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なんちゃって文学もの

「とべなくても」

作者: ユリイカ

「とべなくても」



もわっとした湿気。

しらない他人の生活の香り。

プライバシーの距離をぶち破って密集する人口。


 それらすべてを乗せて、ガタゴト揺れる密閉空間ごとカクンと前に傾く。


 あっ。


 たらふく人を呑み込んだ電車の中で心臓が跳ねた。押しつぶされて、飛び出した靴が誰かの足を踏んでいる。

不可抗力とはいえ、ぐっと体重を乗せてしまう。


 っ。


 と小さく息を飲む音がすぐ真上から降って来た。顔を上げれば、ドア付近で窓を背に従えてしかめ面の少年が1人。まだ成熟しきっていないカラダが、私と同じように人混みに埋れていた。


 上背だが、全体的に薄い。色素も身体の線も。十代後半だろうか。県内でも有名な進学校の制服を着ている。黒い学ランの襟の間から覗く白いカッターシャツ。一番上まできっちり留められボタンが細い首を締めている、見ているだけで酷く息が詰まりそうだった。

 突発的に起こった事態に、関係の無い情報が頭の中を交錯していく。

謝罪を言い出すタイミングを逃した私を、張り詰めた糸のような眼差しが引っ掻く。


 どけろよ、狭いし痛い。

 眼だけでそう告げて、少年はうっとおしげに身体をずらす。慌ててその場であたふた身じろぐも、隙間なく詰められた箱の中では虚しい抵抗に終わってしまう。足を何とか退けて、小さくなった自分の陣地へ直るのが精一杯だ。動かず触らず関わらずが鉄則な空間では、それさえも酷く浮いて見える。周囲から舌打ちとため息が聞こえた。


 誰かの口の中から弾き出された音や喉の奥から吐き出された空気。すべてが重く肩にのしかかってくる。途端に罪悪感が良心の泉から湧き上がって、角膜を覆った。


 泣くようなことではない。分かっている。けれど、ちっぽけな私の両足はいつもギリギリの所で立っていた。気を張っていないと、足元から崩れて行く自分の姿を、いつも恐れていた。ちょうど、今のような姿を。でも、それ等はすべて個人の問題である。誰も肩代わりしてくれないし、まして他人にぶちまけて良いようなものでもない。


 溢れそうな涙をなんとか堪える。これまでもそうしてきたように、自分を励まして立て直す。何をだとか誰にだとか、はっきりとは分からない漠然とした不安の塊。目の前に有るのはそれだけなのだ。


頑張れ、負けるな。

 そして反省する。申し訳無い気持ちで被害者を伺えば、もうこちらなど見てもいなかった。刺すように向けられていた眼はすでに窓の外の景色を追っていた。遅れた謝罪は、声にならずに胃へと落ちて行く。居た堪れない気持ちで、もう一度少年をみる。固く引き結ばれた唇と白い頬。切れ長な瞳を縁取る緩くカールした色素の薄い睫毛。彫りの深い目鼻立ちが、少年の表情に影を落としている。窓の外を見つめる横顔は何処か儚くて脆い印象を与える。先ほど威嚇してきた獰猛な野良犬のような剣呑さはひとかけらも見当たらない。


 釣られるように窓から外側を覗く。


 ガラスは温度差で白く曇っているかと思ったが、想像よりずっと良く見える。見つけたのは空を泳ぐ翼。その下で建築物が窮屈そうに肩を寄せ合っている。じっとして動けない彼らと、躍動感溢れる機敏な生き物。後ろへと流れる景色。窓枠の額で縁取られた絵みたいだ、…いや違うかもしれない。清々しいほどの青空に鳥が飛行を楽しんでいる。遊ぶように旋回しながら、冬の到来による寒冷を確かめているようだ。誰にも邪魔されることなく、自由に空を駆る姿は生き生きとしている。囲い付きの景色に、それは当てはまるものではないような気がした。


 どうしてだろう、その時まるで電車に乗った自分が世界から締め出されたようにかんじた。

 

 窮屈で息苦しくて生き辛く慌ただしい日々。薄い氷の上を走っている、そんな世界。その向こうで名前も知らない鳥が、果てしない青を優雅に泳ぐ。地面に張られた氷の厚さなど、あの鳥には関係ないのだ。


 いいなぁ。


 ついて出た台詞が胸中ただ漏れの感想だったため、急に恥ずかしくなった。誰にも聞かれなかっただろうか、とあたりをきょろきょろ気にして見る。


 あっ。


 窓の外を眺めていた少年が此方をみていた。

 また睨まれるのだろうか。羞恥よりも恐怖の再来に、一瞬身構えた身体が再び大きく傾く。ぐっ誰かの足を踏みつけた感触に息を飲めば、真上から息を詰める音がひとつ。恐る恐る見上げた先に、少年のしかめっ面が再現されていた。明らかな苦痛の表情に少年が生きていることを知って、自分でも分からない感情をもてあます。それはすぐに違う思考にかき消された。二回目だっと、背中を冷たい風が撫でて行く。ああ、やっちゃったと目を閉じて現実を拒否。睨まれる前に今度こそ謝ろうと逃げ出した暗闇を払えば、眉を寄せてはいるが、心なしか刺すような瞳ではなかった。なんだろう。バチバチと唸る炎に油を注いだはずなのに、鎮火してしまったような気分になる。ほっとしたのも束の間、少年の腕が持ち上がり、私の袖を掴む。何だ何だ、殴られちゃうのか!哀れな自分を頭に描きながら、少年を凝視して開放を求める。離して、そう眼だけで懇願する。依然としてその表情は捉え難い。怒っているのか、嫌気がさしてもう呆れているのか。


 え、うそ。


 願いも虚しく、少年は無慈悲にも掴んだ袖をぐっと手前に引き寄せた。当然、私の身体は前方へ引っ張り出される。釣られて足を踏み出し、狭いスペースを小走りで滑る。1,2歩の距離だ。固まっている人垣を縦断する。何人かに、ぶつかりながらも、微かな爽快感。ほんの数秒のことだった。世界を逆流したような、達成感すらある。では、反対に押し寄せるこの負の感情はなんだろう。辿り着いた場所は、少年の真横。そこは窓を背に陣取っていた少年が、横向きに身体をずらして生まれた場所だった。このプライバシーの欠片もない空間での、限られた少年のスペースだ。もし個人の境界線が見えるなら、私の意思ではないにしろ、彼の所有する領域を超えて侵入したことになる。何だか、足を踏んだことよりも罪深く感じてしまう。直接的な恐怖ではない、観念的な何かがそこには蠢いているのだ。それが酷く私を落ち着かなくさせていた。


 答えがほしくて、この不安を消したくて少年を見る。少年も私を見ていた。よく知っている、見慣れた色がそこにはあった。薄い焦げ茶色の中に自分の顔が写っている。



 その時、視界の端を何かが落ちて行くのを捕らえた、絡まった視線が同時に窓へ向く。



 鳥だった。

 先程の鳥でない。

 折れてしまいそうな薄い翼、不安定に下降していく小さな体。微動だにしない家々の側で植えられた木がざわざわと手足を動かしている。強い風が吹いたんだとすぐに分かった。正解と、笑うように冷たい空気がドアの隙間から入って来た。ひぅーと電車の窓が震える。と、大きく羽ばたいたかと思うと鳥はふわりと大勢を持ち直していく。


 流れて行く景色が止まった。揺れていた車内が嘘のように静かになる。アナウンスとともに箱が開き、人並みに押し出されるようにして私と少年は外へと連れ出された。何の迷いもなく改札口へと向かう靴たち。少年の履き潰された革靴と私の先の尖ったパンプスだけがその場に取り残されていた。


ドアが閉まります、ご注意下さい。

 車掌さんの声がして慌てて乗り込む。並んだ行列が後ろから私を追い越して中の方へ詰めて行く。少年の靴はその場から動こうとしない。そういえば、あの制服の学校はこの辺りだった。振り向くか、このまま奥へ進むか迷っている間にプシューと口を閉じる電車。

 動き出す、そう思ったらそれまでの躊躇がなんだったのか嘘みたいに身体が反転していた。ドアに張り付いて、窓から駅を覗き込む。学ラン、黒い学ラン。胸の中で唱え終わる前に少年を見つけた。きっちり着込んんだ制服の上で白い顔が私を待っていた。


 もうそこには、眉間の皺も鋭い目つきもない。あどけない、少しだけ照れ臭いそんな笑顔ですっと手をあげる少年がいる。空を指差していた。


 小さくなっていく少年が何かを呟いた。声は勿論聞こえない。電車がガタゴト代わりに言っているだけだ。


 いいよな。

 多分、少年はそう口にした気がする。


 

 窓に写っている自分の顔は何時の間にか笑っていた。



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