大きく息を吸い込むと、池の底へ視線を向ける。
そして完成した魔術板を慎重に発動していくと、辺りに光が溢れだした。
そのままゆっくりと円を描いていく光に、そっと瞳を閉じた瞬間、バッサーンと、大きな水しぶきがあがると、私の体は池の中へと沈んでいく。
沈む刹那、私は咄嗟に振り返ると、彼に向って大きく手を振った。
「さよなら」
そう叫んでみるが、声は水の中へと溶け込んでいく。
ブクブクと泡が辺りを包む中、私はどこまでも続く深い池の底を見つめると、水をかきながらに闇の中へ進んで行った。