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3

  結局翌日は、しかたなく放課後だけ部活へ顔を出した。さすがに朝練までつきあえる気力も体力もない。

 もちろん部長だかリーダーだかになる覚悟と責任とやらが芽生えたわけでもなく、安藤がうるさいからでも泉水にかっこよくみえると言われてその気になったわけでもない。

 なんとなく、だ。

 ここのところずっともやもやしてたり頭痛がしたりしてるので気分転換だ。

 もともと走るのは好きなのだ。確かにマラソンやジョギングと違って短距離は高校を出たらあんまり趣味でやる機会は少なそうだな、と思ったのもある。


 加藤さんはちょっとずつやっていけばいいよ、と笑っていた。福島先輩は俺がいてもいないように扱うが、それも平常運転なので別に気にならない。

 練習に出るようになったとは言え特に自分もまわりも変わったわけでもなく、また後日あらためてと言われた部会も再び開催される気配もないなしくずしのまま、相変わらずの頭痛と共に一週間がすぎた。


 

 目がさめたら薄暗かった。布団の中で寝返りを打ちながらまだ明け方なのかとむなしい期待をしたけれどそんなわけはない。


 枕元に置いてある目覚まし時計が、定刻を告げてけたたましく鳴っているからだ。起き上がらないまま腕だけ伸ばして時計をつかみ目の前に持ってきて時間を確認する。

 やっぱり七時半だ。時間を見てがっかりしたのは、七時と七時十五分にもアラームをセットしているのにその二回とも一ミクロンも眠りをゆるがさなかった自分にだ。

 

 扇風機が一晩中サボらず首を振り続けたのが羽の回転音でわかるが、今朝はそこまで頑張らなくてもそんなに暑くはない。しぶしぶ体を起こすと、階下から俺の名前を呼んでは起きろと言っている母親の声も聞こえてきた。

「いま起きた!」


 クーラーが部屋にないので全開にしてあるドアに向かって叫び返す。同じく開きっぱなしのカーテンと窓の向こうは濃灰色の雲が一面たれこめていた。どおりで暗いはずだ。


 雨は降ってないようだが、寝たわりに朝が来たような気分がしないのはこの空の色のせいかもしれない。


(雨は嫌いだ)


 なにか嫌なことが起きる予兆のような、もう起きてしまったあとの取り返しのつかないようななんだかじりじりした気分がする。なんだか自分でもさっぱりわからないが。


 まだ半分脳が眠っていてすっきりしないせいもあるが、例の頭痛の予兆の気配もある。

 なんだっけ。なにかの時の気分に似てるんだが、思い出せない。


「くそ」

 振り払うつもりで頭を一つ振ったのに、逆にこめかみあたりに刺すような痛みが襲ってきた。

 とりあえずベッドの上にあぐらをかいた姿勢のまま、痛みの波がひいていくのをじっと待つしかなかった。

 動けない。今は有坂なんて目の前にいるわけでもなし、ましてやヤツのことなどこれっぽっちも考えたりもしなかったのに一体何なんだ。


「あいたたたたたた」

 うっかり有坂を脳裡に思い浮かべてしまって、いっそうこめかみがズキズキと熱を持ってしめつけてくる。

「理不尽だな……」

 こんなに俺が苦しんでいるというのに、せっかちな母親が再び俺の名前を呼び始めた。二度寝を警戒しているんだろうことはわからなくはないが。


「亮一ー」

 だんだんに声が大きくなる。せまい上に古い家なんだから、聞こえないわけがない。というか二階の俺の部屋どころか、多分隣の家にまで筒抜けのはずだ。

 それでもこっちはうかつに返事もできないんだが、どうすればいいんだ。


「りょういちいいいいいいいいいいいいいいいいいい」

 いい加減キレてきたようだ。母親ひとりならまだしも、そのうち親父も付いて怒り出すのが目に見えてるのでなんとかしなければと思ってはいるんだが。

「いってえ……」

 日頃の信用の無さがここに響くとは。ムリヤリにでも立ち上がるべくベッドに両手をついた。くそー、頭痛が高じてぽっくり逝ったらどうするんだと、縁起の悪いことを考えたのが良くなかったのか。

 単にやっぱりムリなもんはムリだっただけなのか。

 

 どちらかは不明だが、まんまと俺の起動実験は失敗した。

 床に下ろした足は、まるでスポンジを踏んだようだった。ぐにゃりと柔らかく力が入らず、俺はそのまま肩からどさりと床に転がる羽目になった。


「いってええ」

 思わずうめくと予想外にかすれた声が出た。我ながらダメージがでかそうだが、倒れ込んだせいか頭痛の影響なのかはわからない。せめてちょうど何も床に散らばってない時でよかった。のかもしれない。


 頭も痛いが背中と肩も物理的な痛みを猛烈に訴えてきて、もう動くのがすっかり嫌になった。転がったまま新たに発生した痛みに耐えていると、階下からもの凄い勢いで駆け上がってくる足音が響いてきた。

「あんた、今度はなにやったの!」


 戸口から怒鳴った母親と逆さまになったまま目があったが、阿修羅のような形相をしていて思わず吹き出しかけたが我慢した。というか、今度はってなんだ今度はってのは。

 確かに寝起きに階段から落ちたことは何度かあるが、ベッドから落ちたことはなかったはずだ。……多分。


「まだ寝ぼけてんの?」

 いぶかしそうにのぞきこまれた。よっぽど慌てて飛んできたのか。左手にはお玉を持ったままだ。味噌汁でもよそっていたのだろう。うちの母親は左利きなのであった。


「……いや」

「階段踏み抜いてくれただけでもう十分なんだから。部屋の床まで抜かないでよ」

「俺を心配して来たんじゃないのかよ」

 肩と背中の痛みがじわじわ薄れていくのと一緒に頭痛も消えていってくれている。俺は反動をつけてよいしょと体を起こした。


「だいじょうぶそうね」

「息子が? 床が?」

「どっちもよ、そりゃ」

 母親は真顔でうけあった。せめて同レベルで良かったと喜ぶべきだろうか。母親は俺が立ち上がるのに手を貸してくれることもなくさっさと部屋を出て行った。


「早く支度して降りてこないと、お父さんに怒られるわよ」

 どうして俺のまわりにはこう一方的な女が多いのだろう。それとも世の女の半数以上が一方的なものなんだろうか? 

 少し絶望しつつも大急ぎで着替えをすませた。時計の針が八時を指さんとするところだったからだ。

 

 顔を洗った後、二分十五秒で朝飯を片付けてついでに天気予報もチェックする。今日は夜までずっと曇り空らしい。気温は昨日より低いが湿度が高く、過ごしやすいとは言い難い。そして夕立には要注意。だそうだ。


「どっちだ」

 玄関先に止めてある自転車の前で三十秒ばかりの間、車輪を必死に回すコマネズミのごとく思案した。それ以上考えているとタイムアウトだ。

 とりあえず帰りに降られて学校に自転車置いて帰る羽目になるのが一番自分的にキツイので、バスで行くことにする。

 いっそもう降ってくれれば、父親に車に乗っけてくれと交渉もできるのだが。この天気くらいじゃ甘えるなとせせら笑われるのがオチだ。

 せまい車内に父親と二人っきりになるのもまだ気まずいお年頃でもあるので、そうそうにあきらめる。


 バス停に俺が着くのと同じタイミングで、ちょうど駅前行きのバスが二台続いてきた。ラッキーなのかどうか判断しがたいところだが、空いている後続車に乗り込む。うちの高校の制服を着ているのは俺くらいだ。

 空いてるとは言っても座れはしないが、エコだかクールビズだかの影響のおかげで微弱冷房車なので少しでも人口密度は少ない方がありがたい。

 大通りから迂回したバスが大きく曲がり沼田大橋を渡る。橋のたもとの枯れかけた紫陽花のそばに、花束が置いてあるのがちらりと見えた。

 

 駅までバスなら十分程度だ。渋滞にはまることもなくすんなり着いた。しかし、ここから学校までが登校の真の難関なのだった。

 山の中腹まである学校まで、さほどの傾斜ではないが朝から坂道を登らなければならない。もちろん公共交通機関は無い。自転車でないだけ今日はマシかもしれないが、それはそれでだらだらと登るのもだるいのだった。


 バスの中から寝起きの頭痛がいつのまにかぶり返していて、今日は休めば良かったなと今更ながら思った。もっとも休みたいと言って、母親がそれを許可するかどうかはまた別の話だが。

 

 とにかく、心を無にした状態でのろのろと機械的に左右の足を交互に動かして学校へたどりつくことだけを目標にした。

 走るのは得意でも、学校に行くのは得意ではないのだ。何を入れてきたのかやけにカバンも重く感じる。


「おはよう桐生」

「うおっ」

 不意に真横から挨拶をされてめちゃめちゃ驚いた。


「ど、どうかした?」

「いや……すまん。おはよう……」

 有坂に驚き返されて、非常にきまずい空気が流れた。頭痛につけ加えて胸の中がジリジリするのは、別に恋でもなければ罪悪感でもない。

 もちろんこいつを嫌っているわけでもない、はずだ。うん。

 

 俺の妙な動揺に有坂は少し不思議そうな顔をして、そしてそれから目をすがめるようにしてこちらをまじまじとみつめた。

「どうした」

「どうかした?」

 異口同音に口を開いて、そしてお互い沈黙する。じろじろ人を見ておいてどうかしたもへったくれもないだろうに。


「顔色が悪いね」

 先に気を取り直して発言したのは有坂の方だった。

「ああ……俺か?」

 お前こそ、体育の授業はどうしているんだと尋ねたくなるほど色白の男に顔色が悪いといわれるのは多少心外だ。


「どこか具合が悪かったり?」

「いや……目覚めが悪かったかな」

 まさかお前を見てると具合が悪くなるとは言い難い。事実をストレートに言えば宣戦布告に等しいし、婉曲に言えば大いなる誤解を受ける台詞にもほどがあるだろう。

 寝起きに頭痛がしたのも嘘ではないからこんなものでいいだろう。


「…………」

 有坂は何か言いかけたが、結局止めた。いつもの微笑が消えて、わずかながらも険しい顔をしていた。

 こいつも人間なので、そりゃあ腹立ったり不愉快だったりすることはあるだろう。けれど表に出したのを目にしたのは初めてで、意外で驚いた。というか俺の心を読んだわけでなければ、他に何かしただろうか。


「お前こそどうかしたのか」

 なるべくさりげなく訊ねると、有坂は首を横に振る。

「あ、ごめん。用を思い出した。悪いけど先に行くね」

「お、おう」

 有坂は俺の肩を軽く叩くと、スピードをあげて坂道を登っていく。なんか後味が悪いが……まあ、正直ホッとした。頭痛もいつのまにかおさまっているし。

 

 遠ざかっていく有坂の白いシャツの背中を見送りながら、さっきまでの焦燥感も消えていくのを感じていた。

 けれど、何故か白いシャツが他の生徒たちの姿にまぎれて消えていくと、今度は逆に不安な気持ちがやってきた。

 曇り空の灰色が黒く厚い影になっていくのに似ている。


(不安?)


 なんでだ。俺は何が怖いんだ?

 考えてはいけない。俺は頭を一つ振る。無心だ。そうだ、今はただ無心に足を動かして学校に着くことだけを考えよう。

 それが一番だと結論付けて俺は肩にかついだカバンのベルトを直して足に力をこめた。

 

 

 ようやくたどり着いたエントランスは登校してきた生徒たちで混雑している。時間差登校を考えろよ、と自分のことを棚に上げて考えていると靴箱の間から泉水がにゅいっと姿をあらわせて再び俺は驚いた。


「うおおっ」

「なによ」 

 泉水はむっとして顔をしかめた。


「お前ら朝から俺を驚かせるなよ」

「おまえら?」

「気にするな」

「というか、なんでそんなに驚くの」

「なんでって」

 急に物陰から人があらわれたら誰だってそりゃびっくりするだろう。やましいことがある、ないに関わらずだ。

 脱いだスニーカーを自分の靴箱にしまうためにかがみこんだら目の前に泉水の白い上履きがあった。

 この体勢で文句を言うため顔だけあげたら問答無用でフルボッコにされそうなので、一旦口をつぐむ。


「……今日もまた頭痛がするの?」

 俺が反論をためこんでる間に、上から声が降ってきた。

「は?」

「有坂君が、桐生が具合悪そうって言ってた」

 どうやら先に到着した有坂から聞いたらしい。おしゃべり男だなあいつは。体を起こすと妙にしおらしい顔をした泉水がこっちを見ている。


「ベッドから落ちたんだよ、寝起きに」

 スニーカーをしまってさっさとエントランスから脱出する。泉水は後ろからついてきた。

「貧血?」

 いつもならけらけら大笑いするだろうに、そんなことを聞いてきたりもする。なんかこいつも今朝は妙におとなしくて変な感じで、どうにも調子が狂う。

「いーや、いたって健康。寝ぼけてたんだろ。というかさ」 


 階段をのぼりながら、今度はこっちが訊ねてみることにした。

「お前なんか具合悪かったりする?」

「え? なんであたし?」

「いや……なんとなく」

「あはは、なにそれ」

 一笑に付されてしまった。泉水は最後の二段をひょいひょいっと軽く飛び跳ねるように登りきると、俺を振りかえってにっこりした。


「全然元気だよ」

 いつの間にか雲が風に流されていったのか、廊下には薄日がさしている。

「また今日も暑くなりそうだねえ」

 泉水は廊下の窓に視線を向けて笑い、

「ほら、さっさと登る」

 まだ階段の途中にいる俺に右手を差し出して言った。幼稚園児か俺は。俺の方に向けられた掌を上からパンと叩いてやった。


「いったーい」

「ほら、さっさと行くぞ」

「なんかムカつく……」

 泉水は少しふくれっつらになったが、廊下を先に行く俺をすぐに追いかけてきた。



 その後は一時限目から数学の小テストで別の意味で頭痛を覚えたが、これは全くの別物で終了のチャイムが鳴ればけろりと治るし原因もよくわかっているから無問題だ。


「しっかし、テストの次は体育ってどんな地獄の時間割なんだよ」

 ぼやきつつ、ジャージに着替えるため廊下に出た。うちの教室は女子が使用するため、男子は隣のB組で着替えをせねばならぬのだ。

「早く夏休みにならないかねえ」 

 織田が斜め後ろから陰鬱な声を聞かせる。窓の向こうに見える空は、朝の曇天とは打ってかわって青く晴れ上がっていた。

 この空の下でこれから体育の授業かと思えば、確かにそんな声にもなるだろう。つか、今日一日曇ってるんじゃなかったのか。

 なんのためにバスで来たんだかまるっきり意味がなくなり、やることなすことあてが外れてる感じがしてシャクにさわる。


 B組の連中は半分くらい着替えが終わっている。俺たちも持ってきた荷物を適当な場所においてジャージに着替えるべく準備をはじめた。

「夏休み、ねえ」

 俺に今年の夏休みはあるんだろうか。一応部活には出ているが、後日あらためてと言ってた話はそのままうやむやになっているがどうなっているんだろう。

 蒸し返してやぶへびを踏みたくはないが、暗黙の了承的に勝手に決められても困るんだがどうしたもんか。


「なんだかなあ」

 とりあえず安藤を倒さねば俺に夏休みは来ない。勝てる気が一切しないが……。走るのは嫌いじゃないがやらされてる感じにはなりたくない。そんなもん俺が続けられない。

「まー、どっちにしたって亮ちゃんの今年の夏休みは……」

 言いかけた織田の台詞が、途中で宙に溶けたように消えた。


「なんだよ?」

 どうせろくな話じゃないんだろうが、中途半端にやめられると気になるじゃないか。後ろを振り返ってたずねかえしたが織田はあいまいに首をひねっている。

「なんだっけ?」

 織田のメモリはニゴロだからなー、と門田が混ぜ返して貫井が笑う。


 まあ、どうせ補習と部活にだいぶ日をとられるんだろうなという予感はしている……。覚悟しておくとしよう。

 遠くから安藤の哄笑が聞こえる……。


「あ、そうだ尾道の花火また見に行こうぜー」

「はー、いいけどまた今年も男同士でかよ」

 織田の提案に貫井が顔をしかめる。俺は自分のことを棚にあげて、貫井を慰めてやろうと首をめぐらせた。その瞬間。


 肩越しに早々と体育ジャージに着替えた有坂幸夜が、視界に入った。

「いっ!」

 これまでにないくらいの、突き刺すほどの激痛が左のこめかみから右へと駆け抜けた。とっさに立ちすくんで頭を押さえた。

 一瞬のことですぐに痛みは消え去ったが、我ながら驚いた。他の連中もびっくりしたようでぽかんとした顔で俺を見ていた。

「ど、どーした」

 織田がマヌケ面をいっそうぽかんとさせて俺をのぞきこむ。暑苦しいから近づくな。


「いや……」

「だいじょうぶ?」

 有坂も足を止めて、真面目な顔で俺に問いかけてきた。まさかお前を見たから頭痛がしたとはやはり言えない。

「なんか朝から調子悪いんだよな。まあ、もうなんともない」

 ちょっと掌に汗をかいているが、それは有坂がどっかに行けばすぐ治まるだろう。


「おいおいしっかりしてくれよ~」

 お前にだけは言われたくないわ、と吐き捨てたくなる台詞を芝居がかった口調で織田が言い、まわりの連中もどっと笑った。有坂も苦笑いしている。

「うるせーよ」

 ムカついたので、とりあえず織田の尻を蹴飛ばしておいた。織田はよろめきながら恨めしそうに俺を見た。


「次は亮ちゃんの見せ場なんだから、カリカリすんなよ」

「なにがだよ。というか亮ちゃんとかいうな気持ち悪い」

「男子はこの暑い中、体力テストやるらしい」

 B組の松田が、脇からため息混じりに口をはさんだ。

「へー」

 と言われても別に俺は体力自慢ではない。それでどうして俺の見せ場になるという発想なのかさっぱり理解できない。


「ほら、百メートル走があるから」

 貫井が助け船のつもりか言い添えた。なるほど。俺は四百の選手なんだが。まあ百も悪くはないけどな。

「なんにも得意じゃない織田からしたら、十分見せ場があるうちだって」

「まあそれもそうか」

「女子は水泳だってのに、落差でかいよなー」

 納得していたら織田が溜息をついたが、口調のわりに表情は嬉しそうだ。


「なにを想像してんだお前は」

 バカなことばっかり言ってるこいつは、いつもながらムダに口ばっかり動かして手を動かさなかったのだろう。まだシャツを脱いだところだ。頭をひとつはたいて、容赦なく置いていくことにした。

 

 朝の雲は本当にまったくどこへ消えていったのか。太陽をさえぎるものが何一つないグラウンドは、毎朝夕練習のたびに野球部が水をまいているとは思えないくらいほど乾ききって白い砂埃をあげている。

 いろんな意味で俺は勝負に負け続けている気がしてしょうがない。

 

 同じく早々にグラウンドに出てきている数人のクラスメートたちも並ぶともなくパラパラとグラウンドに点在しているが、当然ながらどいつもこいつもうっかりやってしまった吸血鬼のごとく灰になりかけてうめいていた。


 まだ梅雨明け宣言は出てないはずなんだが、今年は本当に空梅雨だ。六月のはじめにちょろっと降ったくらいか? もはや真夏と言ってもいいくらいだ。

 いつの記憶なのか、もったりと雨にぬれて重くかしげた紫陽花の大輪の花が脳裏によぎる。雨に叩かれてしぶきをあげるアスファルト。

 雨は嫌いだ。濡れた服が皮膚にはりつく感じや、防ぎきれなかった水滴が流れ落ちていくところとか。湿気の匂いも。泥に汚れる靴も。全部嫌いだ。


 かといって、こんなに暑いのも嬉しくない。

 こうして立っているだけで背中から額から汗が伝い落ちていく。気力と体力がごっそりとそぎ落とされていってるのに、なけなしの体力をわざわざテストしてもらわなくてもいいと激しく思うんだが。

 仮にも運動部のくせに太陽に弱いのも情けないが、しょうがない。

 とりあえず今日の部活はパスさせてもらおうかな。足もないし、なんといっても体調も悪いしな。うん。これもしょうがないよな。

 

 一人納得しつつ体操着のすそで額の汗をぬぐいつつ、気持ちがわずかでも涼を求めるのかなんとなく視線がプールの方へ向いた。

 プールサイドには学校指定の紺の水着に身を包んだ女子たちが何人か立っている。

 声までは聞こえないがはしゃいだ様子なのがわかる。まじまじと見たわけじゃないが、まだ泉水はいないようだ。

 まあ、いたところでなにと言うわけでもないんだが。


 チャイムが鳴り響いて消える頃、ほとんどのクラスメートはグラウンドにとっくに出て来ていたが織田を含むとろとろ着替えていた連中が走ってようやくやってきた。

 たいした距離でもなければろくなスピードもないくせに織田は肩で大きく息継ぎをし、ぜいぜいと荒い呼吸をたてている。

 ますます暑苦しいので離れようとしたが、織田は死にかけているくせわりにどこか得意げな顔で何故か親指を立てて俺に意味不明なアピールをしている。

「なんだ?」

 一応たずねてやると、織田は非常に苦しそうに顔をゆがめつつも器用に笑顔を浮かべた。


「さっさと着替えて外に出ても、暑い中突っ立ってなきゃいけないだろ? だからゆっくり着替えて日陰の下にいたんだよ。知能勝ちだ」

「……そうか」

 それをすらっと言えてたら説得力があったかもしれないな。たとえお前の台詞だったとしても。しかしいまだに肩で息を切らし、先に炎天下にいた俺たち以上に頭から湯気をあげて汗だくになって言われても何の説得力もない。

 せめて面と向かってアホだと断定しないくらいの情けを、こいつにかけてやることにしよう。俺のなけなしの優しさだ。あんまりにも哀れだからな。


「あああああああ、やべえ貧血だあ」

 織田はそのまま仰向けにばったりと倒れ込んだ。うちのクラスだけでなく、B組の連中すら含めて初めて心を一つにした瞬間だったろう。

 こいつ、マジ救いようのないバカだと。


「はい、とりあえずアホはほっといて整列ー」

 時間を少しばかりすぎてようやくのろのろとやってきた体育教師が、集まれと笛を鳴らす。俺らは小学生のようにおとなしくぞろぞろと並んだ。

 前もって聞いていたとおり、やはり体力テストをやるのだという。なんだってこんな時期に中途半端なことをするのかさっぱり理解できない。

 

 理解できないが、拒否権が生徒側にあるはずがない。

 しょうがないから早く片付きそうな前屈や握力、瞬発力、背筋、跳躍と着実にすませて行った。他の奴らも大概そうしたようで最後の百メートル走が混み合っている。

 

 いつの間にか復活した織田が、嬉しげにピストルを鳴らす役をやっているが……あそこまでアホでバカなら人生幸せかもしれないなとふと思った。

 

 ここまでの記録をつけてもらうために、日陰になる体育館の壁際に座っている教師のところに足を運んだ。

 まさか、体力テストの理由は自分が直射日光を避けたかったためとか言わないだろうな。少し怪しく思ったが、面倒なので問いただすことはしない。


「うーん、桐生はさすがに瞬発力は目を引くものがあるが後はどれもそこそこだなあ」

 俺の結果を聞いてファイルに書き込みながら教師が目も上げずにそう言った。ほっといてほしい。

「こんなやわい足の筋肉で、よくもまああれだけ走れるもんだが。これが才能ってヤツかねえ」

「うおっ、何するんすか!」

 いきなり教師にふくらはぎをつかまれて、変な悲鳴をあげてしまった。反射的に蹴りを入れそうになったが、理性が勝ってくれた。

 校内で教師に暴力行為じゃ、へたすりゃ新聞沙汰だ。


「いやいや感心してるんだよ」

「いいからさっさと離してくださいよ……」

 いつまでもおっさんに足を握られてるのは、非常に不快である。かといって可愛い女子だと言ってもいきなりふくらはぎわしづかみにされても嬉しくはないが。

 ようやく教師が手を離して、他の生徒の記録をボールペンを振り回しながら記入していく。やれやれだ。

 よく言われる台詞ではあるんだが。そんなヤワな体で~ってのは。しかしよく言われるからと慣れるもんでもないし、ありがたくもない。というより、正直気分が悪い。


「あ、なんか一人すげえヤツいる」

 途中経過報告に来た松田が、ファイルをのぞきこんでびっくりしたような声を出した。

 そう言われるとなんとなく興味がわくもので、俺も一緒にかがみこんだ。

 

 確かにみんなほぼ横並びで運動部のヤツがところどころ頭抜けているが、さらにダントツのヤツがいる。

「誰だ?」

 思わず口に出して名前を確認したが、やっぱりというか案の定というか有坂だった。


「へー、さすが。こんな隠し球いて、A組は球技大会優勝できなかったのか」

「温存しすぎ」

 松田と一緒にB組の男が笑った。俺は黙って立ち上がる。グラウンドを見渡すと、有坂は鉄棒で数人固まって懸垂をやっていた。

「あいつあんなひょろっとしてるけど、やるもんだねー」

 手で顔の前に影を作りながらどこか脳天気に松田が笑った。意外にやるってレベルじゃない。

 やりすぎだってくらい、有坂はどの項目でもトップだ。

 

 なんでこんな万能なヤツがここまで隠されてんだって話だよ!

 別にひがんでいるわけじゃないが、全然違うが、どう考えたっておかしい。さっき松田がぽろっと言ったように五月には球技大会があった。 

 ついでにいえば、有坂が転校してきた少し後には体育祭もだ。

 

 球技大会は俺はバスケチームだった。有坂は同じチームにはいなかった、はずだ。

 織田はバレーで足を引っ張って女子に非常に不評だった。ついでに言えば泉水はバドミントンで、球技ならテニスじゃねーのかと突っ込んだ覚えがある。

 

 で? 

 有坂はどこで何をやっていた。残りの種目は卓球だが、卓球はうちのクラスは学年で最下位だったはずだ。おかしすぎる。


 ざわざわと、胸の中が騒ぐ。頭の芯が鈍く痛む。運動部のどこかが有坂を勧誘に行ったという話も今のところ聞いたことがない。普通こんな逸材ほおっておくはずがないだろう。


「有坂ってナニモノなんだろうね。文武両道というか、オールマイティプレイヤーというか? 羨ましいかぎりだよ」

 松田の声が遠くで聞こえる。何者なのか。それは俺が一番知りたい。


「ん? どうしたの桐生。えらい怖い顔しちゃって」

 松田が俺を見て怪訝そうに首をかしげていた。

「ああ……いや、なんでもねえよ」

 あいまいに笑い返す。どうせここで俺一人が騒いだって、誰もとりあってはくれないだろう。

 泉水がそうだったように。どうしたのかと不審がられるか、また道ならぬ恋かと茶化されるかなのは三日目のおでんだしより身にしみてよく知っているさ。


 だから今は何も言わない。


「おーい、他人のことはいいからお前らもさっさと行けよ。授業終わるぞ」

 教師がパンと軽くファイルを叩いて俺たちをうながす。

「へーい。行こうぜ」

 松田が肩をすくめて俺たちを誘う。黙って百メートル走やっているトラックへ向かった。先客が二、三組順番待ちをしている。


 自分の番が来るまで準備運動がわりに軽く足踏みをしつつ、なんとなくプールへと視線を向けた。

 ちょうど女子たちがプールサイドへあがってくるところで、暑さにへこたれてるこっちとはえらい違いでどの顔も楽しそうに整列をしていた。

 あれ、と思ってじっと目を凝らす。


(いない? ……わけないか)

 朝のホームルームの時もいたし、数学のテストも受けてたし。

 俺の視力は両目とも一・〇だ。悪くはないが、かといってメチャクチャ視力が良いとも言いがたい。

 なので全員が同じ水着を着て、水泳キャップに髪を押し込み濡れた前髪で団子状態になっていれば当たり前なのかもしれないが見分けがつかなくて誰が誰やらさっぱりだ。

 

 だからだろう。

 俺は付き合いの長さのせいか、どんな人混みの中でも泉水をみつけるのが得意なほうだったんだが、今日はまったくもってわからない。

 おかしいな、と首をひねっていると織田のでかい声がグラウンド中に響き渡った。


「おーい、亮一ー。いつまで食い入るように女子の水着眺めてんだ~?」

 織田の声につられるように周囲からどっと笑い声が飛んだ。俺の殺意メーターのゲージは一気に真っ赤、フルボリュームまで上がったがここで怒ってもヤツの意見を肯定するだけだ。

 後で覚えておけよと、俺の心のデスノートにメモってコピって保存するところまでとどめておくことにする。

 とりあえずへらへら笑っている織田を睨みつけておいて、俺はスタートラインに並んだ。


「うげえ、俺が桐生とかよ。ついてねえな」

 隣に立ったB組の矢上が、俺を見て嫌そうに顔をしかめる。

「体力テストについてるもついてねえもないだろ」

「お前は一人で走れよ」

「そんなわけにいかねーっつの」

「なんでだよ、おかしいだろ」

「おかしかねーよ。つか、一人で走った方がおかしいだろ。俺はいじめられっこか。だいたい競争じゃないし。勝ちも負けもないんだから、誰と組み合わせになろうがただ走りゃいいんだろ」

「んなわけに行くかよ」

 スタートラインの前で、矢上がやたらごねる。たかが体力テストくらいでこんなにこだわるヤツもめずらしいのではなかろうか。暑いんだし、ちゃっと走ってちゃちゃっと終わらせてしまえばいいじゃないか。


「あ、悪い。順番代わってくれ」

 矢上はどこまでも諦め悪く、後ろに頼んでまで順番を入れかえた。素晴らしい執念だと感心しかけて俺は、げっと声を呑んだ。


(ついてねえ)


 さっき矢上が口にした台詞を、内心で呟く。こうなる予感はあった。だが、そんな勘外れてくれて構わないというのに!


 またここで、有坂幸夜だ。


 この炎天下のグラウンドに不似合いに涼しげで、相変わらずの人なつこい笑顔。

 別に誰と走ろうがなんの関係もないことは十分わかっている。けれど胸の中にぽつりと落ちた黒いシミ。水に垂らしたインクのようにじわりと広がっていく。


「はいはーい、さっさと走るー。後がつかえてるぞー」

 織田がでかい声で仕切っている。とりあえずスタートラインに並び直しながら、もう一度プールサイドへ目をやった。

 やっぱり泉水らしい姿は見あたらない。

 

 有坂は特別緊張した風もなく、力を抜いて定位置についた。こいつは間違いなく足も速いのだろうという気がした。

 なんだか妙にイライラする。理由はわからないけれど。こいつが怪しいせいかもしれない。


「位置についてー」

 間の抜けた声の号令がかかって、俺はハッとした。んなことにいつまでも気を取られている場合ではない。気持ちを切り替えなくてはいけない。

 今は走ることだけに集中するべきだ。有坂についてはまた後からいくらでも詮議すればいい。と

 はいえ、なんの物証もいまだにないわけだが。

 

 ポジションに改めてついて、俺は地面に両手の指をついた。有坂も同じようにした。

 短距離は競技会では必ずクラウチングスタートで走り出さなくてはならない。学校の授業でも教えられるが、うまく使いこなしているヤツは稀だ。

 重心がかなり前に来るので初期加速はつけやすいが、全身の体重を両腕で支えなくてはならないのでバランスを上手にとり本当に美しく正しいスタートをとるのは難しい。

 

 有坂は何の気負いもなく自然にスタートラインにいた。

 俺は小さく息を吸う。肺まで一つ呼吸を入れる。自分の鼓動の音が聞こえてくる。

 よし、大丈夫だ。血液と一緒に全身をエネルギーがめぐる。走るための動力だ。それが一体なんなのか今の俺にはまだよくわからないが。


「用意」


(あ)


 織田の声に腰を上げながら、反射的に思った。横目に嫌でも入って来た姿勢。

 こいつ、すごい。まだ走り出してもいないのになんだが、スタートからものすごく俺が描く理想的なフォームだ。

 

 いやいや、いかん。雑念を振り払って俺は目を上げる。ゴールラインがまっすぐに見えた。たわめられた全身の力が、スタートの合図を待っている。

 

 ピストルが鳴った。

 俺の体が耳より早くその音をとらえて、決壊したダムの水が一気にほとばしるように俺の足が地面を蹴った。


(え)


 視線を横にやるまでもない。短距離、それも百メートルはスタートの一瞬で勝負が決まる。

 残酷なくらい決定的に。生まれて初めてスタートの直後の一蹴りで、ダメかもしれないではなくて、完全に負けたとわかった。

 

 あっという間もなく、有坂がゴールを切る。続いて俺がゴールした時はギャラリーたちは大盛り上がりだ。何のお祭り騒ぎだと呆れるほどの、歓声と意味不明な拍手が沸き起こる。

 俺はなんか嫌われものだったのだろうか。


 のんびり座っていた体育教師もぽかんと立ち上がって、小走りに駆け寄って来た。

「タイムは?」

 有坂にすごいすごいと賞賛が沸き起こる中、やや興奮気味に教師がたずねた。まあ、去年百ではなく四百だったとはいえ県大会で二位入賞した俺を破ったというのはそれだけのことではあるだろう。

 ヒール扱いがどうにも腑に落ちないが。

「〇・一五秒差」

 記録係をやっていた隣のクラスのヤツがストップウオッチを握って半ば叫ぶように答えたのが鼓膜を打った。

 俺のタイムは特別快調の時には劣るが、かといって不調とはいえないものが出ている。

 一秒に満たない〇・一五秒というのは、コンマ単位を削って刻んで競うスポーツではめちゃめちゃでかい。


「エース陥落だ!」

 誰かが面白がってはやし立てているが、それ自体には全く腹がたたない。負けた、とあの時確かに自分自身でわかったのだから。

 グラウンド全体が変なハイ状態に包まれて、まだタイムを計り終わってないヤツらもいるというのに当の教師も収集をつけるつもりがないのか一緒にまざって大騒ぎしている。


 有坂はみんなに囲まれてもみくちゃにされながら称えられているが、困ったような照れたようないつもの微笑を浮かべてかわしていた。

 もっと喜べよ、ちくしょう。


 プールにもこのお祭り騒ぎが届いているようで、女子たちがけげんそうな顔をならべてフェンスに寄って来てみんなこちらを見ている。

 けれどやっぱり泉水がどこにいるのかわからない。


 体操シャツの裾で汗を拭いていると、成金社長のような鷹揚さで織田がこっちへ歩いてきた。

 まるで俺が新入社員かのように、ぽんと肩を叩く。

「今日からいっそう練習に力を入れないとな」

 イラッと来たのは、別に有坂に負けたからでも、暑さのせいでもない。織田が織田だからだ。とりあえず無言のまま一発殴っておいた。

「八つ当たりひでえよ~」

 織田は情けない声をあげて俺を非難したが、もちろん無視した。


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