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結局残りの体力テストはうやむやのまま、授業が終了した。
元々意味があるのかないのかすらはっきりしないテストだったので、教師の方もそこまできっちりやらなくてもいいと判断したのかもしれない。
炎天下散々熱せられた後頭部を沈静化させるために、グラウンドのすみの水飲み場で頭から水をかぶっていると背中をクラスメートたちが冷やかしては去っていく。
入れ替わりたちかわり、内容はどれもさっきの授業中に聞いたようなことばかり飽きもせず言っていく。
いちいち腹を立てたりしないし、別に傷つきもしない。
有坂の腕の振りも足のストロークもキックも、どれも俺がこれまで理想的だと思い描いてきたすばらしいものだった。あんな風に走れたらさぞかし気持ちがいいだろう。
そして、そんな走りをされたら勝てるはずがない。
そのくらい美しいフォームと、理想的なスタートだった。
もちろん掛け値なしに賞賛してばかりもいられず、そんなの隣で見せつけられたら多少面白くないし一言いいたい連中はうるさいとは思う。
でもそれだけのことだ。
蛇口を閉めようと上半身かがんだまま腕をのばしたら、俺の手が触れるより先に水が止まった。
「いつまで頭を冷やしてる気ですかー?」
コンクリートの叩きに揃えて立つ白い上履きのつま先が見える。
靴を履き替えずに外へ出てはいけないことくらい、小学校の頃に叩き込まれただろう。
廊下の掃除をするヤツの身になれ、と思ったが口に出して指摘はしなかった。
頭を持ち上げると水滴が首から顔から垂れてゆき、シャツの襟どころか肩や胸元まで濡れるがタオルを持っていないのでしょうがない。
「よっ」
泉水は軽く片手をあげてみせる。
「……よう」
ずぶ濡れのまま挨拶を返すと、泉水はちょっと顔をしかめた。
「タオル持ってないのになんで頭から水浴びちゃうの」
「暑かったから」
「子供じゃないんだからさあ」
「この場面はお前が気を利かせてすかさずタオルを差し出すべきじゃないのか?」
「えっ、なんでそこであたしが悪い感じ?」
泉水は大げさに驚いた顔をしてみせたが、すぐに笑いだした。
俺はしかたなく軽く首を振り水滴を落とした。
「ま、すぐに乾くだろこんだけ日が照ってれば」
「洗濯物でもないんだからさあ、もう」
泉水はいつもの姉ぶった態度で肩をすくめた。
「女子だってさっきまで……って、お前さっきの水泳いなくなかったか?」
ふと思いだして尋ねると、泉水は一瞬虚を突かれたようにきょとんと目を瞠り、そしてものすごく嫌そうな顔をした。
「なに、プールチェックしてたの?」
「チェックってなんだよ、たまたま目に入っただけだろ」
「ふうーん?」
「なんだよその疑いのマナザシは……」
別に俺はこれっぽっちもやましいことはないので、気にならないけどな!
「なあんかエッチな想像してなーい?」
「してねえよ!」
つかエッチな想像ってどんなんだ。聞きたくないから聞かないけどな。
「どうだか」
「バーカ」
俺は今度は犬のようにぶるぶると思い切り頭を振り、水気を切った。しずくが飛び散って泉水がぴょんと後ろに退る。
「わあ、冷たいよ」
チャイムが鳴った。
三時限目がはじまる合図だ。泉水も顔を上げて校舎のほうをなんとなく見ているが、けれど何も言わない。
B組に脱いだままの俺の制服は、誰かがロッカーにでも突っ込んでおいてくれているはずだ。……多分。
とりあえずこのままここにいても、暇をつぶすために巡回している教師に見つかる確率が非常に高いので移動することにした。
泉水が後ろから子鴨のようについてくる。だからお前は上履きだ。
「で、誰の水着姿が一番良かった?」
「うーん、俺としては……ってアホか!」
一応ノってみたが、人聞きの悪いことを言うな。
「あはは、男子の率直な意見が聞きたかったのに」
「率直も何も、全員スク水でキャップ被ってりゃどいつがどうとか見分けがつかねーよ」
「ふうん。でもあたしがいないのは、わかったんだ?」
「まあ、お前は見慣れてっからなあ」
何気なく言っただけだが、泉水はぴたりと足を止める。
「……なにを?」
不審そうに問われて、俺は一瞬絶句した。
「お前自身をだよ!」
授業中だというのに思わず大声を出してしまった。泉水はけらけらと笑っている。
わざと誤解をまねくような表現をするな、まったく。
今更ながら、目立たないよう気を遣いつつ脱靴場へ近づいた。まずは体育用スニーカーを上履きにはきかえる必要がある。泉水は当然そのままだが。
はからずも、本当にはからずも! 授業をサボってしまったが、こうなってしまったからには後々面倒なことにならないためにも、絶対に見つからずに逃げ通さねばならない。
毒を喰らわば皿までも、だ。遅れてでも授業に参加するという考えは毛頭無いので悪しからず。
空いている特別教室にでももぐりこむことにしようと、特別教科棟へ向かったがやはり泉水がひよこのように後ろからついてくる。
「お前は授業でなくていいのか」
当然のことながらサボりは隠密行動でなければならない。頭数が多くなれば、それだけリスクが高まるのだ。
一応それらしくうながしてみたが、泉水は吹き出した。
「まさかあたしが亮ちゃんに、授業の心配される日が来るとは思わなかったよ」
「……そうかもな」
朗らかにバカにされたが、確かにその通りなので返す言葉がない。テストのたびに補習の恐怖がまとわりついてくる俺と違って、泉水はどの教科もそれなりに上位の成績をとっている。
「普段の積み重ねが違います」
えっへんと泉水は無い胸を張る。
「ああそうですか」
特別教科棟の四階は誰もいないようだった。がらんと無人でぽっかりと階全体が口を開いている。
音楽準備室に忍び込むことにして、錠をこっそりと開いた。閉じたままに見えるように細工をするのも当然忘れない。
「手馴れてるねー」
一緒についてきておいて白々とした目で俺を見ている。
「うるせえよ」
音楽準備室には、授業では使用しない楽器がところせましと棚にならべてある。吹奏楽部用なのだろう。うちの学校の吹奏楽部がどのくらいのレベルなのかはさっぱり知らないが、なかなか充実した品揃えなのではなかろうか。
まあ、普段見かけないと言ったところで音感ゼロの上に、PCくらいならともかく楽器を両手の指がそれぞれ独立して同時に別々の動きで演奏することが考えられないセンス皆無の俺の言うことなのであてにはならないが。
「そういえばお前、ピアノやってなかったっけ」
「いつの話よ」
泉水が近所の家にピアノを習いに行っていたような記憶をふと思い出してたずねてみたら、苦い顔をされた。
演奏会だかなんだかを一度だけ観につれていかれたことがあったはずだ。
なんか白いドレスみたいなのを着ていて、何がはじまるのかと驚いた。どうしてピアノ弾くのにいちいちドレスアップが必要なのかいまだにわからない。
泉水は魔法少女の変身みたいなもんだと説明してくれたが、よけいにわからなくなったまま今に至る。
肝心な演奏については何の曲だったのか、うまかったかどうかすら覚えてはいないのだが。
「中学入るときにやめました」
「ふーん」
追求することでもないので、それきりその話題については打ち切りにして万一踏み込まれることがあった時のために気持ちだけでも目隠しになるよう職員用の机の影にぺたりと座り込んだ。
日当たりが悪いおかげでひんやりして気持ちがいい。泉水も俺の隣に水色のプリーツスカートをふわりと広げるようにして座り込んだ。
「だいぶ乾いたね」
泉水が俺の頭を見て、言った。
「これだけ暑けりゃなー」
まだ根元のあたりは湿ったままだが、汗のせいではないとも言い難い。泉水は背中を机の柱にあずけて両足をのばすようにして座りなおした。
グラウンドから、体育の授業をやっているんだろう生徒たちの声が響いて来て、特別教科棟の静かさが余計にわかる。学年が違うのか、謎の体力テストではなくサッカーをやっているようだ。
俺らもこっちのほうが良かった。どうせ教師も座ってみてるだけなら俺らにゲームやらせておけば良かったではないかと、今更どうにもならないことを考えてみる。
「あー、なんか腹減ったな」
脳内サッカーをしていたら、やけに外の盛り上がっている声に昼食前に元気だなと思った途端、自分の空腹を実感した。
しかしジャージ姿のままでは食い物など持っているはずがない。財布もないから、自動販売機で飲み物を買うことも出来ない。
強いて言えば水道水くらいなら飲めなくもないだろうが、下手に廊下をうろついてて見回りの教師に発見されたらアウトだ。
泉水も自分のスカートのポケットあたりをぱたぱた叩いて探すようなそぶりをしてみせてはくれたが、結局スカだったらしい。
「あ、そういえば教室にならポッキーが」
「言うな、よけい腹が減る」
んなことを言えば俺だって、教室に戻れば弁当が待ってる。まあ、あきらめるほかない。
しかし、だからといって他になにをするでもない。なんにもない音楽準備室であり、誰かに見つかることがないように、じっと気配を殺していなければならず手持ちぶさただ。気詰まりというのとはまた違うが、どうしたもんか。
別に今更泉水と二人きりになって緊張するとか照れるとか、そんなわけはなくどうということもないのだが妙に喋ることもないしすることもなくとにかく暇だった。
困った。
泉水は俺が内心戸惑っているのなど知った風もなく、目を上げてぼんやりと窓を見ている。空しか見えない窓の向こうを。
グラウンドから歓声が聞こえた。シュートがうまく決まったようだ。
「そういえば」
不意に泉水が口を開いた。
「あれから毎日部活出てんだね」
「毎日たって一週間だけどな、まだ。朝練には出てないし」
「えらいえらい」
にこにこして、褒められたが本来部活とは活動日には特別な用事がない限り毎日出て当たり前なのではなかろうか。
素直に喜べないが、泉水は小さく拍手までつけてくれた。我ながらレベルの低さにちょっと目眩がする。
「だって亮ちゃんね昔から毎日ちゃんと続けられたことなんてないでしょ。部活はもちろんだけど、小学校の頃の夏休みの日記はノート開いただけで終わって一日も書かなかったし朝顔の水やりは一日だけだったし、中二の時腹筋割るって言い出してお母さんにトレーニング器具買わせた時なんか梱包されたの開きもしなかったって」
「よし、わかったみなまで言うな」
マーライオンのごとく、泉水の口から次々と溢れる過去の自分の姿との強制的な再会を俺は右手を上げて必死に押しとどめた。
俺の人生を短時間で振り返った泉水はおかしそうに笑っている。
「だから褒めてるのに」
「ああそうかよ、ありがとよ。褒める部分だけ抜粋してくれれば尚ありがたいぞ」
「ふふ」
泉水は首をすくめた。
「でもさ、このまま部活真面目に頑張ってたら推薦かかったりするんじゃないの?」
「進路?」
「そそ」
何が嬉しいのか泉水はキラキラした眼差しで身を乗り出してきた。そんな期待されても、俺が決めることではないしどうしたら良いのやら。
「どうかねえ」
俺があいまいに首をかしげると、泉水は不満そうに眉を寄せた。
「だいじょうぶだよ、絶対」
「どんな確証があるんだよ、お前には」
「だって去年の県大会では二位だったじゃない」
「アホか。甲子園に出場した野球部は全員プロに行くのかって話だろ」
「団体競技とは違うでしょー。あたしにはよくわかんないけどさ」
妙に詰め寄ってくる泉水に気圧されながら、俺はちょっと眉を寄せる。ついさっき、運動部員でもない一般生徒に惨敗したばかりだというのに何を言っているのか。
泉水は俺の困惑に気づいたのかちょっと座り直しながら、小さく咳払いをした。
「せっかくさあ、持って生まれた才能なんだからもっと上手に生かせばいいのに」
「才能ねえ。どうせ俺には他に取り柄がないからな」
「あ、可愛くないことを言うね。でも、他の人にはないすごーい才能でしょ?」
泉水はしらっと他に取り柄がないを否定しなかった。それにしてもやけに今日はこの話題を引っ張るが、そんなに俺の進路を心配してくれているのだろうか。
……まあ、心配になる気持ちはわからなくもないかもしれなくもない。大きなお世話だ。
泉水は大きな目で俺をまじまじと見ている。だから顔が近い。
この話を続けようか、それとも打ち切りにしてしまおうかと迷いながら俺は言葉を探す。
「なんつーかさ」
「うん」
「走るのは好きなんだけど、ゴールした後が嫌いなんだよ」
「へ?」
案の定、というかいつものことだがうまく伝わらなくて泉水はぽかんとする。
「気にすんな」
「なにそれ」
泉水はつまらなそうに唇をとがらせた。そんな不満そうな顔をされても困る。どうしていつもいつも俺が上手に説明できないのを知っているのに、こいつは懲りないのだろう。
「もっと伝えていく努力をしようよ。亮ちゃん、部活もそれでしょ」
その通りなので言い返せない。
「うーん」
うまく言えないのもあるが、こいつとこういう話をするのも困る。逃げ場がない感じがする。もっとも逃げる必要性があるのかどうかすら、定かではないが。
幼馴染みというのは楽で、けれど時々複雑だ。
「なあに」
泉水が優しくうながしてくる。いつものようにうやむやに話を終わらせられない雰囲気を察して、しかたなく俺は腹をくくる。
「何度も言ってるが、走ること自体は好きだ。でもそれだけでどうにかなるもんじゃないだろ」
「それを練習に出ない亮ちゃんが言う……」
「うーん、いやまあそうなんだけどさ。たとえば俺は四百だから、トラック一周分の六十秒にも満たない時間のコンマ何ミリ秒かを削るために暑い日も寒い日も雨の日だってコツコツ練習をするわけだ」
「努力が嫌いって意味?」
「それがないとは言わないが……」
「ごめんごめん、黙ります。続けて」
話を先取りした泉水にまた脱線かと思わず溜息をついたら、急いで戻された。どうしてこんなこの話に急に食いつきがいいんだろう。
これまで陸上に興味があったようにも、俺の進路に関心をもっているようにも思わなかったが。グラウンドから前半ゲーム終了のホイッスルが聞こえた。
「んーとだな、だからそうやって練習もだけど体調整えたりいろいろ準備してさ。大会へ行って。それはめちゃめちゃ楽しいんだよな。自分の順番が来る前の緊張感は逃げたい時もあるけど、でも何より気持ちがいい」
泉水はちらりと何かつっこみたげな目を俺に向けたが、さっきの約束どおり黙っている。素直すぎて逆になんだか俺の居心地が悪い。
「要するに、祭りの後の空しさみたいな感じが嫌いってことかな」
長々説明してもらちがあかないと判断して、勝手に要約して端折って結論を出してみた。俺も泉水のことが言えないくらい超要約者なのかもしれなかった。
「えーっと、大会が終わるとゴミの片付けとか道路整理が大変みたいな……」
自分では的確なたとえのつもりだったが、泉水はそのまんま祭りをイメージしたらしい。
「俺たちには相互コミュニケーションに、大きく問題がありそうだな」
「あはは、そんなことないよ。だいじょぶだいじょぶ」
泉水は明るく笑う。何が大丈夫だというのだか。
「花火も費用も手間もかかってもほんの一瞬だし、上がるまではワクワクしてるけど、終わっちゃうとちょっと寂しいもんね」
「うーん、まあそうだな」
それでも、なんとなく伝わってはいるらしい。ほっとしているとまた泉水は身を乗り出してきた。
「でもさあ、亮ちゃんは花火を観に来たお客さんじゃないでしょ。あげるほうでしょ。花火を見上げて綺麗だなってそれで終わりじゃないよね。観てるだけのあたしたちとは、大きな違いがあるよね」
「花火職人のことはよくわからねえな」
「もう」
俺が話題をかわしたのが気に障ったらしい。額をひんやりした手ではたかれた。
「さっき」
「ん?」
「有坂君に負けたの、悔しかった?」
泉水がやわらかい声で聞いてくる。
「んー」
俺は少し考えた。自分の気持ちを整理するために。
窓を閉め切られた音楽準備室は日が差さないが、やはり蒸し暑くこうやってじっとしているだけで汗ばんでくる。
窓の向こうは天気予報を信じた俺をあざ笑うかのように、くっきりと青く晴れ上がっている。やっぱりまるで夏の空のようだ。
これで風が吹いていれば、気分のいい陸上日和だろう。日差しが強すぎるとさっきの織田みたいにぶっ倒れる羽目になりかねないが。
「悔しいよ」
青い色を眺めたまま、正直に言った。
「負けたことも悔しいけど、あんな完璧なフォームで走れるヤツ初めて見た。それがめっちゃくちゃ悔しい」
泉水が隣で小さく笑った気配がした。
「有坂君はなんでもできちゃう魔法使いだからね」
「なんじゃそら」
「だいじょうぶ、次はきっと亮ちゃんが勝つから」
またこいつの根拠のない大丈夫が出た。それともそれで励ましてるつもりなのか。
どう言ってやろうか、言葉を探したが結局今日は気の利いた皮肉も、ちょうどいい冗談も全く思い浮かばなかった。
どうにもこの最近、調子が狂いっぱなしだ。もしここに並んでる楽器だとしたら、ドの音を出したいのに勝手にソが出てくるみたいな。多分これも有坂のせいだ。うん。
「おう。次は勝つよ」
おかげで俺は後から考えれば、赤面して地団太を踏むか後悔で夜も眠れなくなるくらいの調子外れな音程で返事をしたのだった。