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「うお」
目を開けるとそこは保健室だった。俺はいつのまにか病人よろしくベッドに寝かされている。
何が起きたのかわからないままあわてて跳ね起きてあたりを見回したが、残念ながら誰もいない。放課後なのだからあたりまえかもしれないが、養護教諭すらいない無人のようだ。
何がなんだか事態を把握するのに少し時間がかかったが、おそらく階段でぶっ倒れたのを誰かが運んでくれたのだろう。そして放置されている、と。
もちろん恨むつもりは毛頭ない。誰だか知らないが、何人がかりだろうと大柄なほうではないとは言え意識の無い男子高校生を一人、ここまで連れてくるのはさぞかし骨が折れたことだろう。いないので礼の言いようもないがありがたいことだ。
とりあえずベッドからおそるおそる降りてみる。さっきまでのあの嵐のような頭痛は、いつものように瀬戸内海の引き潮のごときスピードでけろりとおさまっていた。
もちろん体も柔道五輪メダリスト並にすばらしい受身ができたのか、何の問題も無く普通に動くし特に痛みもない。
一体なんだったんだ、とは思うが呆然とした気分が大きくて深く考えてみる気にもなれなかった。
とにかく帰ろうと倒れるまではちゃんと持っていたはずのカバンを探したが、めぼしい場所には見当たらない。
もしかしたら俺だけ連れてこられてカバンは階段に忘れられているのか……。面倒だが犯人は犯行現場に戻るじゃないが、階段に探しに行ってみるしかないかと心を決めた。
そのタイミングで、保健室のドアが軽やかに開いた。
「あ」
「あ」
顔をあわせて仲良くハモってしまった。
やっぱりお前か、有坂幸夜。俺は予知能力者ではないが、ドアが開く瞬間に間違いなくこいつが入ってくるとわかっていたぞ。そして、もう一つ。
こっちはどうしてもなにがあっても何とか回避したい予知があるんだか――――。
俺の葛藤など知る由もなく、有坂はいつもの人懐こい笑みを浮かべている。
「良かった、気がついたんだ。今日に限って保健の先生もいないし救急車呼ぶべきなのかどうしようかめちゃくちゃ迷ってたんだよ」
有坂はシャツの上から胸をなでおろすようにする。やっぱりか。やっぱりなのか。
「えーっと」
「もう起きて大丈夫なのか? どっかぶつけたりしてないか?」
「ああ……全然ヘイキだ。が」
「なら良かったよ、ほんと。貧血もちとかなのか? あんなに元気に走ってる割に案外持病がある人だったりするんだろうか」
「いやまったく。おかげさまで医者に太鼓判押されるくらい健康なタチだ」
最近はいろいろあったりするが、その辺は説明せずにはぶいた。お前のせいで頭痛がする、とはさすがにこの状況ではいえまい。
「そっか。ならいいんだけど。そういえば高野さんが最近桐生の調子が悪いって気にしてたしこないだの体力テストの前にも頭痛がするって言ってたろ」
俺はハッと顔を上げた。有坂には申し訳ないが話の内容よりもついでみたいに名前の出た泉水のことが気になったからだ。
「そういえば、さっき泉水ここにいなかったっけ?」
「え、高野さん?」
有坂は驚いた眼で俺を見返す。そして曖昧に笑った。
「……さあ、いたかもしれないけど僕は先生を探しに行ってたからわからないな。でもここを離れたのは十分程度だから、もし来てたらそのままいそうだけどね」
「そ、そうか」
確かにこいつの言うとおりだ。泉水が倒れた俺を置いて、とっとと一人帰って行くほど薄情ではないとわかる程度の信頼くらいは余裕であったりする。
というかいても役に立たないから帰れといわれても居座って、気がついた俺にくどくど説教するのが泉水だ。うん。
そもそも泉水に謝られるような覚えも、これっぽっちもない。なんか倒れる前にも変な白昼夢みたいなのを見ていたし、その続きかなんかだろうか。
一人結論を出して納得していたら、有坂が興味深そうに俺を見ていた。
「な、なんだよ」
「ああ、ごめん。本当に二人仲がいいんだなあ、と思って感心してた」
「…………」
なんじゃそら。どういう意味にとるべきか、俺が苦虫を噛み潰した顔をしていると有坂は取り繕うようにまた笑う。
「大丈夫なら、そろそろ帰ろう。雨も上がったみたいだ」
有坂が俺にカバンを差し出した。先生を探しに行ったついでに、俺のカバンも拾ってきてくれたらしい。どこまでもいたれりつくせりだ。
「あー、なんだそのサンキュ」
校庭の上には、さっきまであんなにひしめいていた黒雲は跡形も無く消えてオレンジ色の光が一色に染めている。
ただの夕立だ。
何故だかホッとした気分で息を吐くのと一緒にするりと嫌な気分の残滓が抜けていき、そして抜けていったことで改めて自覚する。抜歯の後のように。
なんだっけ、すごく嫌なことを思い出してたような気がするんだが。
「うお、なにすんだよ」
考え事をしながら廊下を歩いていたら、いきなり何の前置きもなく有坂の手が俺のこめかみに触れたのでめちゃめちゃびっくりした。
「あ、ごめんごめん。糸くずがついてたから。さっき倒れた時についたのかな」
有坂は人の良さそうな笑顔でそう言った。こいつのこの笑顔がクセモノという気がする。これだけ世話になっておいて、なんだが。
なんとなく並んで靴箱まで来た。もしかすると、この流れは。
嫌な予感が再び襲ってきた。そして俺はこいつに関する予感だけはわりと外さないのだ。
お互い無言のままスニーカーに履き替え、やはりなんとなく並んでそのまま校門を出る。
やっぱりか。しつこいようだが、やっぱりなのか。やっぱり今日の俺はこいつと一緒に帰宅するようになっているのか!
自転車は倒れた直後なので危険、ということで歩いて帰るよう有坂に進言されたのだ。
朝練もあるし、朝の一秒は血の一秒のごとく貴重なのであんまりバスはありがたくないのだが、助けられた身としては強く出られず勧めに従うことになった。
おかげで、駅までの雨上がりの下り坂を黙々と男二人並んで歩く羽目に陥って、死ぬほど非常に現在きまずい。
駅からはバスもあるが、タイミングが悪く行ってしまった後の時間だった。どうせ乗り込んだところで冷房の薄い帰宅ラッシュでぎゅうぎゅうのバスを、三十分待って乗るなら歩いて帰ったところでたいして変わりはしない。
ということで、家まで歩くことにした。
それはかまわないのだが歩くことにした俺に、有坂は当然のようについてくる。 別につきあってくれる必要はこれっぽっちもないのだが、心配されているのだろうと思えばきっぱり断ることができなかった。
「まあまあ、なにも急ぐ旅路でもなし。たまにはこういうのもね」
「こういうってどういうんだよ」
有坂は相変わらず涼しげな顔をしている。仕方なく俺たちは駅からも並んで歩くことになった。
左手に帝人工場、右側に役所が延々と続く長い長い一本道を特に会話もないまま、黙々と進む。
普段なら夕凪が来て一番蒸し暑い時間帯だが、一雨来たおかげか割に風があってすごしやすい日だった。
相変わらず有坂はどこまでも自然体で、沈黙も俺が全身から醸し出すきまずい空気をも全く物ともしない。
悪いヤツではないのだ。それはわかっている。苦手なタイプだとすら思ってなかったことは去年転校してきた後に、たとえ俺が現在覚えて無くても泉水に何かこぼしているだろうからその形跡が残ってない以上間違いないだろう。
ならばいつから俺は、こいつをこんなに忌避するようになったんだろう。どんなきっかけで。
いや、そもそもこいつを見たら頭痛がするのも確かだが有坂が側に来たら逆におさまることもありはしないだろうか。
「あれ、お前んちどこだっけ」
ぼんやりと考えをめぐらせていて、ふと気がついた。今更ながら訊ねると有坂はこともなげにあっさりと答えた。
「僕? 宮園町」
「なっ、お前超遠回りじゃん!」
うちがとりあえず駅からほぼ北にまっすぐならば、有坂の家があるあたりは西北西だ。
うちの近所にある川をさかのぼって行けば有坂の家にたどり着くが、それでも無駄な迂回経路ではある。
「だから急ぐ旅路じゃないって言ったじゃないか」
「そういう問題じゃねーだろ」
思わず強く突っ込んでしまったのは、別に俺が有坂と一緒に帰りたくなかったからのことではない。
――――少なくともそれだけが理由ではないはずだ。俺はそこまで恩知らずではない。はずだ……。
有坂は少し困ったように相変わらず笑みを浮かべている。
「いいんだって」
「いいと言われてもなー」
「早く帰って何があるわけでもないし。うちの父親、帰り遅いから必然的に晩飯も遅い時間になるし、夕方になればなるほどスーパーのお惣菜の割引率も高くなるしね」
俺が困惑していると、お前はどこの奥さんだよと言いたくなるような男子高校生とは思えない台詞がついてきた。
「それにしたってよー」
内心気が咎めるのは、心配されているのが落ち着かないのと夕日の中のこいつの横顔がどこか疲れて見えるせいかもしれない。
俺は食い下がったが、有坂は案外きっぱりと首を振った。
「別に桐生に気にされる筋合いじゃないよ」
「たってお前よ」
「こっちの都合もあるし。それにさ」
有坂は一度言葉を切って、珍しく視線を落とした。
「こういうのあこがれてたんだよね。うちずっと引越しが多かったから」
「は?」
何を言おうとしているのかつかみそこねて、間の抜けた声が出た。
「友達と一緒に帰宅、みたいな」
「……えーと」
「だからいいんだよ」
有坂はまたにこにこして俺を見ている、別に、俺もいいんだが泉水がずいぶん前に発言した台詞を思い出して、お互いノーマルだよなと誰にともなく確認したくなった。
「別にいくらでも誰かと一緒に帰れるだろ、お前なら。お取り巻き……じゃなくていっつも誰かにわんさか囲まれてるじゃんか」
「うん、そうだね」
素直に有坂はうなずいた。が、それだけだった。
実際こいつのまわりにはいつも誰かが囲んでいる。だからこそひがんでるのかと思われるのを覚悟で有坂は怪しくないかと泉水に相談したくらいだ。
いわれのない反感を持ってるのは俺くらいで、間違いなくこいつはクラスメートの人望を集めているだろう。それは、
こんなに目立つヤツだったかなと疑った今年に限らず一年の頃からそうだった。ような気がする。覚えてないから断言はできないが。
有坂は黙って俺の隣を歩いている。
「んで、そっちの都合ってなに」
「こっちからだと川の上のとこのスーパーが近い」
「…………えーっと自炊してんのか」
「うん。といっても、米炊いて味噌汁作る程度だけどね」
女子に言えば差し入れくらい持ってきてくれんじゃねえのと思ったが口には出さなかった。
「んじゃさ、ここまで来たんだしついでにうち寄って飯食っていけば」
このまま帰すのもなんとなく悪い気がして誘ってみると、有坂はびっくりした顔をした。
「え、いやそれは」
「用があるとか、人んちで飯食うのが苦手とかじゃなきゃ来いよ。遠慮ならしなくても大丈夫だぞ。うちしょっちゅう織田とかそのへん来ちゃ飯食って帰ってるから。泉水なんか俺がいなくても勝手にあがって勝手にうちの親と飯どころかケーキとか、自分らのぶんだけ買って食ったりしてるからな」
「はは」
有坂は思わずのように笑った。いつもの取り澄ました笑みではなく。
「桐生のまわりにはいつも誰かいるね」
「そりゃお前だろ」
意外すぎる台詞に仰天したが、有坂は苦笑しただけで何も言わなかった。
「んで、どうする」
橋まで来てもう一度俺は訊ねた。
「えーと」
有坂はためらうように首をひねった。来たくないというわけではなさそうなので、もうひと押ししてみる。
「帰りは親父が戻ってきてたら車出してもらうぞ。もしすぐに帰って来なかったら俺が母ちゃんのチャリで後ろ乗っけてやるよ」
「いやいや、それは」
有坂は少し迷うような目をしたが、結局好奇心が勝ったらしい。
「じゃあ、申し訳ないけど遠慮なくごちそうになろうかな」
「おー、来い来い」
自分で誘っておいてなんだが、おかしな成り行きになったなとしみじみ思った。夕暮れの沼田大橋を渡りながら内心で首をすくめる。
そろそろ夕方の渋滞が始まった橋は動けなくなった車でいっぱいになり、終わりかけの夕日に照らされて目が痛いくらいまぶしい。
「あ、橋のとこ工事してるからちょっと迂回な」
「え? ああ、うん……」
見たらわかるだろうが、念のため声をかけると有坂はぼんやりしていたが頷いた。
橋のたもとの枯れかけた紫陽花がからっからに干からびて風に吹かれている。
ほんの一瞬だけ何かが記憶のひだに触れて通り過ぎたが、感知する前に消えていき後々まで思い出すことはなかった。