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「で、なかなおり?」
翌朝、誰から聞いたのか俺が教室に入るなり泉水がそばに来てひやかすように笑った。
「仲直りってなあ」
カバンを置きながら、自然とため息が出る。そもそも誰と誰が喧嘩してたんだ。
「まあ亮ちゃんが一方的に嫌がってただけだよね。冷戦解除? 雪解け? どっちにしてもいいきっかけになってよかったよね」
「なんのきっかけだよ」
「え」
泉水はわざとらしく両手で口を押えて見せた。
「アホか」
早朝から満員のバスでの通学と、容赦ない朝練で身も心もくたびれきっているので、つまらないことを言われても突っ込む気力が残ってない。
が、確かに夕べ有坂が家にいる間はいつもの頭痛も不快感も、全く感じなかったことを思い出した。
仲直りじゃないが、そういう要素が氷解したのならありがたい限りだが、どうなんだろう。
「ふうん、頭痛もしなくなった感じ?」
泉水は興味津々という体で俺をのぞき込むようにした。
「……どうなんだろな」
痛むというほどではないが頭の芯にじんわりと重くのしかかるこの痺れに似た感覚は、もうこの短い間にすっかり慣れて当たり前みたいになっている。
「……そっか。やっぱ治らないねえ」
何故か泉水がひどく残念そうに視線を落とした。別にお前のせいじゃないだろう、と思ったが口には出さなかった。
「そのうち治るんだろ? 夏が来るころには」
泉水が何度も口にしたフレーズを言ってやると、しかたなさそうに笑ってみせた。
「だといいねえ」
「……おい」
根拠があって言っていたとは思ってなかったが、急にあやふやになられるとガッカリするのはなんでだろう。
「まあ、いいんだけどさ……」
何がいいのか言ってる自分もわからないままあやふやに呟いて、なんとなく話の流れから窓際へと視線を向ける。
有坂幸夜とその一味がこれまたいつものように集ってなにやら楽しそうに喋っているのがちらりと視界に入り、ずきりとこめかみが痛むのと同時に俺は眼をそらした。
窓から多少の風は入るのかもしれないが、このくそ暑い中好き好んで直射日光があたるところにかたまらなくてもいいような気がするんだが。まあ、大きなお世話だろうが。
「有坂君、いい人だよね」
どうやら同じ方向に視線が向いていたらしい。泉水がぽつりと呟いた。
否定する気もさらさらないが、あえて音声に出して賛同するつもりもなくて黙ったまま机の中からペンケースを取り出した。先に一時限目の準備だ。
「どしたの、急に怖い顔して」
「いいや、別に」
泉水がけげんそうな顔をしているが、スルーだ。教科書も出してしまった。これでノートも出し終えてしまえば、もうすることがない。
俺は心の中で三つ数えて覚悟を決めてから、すばやくカバンの中から小さい紙袋を取り出すとおもむろに立ち上がった。泉水が驚いた顔をしているが、フォローしなかった。その余裕がなかったからだ。
別に緊張するようなことではない。はずだ。というか、泉水を使えば物事は簡単に解決することはわかっている。わかってはいるが、そうもいかんということもたまにはあるのだ。
「有坂」
オーバーなボディーランゲージをまじえて喋っている女子の話を笑って聞いている有坂に声をかける。
ちりちりと心臓までが痛むのは、緊張しているのかいつものやつの派生なのか。さっぱり区別がつかないが、この場合どっちでもいい。
背中に興味心身で事態の推移を見守っている泉水の気配を感じるが、無視だ。
予想しない人物(俺だ)に呼ばれて驚いたのだろう、有坂はちょっと目を瞠ったがすぐに仲間に片手をあげて断るとこちらへやってきた。
「今日は具合大丈夫?」
第一声がそれか。
「あー、まあな。おかげさまで全然」
「なら良かった」
有坂は善意にあふれた笑みを浮かべた。
「んー、いやそれでだな」
「うん」
「これ。うちの母親から。昨日の礼に。お前に渡せって」
汗ばんだ手で後ろに隠していた紙袋を強引に有坂に押し付けた。これで俺のミッションは完了のはずだ。
「え?」
有坂は驚いている。そりゃあ驚くだろう。というか、男同士でなんかキモチ悪いだろう。俺も激しく同感だ。
中身はおそらく母親の手作りマドレーヌだ。それもいっそうキモさを引き立たせるがわざわざ家まで送ってもらったのだから、と母親がごねる俺に無理矢理もってこさせたのだった。
「悪いよ、そもそもこっちこそ夕飯までごちそうになっているのに」
「俺に言うな。あくまでも俺からじゃなくてうちの母親からだから。俺は単なる配達人、メッセンジャーだ」
有坂が受け取りかねて苦笑いしているのは、単に遠慮しているのかそれとも男からの贈り物が気持ち悪いのか判別しかねる。
「いらなきゃ捨ててくれて構わないし。とりあえず形だけ受け取ってくれたらそれでいいから」
「いや……そんなことはしないけど」
有坂はちょっと非難がましい視線を俺に向けた。別になにも有坂が貰ったものをいきなりゴミ箱に投げ捨てるような人間だと思って言ったわけではないのだが、誤解を生んだようだ。
「お母さんにちゃんとお礼を言っといて。ありがとうございました美味しくいただきますって」
「おー……」
もしかしたら、もしかしなくてもこれは皮肉だろう。いつもおっとりしているように見えて、こいつもしっかり攻撃する時はしてくるらしい。
渡してしまえばもう何も用はないのだが、妙に母親が張り切って可愛くラッピングした包みのやりとりだけして離れるのもはた目に気持ち悪い気がしてなんとなく立ち去りづらい。
かといって話すことも特にないので、気まずい空気が流れた。泉水の言うようには仲良くなっていたりはしないのだろう。
「じゃあー、まあそういうことで」
ぐずぐずしていてもしかたないので、強引に話を打ち切って席に戻った。泉水が待っていたが何か言いたそうな視線は俺にではなく、肩ごしに向けられていてそこでようやく有坂がついてきていたことに気が付いた。
なんか忘れ物でもあるのかと口を開きかけたが、どうやら有坂も俺に用があるわけではなかったらしい。まっすぐに視線は泉水にだけに注がれている。
二人とも妙に真顔に向き合って、これからHRが始まる朝の教室に似つかわしくない雰囲気をかもしだしていた。
というか、俺が邪魔者感がアリアリなのだが自分の席なのでどっかに行くのも不自然すぎてどうにもしづらい。
「……高野さん」
有坂が言いにくそうに泉水を呼ぶ。どちらもが気まずそうなのはやっぱり俺がいるからだろうか。
泉水はじっと有坂を見つめている。
「わかってると思うけど、もう時間がないよ」
静かな声が何を指して話しているのか当然俺にはわからないが、泉水には心当たりがあるらしい。目を伏せて頷いた。
「うん、わかってる。だいじょうぶ」
普段俺が聞くことのない静かな声が答える。――――なにか、知らない話をしている。
けれどそれを聞きたくないと、知りたくないと反射的に思うのはいわゆる焼きもちとかそういう種類のものではない、気がした。
嫌悪感がある。鳥肌がたつように、ここにいたくないと思う。
けれど、どこにも行く場所がない。
ここは嫌だ。
しかし俺の内心の葛藤になど誰も気づくはずもなく、有坂は泉水の返事を聞くとさっさと退散していった。
「…………どしたの?」
泉水は笑っている。
「どうもしねえよ、バカ」
「はぃ?!」
口をついて出た悪態に、泉水は目をつりあげた。多分文句を言おうとしたのだろう、泉水は大きく息を吸い込んだがそれをさえぎるようにチャイムが鳴った。
泉水は不満そうに立ち上がり、自分の席の方へと帰っていく。
入れ替わりに戻って来た織田が、相変わらず空気を読まず話しかけて来た。強引な力で無理矢理日常に引き戻すように。
「あ、亮一。昨日の数学の課題うつさせてくれよー」
「……俺がやってると思うお前は死んでも直らないバカだな」
――――時間がないんだ。俺もそれを知っている。
ずっとこうして、このままここにいたいのに。
翌日、泉水は学校へ来なかった。
泉水だけじゃない。
有坂幸夜も登校してこなかった。