6
それにしても今年は空梅雨で、ただでさえ続く頭痛と蒸し暑さのおかげで疲労もとれないのかそろそろ部活に毎日出ることに体がついてこなくなってきた。
雨が降りさえすれば、グラウンドが使えなくなる影響で部活も休みになったり練習メニューが大幅に減って楽ができるというのに。
低気圧で頭痛が来ることも棚に上げて、目先の楽ばかり考えてしまう。
泉水も夏バテ気味なのか、今日は少しばかりおとなしい気がする。授業終わりに有坂幸夜と教室の後ろでなにやら話し込んでたので、声はかけずにふらりと廊下に出た。
気分ものらないし、このまんま帰りたいなどと不埒なことを考えているとこういう時に限って安藤ちひろと靴箱で鉢合わせたりする。
「どこ行こうとしてんのよ」
「いや……」
偶然だとは思うが、これが女のカンだったりするともう一生勝てる気がしない。
とぼとぼとスポーツバッグを肩に担いで部室棟へ歩いていると、後ろをついてきていた安藤が大仰に肩でため息をついた。
「あんたほんっと体力ないわねー」
「ほっといてくれ」
「いい加減しっかりしないとしめしがつかないでしょ」
なにを誰にしめすというのか、安藤の台詞は俺には理不尽に感じるがあえて反論はしない。
黙って歩いてたらその態度が気に入らなかったのか、安藤はしばらくしてもう一度口を開いた。
「だいいちあんたがいつまでもそんなだったら、高野さんだって心配するんじゃないの」
「は? 泉水?」
急に出た名前にびっくりして思わず振り返ったら、安藤は見るからにしまったという顔をした。
「なによ」
「い、いや何よと言われても……」
安藤に逆ギレの様相でにらまれて、なんとなく怯んでいるうちにさっさと部室へ入っていってしまった。
言いたい放題だ。
「先輩、弱いですな~」
すごすご着替えてトラックへ出ると町田が声をかけてきた。
「うるせえよ。じゃあお前は安藤に勝てるのか」
「いやー、僕一年なんで。安藤先輩に限らず、権力者には歯向かいません。座右の銘は長いものには巻かれろ、ですから」
俺より十センチ近い背丈をしておきながら、あっさりと町田は言った。コンパスが長いからトラックでもいいだろうが、跳躍やっても良さそうだ。
というかバスケとかバレーの方がさらに体格を生かせそうなものだが。
「よく言われますけどねー」
でも陸上が好きなので、と続くのかと思ったら福島先輩のスカウトを断れなかったらしい。
「長いものには巻かれますからー」
町田はあっけらかんとしている。バレーとバスケ部はもうちょっと粘るべきだ。 とはいえ、うちの運動部には一応嫌がる人間には強制しないという紳士協定ができているのか、どこの部も喉から手が出るほど欲しかっただろう即戦力候補の有坂のことすら数日の勧誘と説得の末にあきらめたらしい。
いつでもにこにことしてたいていの頼まれごとを断らないと評判の有坂だが、こればかりはと物腰柔らかにけれどきっぱりと断っていた。
もちろん本人から聞いたわけではなく、泉水から聞いた話ではあるが。
俺としては、安藤がこの協定に含まれてないのが非常に残念だと思うだけのことだ。
「なるほどな」
「あれ、納得しちゃいました?」
「いや、俺が次の部長になると思ってやたら声かけて来てるんだな、と」
「あははは」
町田は否定せずに朗らかに笑った。俺は肩をすくめてアップを始めることにした。
隣で町田が同じくストレッチを始めるとパラパラと短距離の一年たちが数名集まってくる。
これでは短距離チームが二つにわかれてしまう格好だ。良くないんじゃないのと思うものの、かといって向こうへ行けってのも変だ。
俺が本当にリーダーにこのままならされるんだったら、こいつらだけじゃなくて他の一年や三年……はいいとして二年のヤツらも寄ってくるのを待つんじゃなくて本当は自分から指示出していかなければならないんだろう。
だが、どうすればいいのかさっぱりわからない。
そもそもリーダーになんか、なりたくないのだから。
「あ、手伝いますよ」
「あたたたた」
柔軟をやっていたら、町田が後ろから背中をぐいぐい押さえてくる。加減ってものを知らないのか、それともわざとなのかは不明だ。
俺はいろんな意味で深く息を吐く。あちこち八方塞りな感じがして俺にはもうお手上げだなと思った時。
「あ、ついでに言っておきますけど」
最初に前置きされた通りいかにもついでという軽い口調で町田が再び喋り始めた。
「あん?」
「別に、先輩のことは権力持ってる人だからとは思ってないですよ」
「…………」
それはどういう意味だ。安藤に頭を押さえつけられているからか。まあ、それはそれで間違ってない鑑定眼の持ち主ではあるが愉快な評価でもない。
「やだなー、先輩は権力じゃなくて実力の人でしょ」
「ば、バカむちゃくちゃすんなっ」
町田が最後にいっそうきつく俺の背中を押してきたので、思わず悲鳴を上げてしまった。
「でもマジで先輩身体むちゃくちゃ硬いすね」
「ほっとけ」
「でもめっちゃ-早いんすよね」
「……どうも」
やっぱりこいつには、いや、こいつにも褒められている気がしない。腹が立つとまではいかないが、すかっとしない。
「何がどうなってんのか知らないけど天然チートな才能だからマネはできないけど近くでよく見とけって」
「は?」
見とけってなんだ。意味をつかみそこねて振り返ると、メガネの向こうの目はわりと真面目に俺を見返している。
「と、福島先輩に言われまして」
「…………」
「さ、ジョグ行きましょうよ」
「はあ……」
町田はさっさと話を戻したが、こちらは毒気も思考も全部抜けた。俺は町田にうながされるままよろよろと走り出す。自分が巻き込まれ型の人間だとは思っていなかったが、どうにも最近はペースを乱すヤツばかりが周りにいる気がする。
部活の終了後少し加藤さんと部室で話したが、すぐさま解決策が出るはずもない。
というより加藤さんの意見は「もうすぐ三年は引退するから大丈夫だよ」という棚上げ主義全開の思考だった。
どうしたもんかと、いつもより遅くなった校舎裏を空腹と疲れでふらふら自転車置き場へ向けて歩いた。日が暮れてくれば少しは涼しくなってもいいはずなのに、いっそう蒸し暑さが増して実にすごしにくい。
すでにほとんどの生徒が帰ってしまった後らしい人影も自転車影も無いガラガラの自転車置き場だったが、しかし何故か泉水がぼんやりローファーのつま先を眺めるようにして立っていた。
「よっ」
なにをやってんだと声をかける前に向こうが俺に気がついて、片手をあげた。
「よう」
泉水がもたれていたのは俺の自転車で、本人の自転車は見当たらない。
「どうした?」
「たまには一緒に帰ろうかなと思って」
怪訝に思った俺に、泉水はにっこりと笑った。十八時ちょい過ぎ。西日本の空はまだまだ明るい。
「いいけど……」
歯切れが悪くなったのは、普段わざわざ待ち合わせてまで一緒に帰ることはほとんどないのにあえて待ってたせいだろう。ましてや今日は一日中どこかだるそうにしていた。
用があったとしても、よっぽど急ぐ案件じゃなければ先に帰宅して後からお互いの家を訪ねればすむ話だ。そのくらい近所だ。
「なんか企んでるんじゃないだろうな」
「あはは、そんな身構えなくてもだいじょうぶだよ」
「ほんとかよ」
なのでついつい疑ってしまう。泉水は苦笑した。
「ほんとだって。たんに今日自転車忘れたの」
「忘れた? カギとかじゃなくてか?」
呆気にとられる俺に、泉水は素直にこっくりと頷いた。それはそれで意外な台詞だ。朝、雨が降っていたわけでもないのにどうやったら通学自転車を忘れてくることができるんだ。まあいいけど。
「んで、俺にチャリの後ろに積んで帰ってくれと」
「なんか荷物みたいだね……」
「まあいいけどな。これもトレーニングだと思えば」
「なあんか言い方がひっかかるなあ」
睨まれたけれど、無視した。
「よし、とりあえずさっさと帰ろうぜ。腹減った」
「ういうい」
自転車のロックを開けて、自転車を引き出す。俺の自転車の後ろには荷台がないが、泉水は慣れた動作で後ろに足をかけて立った。
「校門突破するか」
「ふぁいっとー」
「気が抜ける声を出すなよ……」
泉水のいかにも他人事な能天気な励ましに文句を言いつつ、ペダルに足をかけて踏み出す。
うちの学校は山の上側にあるので、帰り道は後ろに泉水一人くらい増えたところでなんの差し障りも無い。
俺たちが入学する数年前に道路工事をして道幅も広くなっているので、車は渋滞しているが自転車は軽快だ。
ほとんどブレーキをかける必要も無く下まで一気に駆け降りる。最近じゃ毎日あくせく地べたを必死に走っているが、こうしているとまるで羽でも生えたみたいな気分だ。
部活と気温で熱されていた身体が、風をはらんでふくらんだ制服の下で気持ちよく冷えていく。風のない日の朝の上りは死にたくなるが、夏の夕方の下りは最高に気分が良かった。
駅の近くでようやく信号に引っかかって止まると、後ろから泉水が肩を叩いてきた。
「ねえねえ」
「あん?」
俺の頭の辺りにちょうど泉水が屈みこんでいるので振り返ることができない。
「ちょっと寄り道して帰ろうよー」
泉水は俺の頭頂部に話しかけるような形で誘ってきた。
「はあー?」
「せっかくだし!」
何がどうせっかくなのかはさっぱりとわからない。
「もうすぐ夏休みだしー」
「余計つながりがわからんわ」
思わず突っ込んだが、泉水は機嫌よく笑っている。
「ちょっとだけだからさ」
「うーん、俺腹減ってんだけどなあ」
「ダメー?」
俺は溜息をついた。ガンガン詰め寄って無理矢理引っ張っていく安藤に弱いのに、こう下手に出られても無下に出来ないのは大問題だと思う。
思うが、結局折れてしまうのは……長年の付き合いのせいだろうか。
「そんかわり先、コンビニ寄るぞ」
「やったあ。了解ー」
泉水が後ろではしゃいだ声を出し、信号が青に変わった。よいしょとペダルを踏む足に力を入れてまっすぐ帰る道を左折して駅前のコンビニへ寄った。
田舎なのでコンビニの数が基本的に少ない。駅前だろうとそれは同じことで、どこの系列店がいいなどと選り好みしていられないのだ。
「お前はなんか買わないのか」
俺が店内でピザパンと焼きそばパンとカレーパンと一緒におにぎりをカゴの中に放り込んでいる間、泉水は窓際の週刊誌の棚を見るともなしに眺めて待っていた。
「すごいね、それだけ全部食べるの?」
カゴの中身と俺を見比べて目を丸くしている。
「腹減ったって言ったろ」
「帰って晩ご飯食べるんでしょ?」
「当然」
「何時間寄り道するつもり?」
「バカ言え、これ今この場で食った直後に家帰って晩飯出てきたって余裕で完食するっつーの」
「なにその自慢」
俺がポカリを陳冷から取り出しながら答えると、泉水はおかしそうに笑った。昔からよく笑うやつだが、今日はやけにご機嫌のようだ。なんかいいことでもあったんだろうか。
「じゃあ、あたしにはミルクティー買って」
「あっまーいヤツな」
「いいじゃん、別に」
「悪いとは言ってないだろ」
リクエストのミルクティーのペットボトルを追加するとカゴをレジ台にのせる。いつもいるおばちゃんの店員が、相変わらず手際悪く会計をしてくれた。
店の外へ出ると、ようやく太陽が赤みを増しながら西へ向けて重い腰を上げたようだ。
「空気が金色で綺麗だねー」
泉水は俺には見えない何かを、掌にのせてるようなしぐさをした。
「んで、どこへ行くって?」
自転車のハンドルに買った袋をぶらさげると、早速焼きそばパンの袋を破る。食いつく前に訊ねてみたが、何故か言いだしっぺのはずの泉水がきょとんと俺を見返してくる。
ノープラン、ノーアイデアと丸い目が代わりに返事をしてきて、俺は無言のまま焼きそばパンを口に入れた。三口で片付けるとパン屑のついた手をはたく。
「別に、やっぱこのまま帰ろうでもいいぞ」
「やだやだ絶対やだ」
泉水はものすごい勢いで、ぶんぶんと首を横に振る。何故そこまで拒否するか。
「あっそ」
やっぱりなんか裏があるんじゃなかろうか。……大丈夫か? それとも何か言いたいことでもあるのだろうか。
「じゃあどうすんだよ」
二つ目のパンを開けながら聞くと、泉水は今度は首をかしげた。
「うーんと、そうだなあ」
「なんも考えてないにもほどがあるだろ、ほどが」
「そう言われるとそうなんだけどさあ」
「どう言ってもそうだろ」
俺は呆れて溜息をついた。わけのわからぬ誘いのおかげで余計な出費をしているというのに、泉水ははっきりしない。まっすぐ帰っていれば今頃は買い置きのラーメンでも作っていただろうに。
「どーしたいってのよ」
「どうっていうか、あ、じゃあさ」
名案でもひらめいたのか、泉水の顔がパッと明るくなる。
「亮ちゃんが好きな場所に連れていってよ」
「は!?」
突然の無茶ぶりにピザパンが喉に詰まりそうになった。俺を殺す気か、こいつは。
「なんじゃそら」
意味が分からず聞き返したが、泉水は妙に勢いづいて俺の自転車のハンドルに手をかけた。
「ほら、たとえこれまで女子と縁がなかったとしても高校生活あと一年半残ってるんだから。この先彼女が出来たり、彼女にしたい子と学校帰りに寄り道したりとかあるかもでしょ?」
「……ぐう」
なんの話だ。そんなでかいパンのかたまりを口に入れていたつもりはないが、急に喉につかえて飲み込めなくなった。
俺は苦しみつつコンビニ袋からポカリを取り出して、ペットボトルの半分まで一気飲みした。
「そういう勝負かける場面で行くようなとこ連れて行ってよ」
「なんの勝負だよ。つか、その前提でお前をかよ」
「そそそ」
げふげふむせてる俺を無視して、泉水はにっこりと笑っている。
「どんな罰ゲームだよ、そりゃ……」
「どういう意味よ」
俺は頭を抱え込んだ。
「だいいちそんなシチュエーションなんか考えたことねえよ」
「そういう機会にこれまで一度も恵まれなかったってことだよね、それ」
「じゃあお前にはそんな機会があったんかい!」
思わずコンビニの店先ででかい声を出してしまった。泉水は首をすくめて含み笑いをしている。
……まあ、こいつにどんな機会があろうと俺には関係ないわけだが。
「この先いつチャンスが来るかもわかんないんだからさ。今後の参考のためにも、ねえ、どっか考えてよ」
「うるせえよ」
いちいち余計な前提をつけるんじゃない。泉水は俺のシャツの裾を引っ張って催促しているが、そう急かされてもいきなり良いアイデアが出てくるものでもなかった。
どうせこれまで全く一度もそういう機会がありませんでしたよ。いいけどな。別に。
「だいたいさ、相手とか時間とか場面とか季節とかそういう制限も関係してくるだろ。ケースバイケースなんだから勝負とかないだろ」
「へー、考えたことないとか言いつつわりとこだわるね」
感心したように泉水がうなずくのがますます腹立たしい。
「……だからうるせえよ」
「じゃあさ、今この瞬間にあたしとデートするんだと思って」
今度は迷わず――――という表現もおかしいが、口に含んだポカリを全部噴き出してしまった。
「もう汚いな。これがほんとのデートだったら大減点だよ? あたしで良かったね」
「良かったも悪かったもあるか。お前がわけのわからんことを言い出すからだろ」
「いやあ、イメージしづらいみたいだからちょっとは具体的になるかなって」
具体化したイメージが泉水だというのが噴き出した要因だと思うんだが、まあいちいち突っ込まなかった。
泉水は俺が丸めてコンビニ袋に突っ込んだゴミを取り出すと、入り口の横にあるゴミ箱に捨てに行く。
「あたしとデートじゃイヤ?」
嫌とかそういう問題ではないんだが。
デリケートな問題を二択で即答しろと言うのは拷問にすぎるだろう。
俺は泉水の水色の夏服の背中を眺めながら肩で大きく息を息を吐いた。
「とりあえず、行こうぜ」
うながすと泉水はゆっくりと振り返る。
「帰るの?」
「帰っていいんならな」
「よくないよくない」
泉水はぶんぶんと首を横に振った。どうしてそう、今日に限ってムキになるのだろう。
「わかったからさっさと乗れ」
「うい」
どこにというあてが決まったわけでもないが、いつまでもコンビニの前にいるわけにもいかない。
うながすと、泉水はぴょんっと飛び跳ねるように戻ってきた。
「人のセレクトにケチはつけんなよ」
「ういうい」
最初にクギをさしておいてやると、泉水は素直にうなずいだ。
「お前が俺にまかせたんだからな」
「あはは、だいじょうぶだって」
「ならいいけどさ……」
自転車にあらためて乗り直す。肩に置かれた泉水の手の振動から声を押し殺してまだ笑っているのがわかる。念を押しまくったのがおかしいらしい。
少し力を入れてペダルを踏んだ。さて、どこへ行こう。
空はまだ赤みがさした程度で暗くなるにはまだ一時間くらいはあるが、だからといって制服だし金もないし疲れてるしどうせたいしたところへいけるわけがない。
なんで泉水相手に、と思いつつもそれでも必死に考えた。
まあ、別につもりであって本当のデートとは違うしな、と内心で言い訳して連れて行ったのは結局家の近所だ。
沼田川のうちのある方とは、反対側の土手へ自転車を向けた。うちと泉水の家ののある対岸側は護岸になっていて土手が無い。
こちらは広い土手が草むらになっていて犬の散歩どころか子供がサッカーやったりできる程度には広かった。
自転車を止めると、泉水が後ろから身軽く飛び降りた。
「ほー」
「なんか文句あるのかよ」
「まだなんにも言ってないって」
先回りした俺に泉水が苦笑いした。
「ふーん、亮ちゃんはデートならここに連れて来るんだ」
「……ケースバイケースだっつの」
かといってどんなケースの時に土手へ寄ることになるかは、全く想像がつかないが。
「なるほどー」
やたらへー、ほーと繰り返しているのは感心しているのかバカにしているのか、または両方だろう。
こちらはなんとも言えない気分で、自転車のカゴからコンビニ袋を取り上げる。これからどうしたらいいのかさっぱりわからない。
「いやいや、悪くないんじゃない? 相手があたしでなければ、だけどね」
泉水は自分で言って水色のセーラーの襟ごと肩をすくめた。
ほとんど海に近い東の河口側は空も蒼ざめはじめて水面を闇くしているが、西の山側は夕日が真っ赤に輝いている。
確かに本当にちゃんとデートならムードもなくはないし、悪いチョイスだとは思わない。……はずだ。
しかし、この場合ネックは相手が泉水だということだろう。
お互い家のすごい近所すぎて昔からしょっちゅう遊びに来てるわ、自分ちの屋根が見えてるわで現実的すぎる。
「だからうるせえよ」
俺は気まずく、適当な場所に腰を下ろした。実際に他の誰かとデートする方がこんなに気恥ずかしい思いをせずにすむ気がする。そういう状況になったことがないのでわからないが。
泉水と二人きりになることなんて、しょっちゅうすぎるのにどうして今日はこんなにも居心地が悪いのだろうか。
沼田大橋の向こうには呉線の架線橋が並んでいるが、本数が少ないので、めったに電車が通らない。
適当な場所に座ると泉水も隣に来たので、コンビニ袋からミルクティーを出して渡してやった。
「ありがと」
もうぬるくなっているミルクティーのペットボトルにはびっしりと水滴がついている。
「今が一番蒸し暑い時間だねー」
「お前、暑いとか言ってんのによくそんな甘ったるいの飲めるな」
「いいじゃん、好きなんだから」
「そりゃ、いいけどさ」
泉水はいつもどおりの軽口を叩いている。別に悩みがあって、家とか学校とかでは話せないからよそへ俺を連れ出したとかそんなことではなさそうだ。
「部活、疲れた?」
「普通に疲れた」
お前は人にはデートのつもりでどっか連れて行けと言っておきながら、こんな日常会話をするつもりなのかと突っ込みたかったが口に出せば逆に自分が窮地に追い込まれそうな気がするのでやめておく。
泉水もしばらく黙ってペットボトルのミルクティーをちびちび飲みながら、俺らが子供の頃から止まっているような夕暮れ色の川の流れを見ている。
実際にはこのあたりは川の水の満ち引きが大きいので水が滞留するなどそんなわけはないんだが、あくまでもそんな感じと言うことで。
「子供の頃はよくこの辺で遊んでたけど、今はデートスポットになっちゃうかあ」
「……そんなしみじみ言うほど時間たってないだろ」
「そうかな。あたしにはすごい前みたいに感じるなあ」
「中一の正月はここで凧あげてたろ」
俺的には昨日のことくらいの感覚だったが、泉水は小さく笑った。
「こないだも言ったけど、中学の頃は毎日毎日が長くていつまでも永遠に続くんじゃないかってくらいだったけど、気がついたらあっという間だね」
「そんなもんかねえ」
しみじみ言われてもピンと来なかった。まだそんな年齢じゃないだろう、お互いに。
「高校出たら」
「ん?」
「亮ちゃんどうするの? 進学?」
ずいぶん唐突に話題を向けられた。
「あー、どうだろうな。俺が入れる大学なんてあんのかどうか。高い金親に払わせて専門学校とか行ってもなあ」
「決めてないの?」
「これといってとりえもないし、やりたいこともないしな」
「ないの? やりたいこと」
あらためて真顔で問われると、俺の人生が不安になるからやめて欲しい。
「東京とか、大阪とか都会に出てみたいとか」
「それは全然無い」
俺はそこだけはきっぱりと断言した。人の多いところが好きじゃないのに、何が嬉しくて密集地帯へ移住しなければならないのか。
「へー、意外」
「そうか?」
そう言われることが意外だ。人混みは嫌いだし、流行の何かにも興味がないし、金もない。
欲しい本やらゲームやらが、流通の関係で発売日が数日ずれることくらいが不満だが別にどうしても手に入らないほどの田舎でもない。
家から車じゃなくても自転車で、海にも山にも川にも行ける。俺の性にはあっていると思う。
「うーん、そういう都会志向的な話じゃなくて、どっか遠くへ行きたい人かと思ってた」
近所づきあいとか嫌いなタイプでしょ、と言われれば確かにそうだが面倒なことだけではないと思ったりもしなくもない。……多分。
「俺が俺を連れて行くんだからどこでだって結局変わらねーよ」
「かもね」
俺の返事に、泉水は微笑した。
「このまま陸上部がんばって、どっか市内の大学から推薦とかかかるといいね。家から通えるとこ」
「大学かあ」
高校出てもまだ四年も勉強しなければならないのかと思うと多少頭が痛いところではある。
「学校出た後の進路を考えるリミットが四年増えるじゃない」
「そんな理由かよ。もっと目標を持って学部を選ぶとかするもんなんじゃないのか」
「そういう人もいるだろうけど、別に全員が全員これだ! って決めて入学してるわけじゃないでしょ。途中で変更する人たちもたくさんいるんだから」
「そんなもんかね。で、お前は?」
聞かれてばかりなのもなんなので、逆に水を向けてみた。
とはいえ、子供の頃から泉水は裁縫とかハンドメイド好きで服飾系に進みたいと昔から言っている。
そのせいか泉水は答えずにただ笑った。
夕日がだいぶ西に傾いて、だんだん海側は青黒く夜の様相を呈してきた。
「あのねえ」
泉水はペットボトルを置いて、急に座り直す。
「ん?」
ようやく話が核心に入るのかと、少しばかり期待した。このまま進路相談していたら寝てしまう。
「あたしさあ」
「だからなんだよ」
「うん」
うんじゃないだろう、と思うが急かすと怒られそうなので忍耐強く待った。泉水は言葉を探すように少し川の方へ視線を向けた。
「あたしは、もう」
「もう?」
泉水の丸い目がこちらをじっと見ている。心臓がどきりと跳ねた。多分、これは本当に大事な話なんだろうといささか身構える。
「あたしたち帰った方がいいと思う、家に」
泉水はにこりともせず、きっぱりとそう言った。
「……そうだな」
すごいタメと真顔でその台詞か。がっくりと全身脱力した。泉水は苦笑している。
「――――告白されるかと思った?」
「思わねーよ!」
思わず声も大きくなるというものだ。
「そうなんだ」
不満そうな声を出されても、困る。やれやれ、と家に帰るために座っていた芝から腰を上げると、泉水も勢いよく立ち上がった。
「……なんか進路で悩みでもあんのかと」
「あはは、ないない」
スカートについた草をはらってる泉水は、笑顔とは裏腹にやっぱり少し元気なさそうに見えた。
「ずっとこうしてたいけど、そういうわけにもいかないもんね」
「は?」
何を言っているのかと問い返すと、泉水はほんの少し寂しそうに笑った。
「つい何年か前はここで凧揚げとかしてたのに、今ではデートで来るんだねえ亮ちゃんは」
「……来てないだろ」
「そうだけど」
泉水は自転車から自分のカバンを取り出した。
「次はちゃんとデートで来られるといいね」
「大きなお世話だよ」
俺が顔をしかめると、泉水はやっぱり笑っている。
「いいからさっさと帰ろうぜ」
自転車を動かしてうながしたが、泉水はもう後ろには乗ろうとしなかった。
「あたしスーパーでタマゴ頼まれてるんだよねー。十九時半からのナイトセール」
泉水はあっさりと言った。家のある対岸に渡ってもスーパーくらいはある。しかし今日はこっち側の店が安いらしい。
「なんだよそりゃ」
ますます帰りが遅くなるが、仕方ないかと付き合うつもりだったが泉水は首を横に振った。
「だいじょぶだいじょぶ。ちょっとは歩かないとねー。ミルクティー飲んだぶんと、その前は亮ちゃんが部活終わるのお菓子もらったの食べたぶん!」
「スーパーまでくらいの運動じゃたいして変わらねーだろ」
「日々の積み重ねがだいじです」
泉水はカバンを胸に抱いて、きっぱりと言った。
「洗剤とかお米とか、重いもの買う時よろしくー。ここまで送ってくれてありがと。じゃあね」
笑って手を振ると、あっさりと泉水は行ってしまった。
取り残されたまま、振り返りもしない夏服の後ろ姿が遠ざかるのをなんとなく見送るとざわっと二の腕に鳥肌がたった。
引き止めなければと思ったのに。けれどためらった挙げ句時期を逸してしまって、結局一人寂しくペダルを漕いで夕闇の道を家に帰ったのだった。