こゆるぎ
以前サイトにて一時期掲載していた短編をこちらで再掲。
まったく動じることのない侍女とかつての粗暴領主が再会するお話。侍女視点。
淡々と始まって終わります。
猫は好きか、と訊かれた。
はっきり言って、会話の意図がまったくもって掴めなかった。
陽砂が領主としての彼に初めて会ったのは、夏の気配がちらほらと感じ取れるようになっていた時分のことだった。
都から、北に位置する月白領、そこに新たに着任した領主の名を、夜刀といった。
そもそもこの月白領、長らく放置され荒れ果てた領地である。魔物の襲撃により一度は滅び、当時の領主も奥方もその時に命を落とした。夜刀はその領主のただひとりの子供だ。
魔物は王軍によって討伐されたものの、月白の地は壊滅的な被害を受け、領主不在という事態も受けて領土はそのまま国の預かりとなった。
それが、十年と少し前のこと。
身寄りのなくなった夜刀は、都の姫様の護衛となった。
元より、彼の家系は武芸に秀でた者が多く、それゆえの抜擢もあったのだろう。彼は姫様の傍で腕を磨き ―――― 磨きすぎて、半ば戦闘狂いの粗暴な性格になった。月日の流れというものは、時に本当に容赦がない。
陽砂は、姫様付きの侍女のひとりだった。だから、夜刀のことも多少なら見知っている。
とは言っても、夜刀の顔を思い出そうとしても、終始不機嫌そうに眉間に皺を寄せているか、もしくはにやりとした悪人もびっくりな笑いを浮かべているかの表情しか咄嗟に思い浮かばない。言葉を交わしたのも両手で足りる程度で、それすらも内容はすべて業務連絡でしかなかった。
粗忽で粗暴で好戦的。
触らぬ夜刀に祟りなし。
それが、夜刀に対する周囲のおおよその評価であった。
ほとんど人災扱いである。
そんな彼が、月白の地を帝から返され領主となり。
彼の地へ夜刀が着任した後二週間の間を置いて、何故だか陽砂がその地へと名指しで呼ばれた。訳が判らない。
月白の地へ行ってくださいません? という姫様直々の命に首を傾げたものの、まぁ人手が足りなくなったんだろう、とあっさりと結論付けて陽砂はその求めに応じたのだ。
それが、つい先日のこと。
そして、到着の挨拶へと赴いた陽砂に対して、新しいご領主様は言ったのだ。
「お前、猫は好きか?」
まったくもって、訳が判らない。
久しぶりに対面した夜刀の姿に、陽砂はあら? と内心で首を傾げていた。
間近で対峙すると、お互いの身長差の関係上、陽砂の目線はかなりの上向きとなる。首の後ろがちょっと痛くなるぐらいに顔を上げて真正面から夜刀を見たところで、「……あら?」と思ったわけだ。
変わったなぁ……と、そんなことを思った。
丸くなった、というのが最初の印象だろうか。
とは言っても、それは決して体型の話ではない。そんなことを口にしようものなら、さすがに問答無用でしばかれる。
雰囲気が、丸くなった。
何よりも、真正面から陽砂を見据える、その瞳が。
飢えたような光が、なくなっていた。言うなればぎらぎらしていた夏の光が、柔らかな春の陽射しに変化したような。
そのぐらいの、びっくりするほどの変化があった。
だから、久方ぶりに見た夜刀の姿を、陽砂は珍しいものでも見るようにまじまじと見やったのである。
夜刀が月白の地に着任して、もうすぐ一ヶ月 ―――― 陽砂が、彼の姿を見掛けなくなってからは、一年と半年ぐらいの月日が経つ。
ちょうどそれぐらい前から、夜刀の姿を城の中で見ることがなくなっていたのだ。
何かの折に、「夜刀はどうしたのですか?」と、直接姫様に尋ねたことがある。……あるのだが、にっこり笑った姫様は「旅に出しましたの」としか答えてはくれなかった。
どこに、というのも、どのぐらい、というのも結局何ひとつ判らず仕舞いだったが、その時の姫様があまりにもイイ笑顔だったので、陽砂はそれ以上詳しくは訊いていない。君子危うきに近寄らず。陽砂は面倒事の気配には首を突っ込まない。
そうして、旅に出ていたらしい夜刀が帰城したのが、約ひと月前。
ちょうどその頃、陽砂は別の用事でばったばたと駆け回っていたので、それを噂では聞いていたけれども、ついぞ城内で夜刀の姿を見掛けることさえもなかった。
その後すぐに、彼はそのまま月白の地へと着任。
面白いぐらい完全にすれ違ってしまっていた為、正真正銘、今が久方ぶりの対面である。
が、その状態で、話題として持ち出されたのが何故に猫……。
陽砂にはやはり訳が判らなかった。
「はぁ……。嫌いではない、というか、むしろ好きですが」
判らないが、判らないなりに首を傾げつつも素直に答えた陽砂に、夜刀は深い藍の瞳をつと細めた。
以前なら間違いなく迫力が増すだけであったその仕草も、今はただ彼の纏う雰囲気をより柔らかなものにしただけである。そういえば、いつも眉間に刻まれていた皺も、今日はまったく見当たらない。
その状態で見れば、夜刀は贔屓目なしに精悍な顔立ちの男前であったのだが、陽砂はそれに見惚れることもなく、むしろどうしたんだこの人、と内心素でツッコんでいた。何だ、この変わりよう。
領主が笑う。
陽砂の知っている彼ならば、絶対にしないであろう表情で。
「犬と猫ならどうだ?」
「猫……ですかね? もちろん犬も大好きですが」
「猫は犬と違って、わがままで気まぐれで扱い辛ぇだろうに」
「そういうところ全部ひっくるめて、可愛いと思いますけど」
脳内で、もしかしてこれは領主の偽者だろうか、いやでも喋り方は昔のままなんだけどなぁ……とある意味失礼極まりないことを考えながらも、陽砂は投げ掛けられる質問にきちんと答えてゆく。
「……で、何の確認なんでしょうか? これ」
猫の世話をしろ、ということですか? と、真っ直ぐ視線を逸らすこともなく問うた陽砂に、領主は今度はにやりとした笑みを浮かべた。
それは確かに、陽砂の知る『夜刀』の表情だった。
いわゆる、悪人顔。これに安堵するのもどうなのか、と内心で今度は己にツッコミを入れた陽砂に、領主はくいっと軽く顎をしゃくって、付いて来い、と告げた。
月白の領地は、貧しい。
ぶっちゃけなくても、とことん貧しい。
ここ数年など領主不在のまま半ば放置されていたのだから、それも当然の帰結であるのだが、それはもう切実に貧乏である。
夜刀がこの地に着任した当初、まず領主の館というものからして存在していなかったのだから相当だ。夜刀自身の生家でもある元々の領主の館は、十数年前の魔物の襲撃の折に既に瓦礫と化している。
とりあえず住む場所は必要だろう、ということで急遽建てられた館は、真新しい木の匂いがした。
館、というよりは、少しだけ立派な庶民の家といった趣のそこを、陽砂は領主の後ろに付いて歩いている。
そう苦もなく後を付いて行ける、ということは、両者の間にある歴然とした身長差を鑑みても、確実に領主の方が陽砂の歩調に合わせてくれている。そのことに気付いた陽砂の中で、再び領主偽者説が浮上した。本当にどうした、この人。
領主がぴたりと足を止めたのは、館の庭に面した一室だった。
降り注ぐ陽射しが、柔らかでひどく優しい。太陽の方角を何とはなしに確認して、ああ、ここは日当たりの良さそうな部屋だなぁ……とそんなことをちらりと思った。
「入るぞ」
短く前置いて、けれど領主は返事も待たずに戸を横へと引いた。
スパンッ! と小気味の良い音と共に開け放たれた戸の向こう側を見て、陽砂は絶句した。
きらきらしてる。
多分、それが第一印象だった。
「待たせた。連れて来たぞ」
領主の言葉が、陽砂の脳内をつるつると上滑ってゆく。領主は、親しいものに対する表情で、そのきらきらに話しかけていた。
きらきらは、人の形をしていた。
ふわふわの綿菓子みたいな、長い金色の髪。
よく見れば、伏せた長い睫毛も金色だった。その金色睫毛に縁取られた瞳は、くっきりとした菫色。肌の色は、抜けるように白い。
おそろしいぐらいに綺麗な人だった。
多分、今までに陽砂が見た中で一番。
おそらくは陽砂よりも少しだけ年下だと思われるその人は、領主を見て、陽砂を見て、きょとんと首を傾げてみせた。
子供みたいな仕草だと思う。部屋の隅に詰まれた荷物にちょこんと腰掛けて、所在なさげに足をぷらぷらとさせているものだから、尚更その印象が強い。
「領主様」
「夜刀でいい」
「では、夜刀様」
不思議そうに自分を、領主を見やる綺麗な人に視線を向けて、陽砂は問う。
「こちらのお方は、どのようにお呼びすればよろしいですか?」
「ユゥナだ」
聞いたこともないような、名前の響きだった。
正直なところ、上手く発音できる自信もない。実際、「ゆな様ですか?」と訊き返した陽砂に、「違う。ユゥナだ」と領主から即行の駄目出しを喰らった。要努力、と陽砂はとりあえずの判断を下す。
「こいつの世話を、頼みたい」
金色の綺麗な人へと視線を向けたまま、領主が言う。
見上げた先にあった領主の瞳が、思いのほか優しい色彩を浮かべて金色を見ていたものだから、陽砂は少しばかりびっくりして口にしようとしていた言葉を一瞬見失った。
完全に、愛しいものを見る目だった。何だろう、今日は珍しいものばかり見ている気がする。
「それは構いませんが……何故私に、とお聞きしても?」
もしかして自分はこのためにここに呼ばれたのだろうか、と考えつつ問い掛けた陽砂に、領主は一瞬苦虫を噛み潰したような表情を見せた。
「お前の前にも何人か、こいつの世話を頼んだんだがな」
「はい」
「全員、最初にこいつの髪の色や瞳の色を見て」
「はい」
「叫んで逃げるか腰を抜かすかだった」
「二択なんですか」
確かにこの国では、金色の髪も菫色の瞳もひどく珍しい。
民は皆大体が黒髪で、それに準じた瞳の色をしている。きらきらの、そんな色彩を宿した人間なんて、陽砂だって初めて見た。
きらきら、きらきら。
その色彩もひっくるめて綺麗だと思う。
叫ぶ心境も腰を抜かす心境も理解できずに首を傾げた陽砂に、領主はくつくつと喉の奥で笑った。
「いや、三択目だ。お前はどっちでもないらしい」
「単純に、すごく綺麗な方だとは思いますけど」
「そうだな」
のろけだろうか、領主にさらっと同意された。
「攫って来られたんですか?」
ついうっかりと思ったことをそのままぽろっと口にした陽砂に、ぐふっと領主が咽る。だってそういう風に見えたのだ。
すみません、と頭を下げれば、いや……と短い応えが返ってくる。……すごい、怒られなかった。
「そのお役目は、私でよろしいのですか?」
「お前以外には勤まらんだろ、と楪に言われた」
楪、というのは姫様の名前だ。恐ろしいことに領主は、昔から姫様のことを呼び捨てにしている。
「お前以外には無理だと楪が言った。考えてみりゃ、昔、俺の瞳を真っ直ぐに見ながら話してた侍女なんざお前ぐらいのもんだったな、と俺も納得した」
「……夜刀様とは、両手で足りる程度しか話をしたこともなかったかと思うのですが」
しかも、その全てがもれなく業務連絡だ。数秒で終わる。
妙なことを覚えてますね、と言えば、怯えもせずに業務連絡をしてくる女が珍しかったんだ、と返された。かつての夜刀の所業が偲ばれる話である。
「頼めるか?」
「どこまでご期待に沿えるかは不明ですが、私にできる限りでよろしければ」
頷いた陽砂に、領主はほっとした様子になった。あからさまにそういう表情をしたわけではないが、何となく判る。
金色の綺麗な人にもそれは伝わったのだろう、不思議そうに領主を見るその人に、陽砂は深々と頭を下げた。
「ゆな様、陽砂と申します。これからどうぞよろしくお願いいたします」
名前の発音は要努力項目だ。今は大目に見て貰おう。
顔を上げれば、きょとんとした瞳と目が合った。菫色の、朝焼けにも夕焼けにも似た空の色。
その瞳を瞬かせて、金色は領主を見る。領主は大きな手を伸ばして、ふわふわの金色の髪を掻き雑ぜた。そして、髪を撫でたのとは逆側の手で、遠慮なく陽砂を指差した。
「陽砂だ」
「ひさだ?」
「あー……、陽砂」
「ひさ?」
大きく頷いた領主に、金色はにこりと笑みを浮かべて陽砂を見た。おそろしいほどに綺麗な人は、笑った顔もそれはもう美しかった。破壊力が半端ない。舌足らずな口調と相俟って、更に効果は増大だ。
どうも言葉が通じていない様子に、やっぱり攫ってきたという見解で間違いないのだろうか、とまたしても領主が咽そうなことを陽砂は考えた。今度はついうっかりと口に出すような真似はしなかったので、とりあえずは問題ない。
「ユゥナ、これからは陽砂がお前の面倒を見ることになる。よろしくぐらい言っとけ」
「いえ、そんな……」
それがお仕事ですし、と口にしようとした陽砂だったが、隣にひょこひょこと歩み寄って来た金色が、つい、と陽砂の袖を引く方が早かった。
そして。
「ひさ、『わがままいっぱい……で、めんどうかける、けど、よろしく』?」
見事な棒読みだった。しかも語尾の上がった疑問形。
あからさまに、教えられたことをそのまま繰り返している。誰が教え込んだのかなんて、問うまでもない。
「夜刀様……」
「事実だぞ」
何を教え込んでいるのかと呆れる陽砂に、領主はしれっと悪びれた様子もない。
かと思えば。
「やたらと手が掛かる、本当に面倒な奴だ。そのうえ話す言葉も判らねぇ。お前に迷惑を掛けるのは重々承知の上で、だが、頼む」
頭なんて下げることをまったく知らなかったような男が、そんな風に、誰かの為に頭を下げてみせるのだ。
陽砂は、ただ言葉も出ないぐらいにびっくりした。
夜刀は、変わったのだと思う。
どこがどう、とは陽砂には言えない。ただ、陽砂の知る『夜刀』の面影を残しつつ、まったく違った人になっていた。
それはおそらく、金色の綺麗な人が彼へともたらした変化なのだろう。
ゆるゆると衝撃から立ち直った陽砂は、ただ短く「承りました」と口にして、再び深々と頭を下げてみせた。
これが、陽砂と領主と金色の、はじまりだった。