12
――――雨が降っていた。
六月の半ばに差しかかる頃。気象庁は早々と中国地方も梅雨に入ったとニュースに載せたのに何日も雨の気配すらない日が続いていたというのに帰る時間帯にはしとしとと降り始めていた。
朝には雨の乏しい空はからりと晴れあがっていたせいで、傘なんて持ってきてなかったし、翌日には止むという予報を耳にすれば自転車を置いて帰るのは嫌だった。
エントランスで同じように迷う他の自転車組達と、それぞれの家まで一気に突っ切って帰るかそれとも駅前のゲーセンにでも寄って雨をやりすごそうかと相談していたらおせっかいな奴が寄って来た。
『バス停までと家まで入れて帰ってあげるよ?』
差し出されたピンク色の傘は、高校生にもなって並んで歩くのに抵抗を感じる色合いで考えるより先にすげない断りの言葉が出た。
だいいち傘が何色だろうと、幼馴染だからってこの年で雨が降ったからって仲良く傘さして歩いてりゃ学校でも家の近所でも人が笑うだろう。
『別に笑わないでしょ。だって雨だよ? 雨濡れて歩いてるほうが笑われない? それでも言いたい人がいるならそれはもう言いたいように言わせておけばいいんじゃない?人の噂も七十五日、だよ。まあ、そこまで嫌なら無理にとは言いませーん』
拗ねたのか腹を立てたのかはわからないが、くるりとピンクの傘が回転してそのまま泉水は帰っていった。
やれやれ、やっと帰ったかと……その時は本当にそう思ったのだった。
後から何度、後悔したところでもう手遅れだ。
目が覚めたら、屋上にいたはずがまた保健室に寝かされていた。なんとなくそんな気はしていたけれど。
起き上がろうとすると、ひどく体が重い。まるで全身から魂が抜け出てしまって、どこかへ行ってしまったみたいだ。
(魂なんてどっかにあるのか? ほんとにあるんだったら)
いつか同じ台詞を誰かと話した気がする。紫陽花のそばで。
俺はゆっくりとベッドから起き上がる。やっぱり今日もまた誰もいないようだった。
この学校の養護教諭は一体何をやっているんだろう。職務怠慢にもほどがある。
保健室が薄暗いのは、電気がついてないのと空にまた黒い雲が広がっているからだ。すぐに雨が降り出すだろう。
七月半ばも過ぎたのに梅雨明け宣言は来ないまま、夕立ばっかり降る夏の天気になっていっている。
季節が変わる。俺を置いていく。まだなんにもしてないのに。
逃げなくては。早く、早く早く早く早く早く。
何から? 降り出す雨から?
もう遅い。俺は捕まってしまった。
思い出さなくてはならない。
思い出してはいけない。
違う。思い、出したくない……。
これはなんだ? 目にうつる世界がやわらかくぐにゃりと歪む。まるで飴細工だ。俺の熱が加えられて優しい小さな世界が形を失おうとしている。
俺は崩壊を止めなければいけないのに、指一本動かすことができないでいる。すべての装飾がむき出しになってしまえば、もはや俺の世界は保てない。
ここまで隠してきた大事な秘密が白日の下に曝されてゲームセットになるのに何にも出来ない。
あの日と同じように。
全身が熱を持って呼気まで熱い。両手の指の先まで力を入れてようやく保健室の戸を開けた。
廊下にも誰もいなかった。けれど泉水は必ず学校のどこかにいる、有坂も帰りはしないだろう。それだけは間違いない。
もう時間がない、と有坂は言ったのだ。
これは虚飾の世界。そして虚構の物語。
いつからかなのか、はっきりとした境目をもう意識することはできないが一人でせっせとこの嘘っぱちの世界を作り出して維持していた奴がいる。
いつだったか泉水も言っていた。
『有坂君は魔法使いだからね』
魔法だか何だか知らないが少なくとも有坂は俺をとりまくこの世界をおさめる王であり、太陽だった。
だからまともに見つめることも出来ず忌避し続けるしかできなかった。当たり前だ。
恋なんかのはずがない。
がらんとした廊下を必死に歩いて教室へ向かった。
そこにいるという確信があったわけじゃない。けれど、他にいる場所もないだろう。
一粒、二粒。雨が窓を叩いたのを合図に、バケツをひっくり返したような勢いで土砂降りになった。
激しい雨の音が、世界を揺らしている。
たどり着いた教室の隅、案の定窓際の誰かの席に泉水が水色のセーラー服の背中を向けてぽつんと座っている。
俺が呼びかけるより先に、泉水は白い顔で振り返った。目を合わせて寂しげに笑う。
「…………」
呼びかける言葉を探しあぐねていると、そのままふっとゆらぐように泉水の姿が見えなくなった。まるで誰かがロウソクの炎を吹き消したみたいに。
思わず叫んだかも知れない。けれどそれすらも他人のことのように自覚できなかった。
これまで有坂が不自然に捻じ曲げてきた全ての蓋がバチンと音を立てて壊れてしまったついでに、感情も溢れ出してくるようで、もう止めることなんてできなかった。そんなつもりもなかった。
そのまま自分が泣いているのか、怒っているのか、恨んでいるのか、それとも笑っているのかそれすらもわからないまま、狂ったように吼え続けた。
このまま俺は歯止めもきかず壊れてしまうのかもしれなかったが、そんなことすらもどうでも良かった。
(一緒に、帰っておけば良かった)
何度も何度も考えた。
現在もまだ終わってないが、その頃からバスを降りて橋のたもとのあたりは春からずっと工事をしている。
夕方の時間、そこの十字路は帰宅を急ぐ車たちの抜け道になっている。工事で細い道はいっそう狭くなっているのに、時々なんの考えもないドライバーたちが混ざって視界のいい日でもこちらがひやっとさせられる。
そんなことが何度もあったけれど近道の誘惑にはかなわず、雨の日は視界が悪くなってさらに危険が増すことを俺も泉水も多分知っていたけれど、いつだって無自覚で自分が肝を冷やす場面ですらどこか他人事のような気持ちでその道を使っていた。
もし。
あのエントランスで泉水の誘いを素直に受けていたら、何か違っていたかもしれない。
そんな保証はひとつもないけれど。
もしかしたら俺らと同じように、危険を自分には無関係だと考えたドライバーに、二人まとめて鉢合わせしただけかしれない。
けれど、今ほどの後悔はしなかったはずだ。
駅前のゲーセンによって本屋で立ち読みしまくって、帰宅時間を大幅にずらしまくっても結局雨を避けられなかった俺が橋まで戻って来た時もまだ工事現場の近くには普段はない通行止めと人だかりがあった。
無駄に遠回りをしなくてはならないことに腹を立てながらも、何かあったのかな、とちらりと人だかりをのぞいてみたが、何やら話してる人の隙間から紫陽花のそばに転がって雨に打たれたピンクの傘が見えただけだった。
その傘の色に、見覚えがなかったわけではない。
けれど、何も事象が結びつかずそのまま家に帰った。いつでも危険は俺にとって遠くに、自分に関係ない人のところで起こることだったからだ。――――その日までは。
俺も、俺にとって親しい人たちもささいな不注意でケガをすることは何度もあった。
けれどとりかえしのつかない大きなアクシデントに見舞われたことがなく、ずっと俺は幸せな勘違いをしていたのだった。
不幸なニュースはごく間近で遠い場所で起きることなのだと。
家の玄関を開けるまでは。
ドアを開けるなり、ただいまと声をかけるよりも早く中からうちの母親がすっ飛んで来た。
なんて顔をしてんだよ、と思ったのはその時だったのか、それともその日以来何度も何度も同じ場面を反芻しての感想なのかもうあやふやだ。
(あんたなにやってたの。何回も電話したのに)
(亮一、大変なことになったよ)
(高野さんとこから電話があって、泉水ちゃんが車にはねられたって。橋の工事してるところで)
まくしたてられる言葉がどれも意味がわからなくて理解できなくて、携帯のディスプレイで家から何度も着信があったのを確認したのは、翌日になってからのことだった。
普段マナーにしてるし、カバンに放り込んで全然気がつかなかった。というかそんな連絡に気がついてたらなんか変わってたのか?
だって、はねられた直後にもう意識どころか命がなかったんだろう?
葬儀の間もずっと繰り返しずっとそのときのことを考えたけれど、答えは出ないまま記憶は昨日見た夢みたいに不明瞭に薄い。
それなのにピンクの傘と濡れそぼった紫陽花の青紫だけ色鮮やかに残っている。何度も思い出したからだ。
長い間、喉も張り裂けんばかりに獣みたいに叫んでいたのに不思議と誰も教室へ様子を見に来たヤツはいなかった。
やがて俺がくたびれ果てて、声も出なくなった頃教室のドアにもたれるように有坂幸夜が姿を見せた。
朝と変わらずどこか疲れたようなしぐさで、いつもの微笑もない。
「…………」
有坂はなにかを探すように、教室の中に視線をさまよわせる。
「お前の仕業だったんだな。全部」
かすれた声が出た。有坂は黙っている。もしかしたらよく聞き取れなかったのかもしれない。
「ずっと俺が感じていた違和感は、お前の存在じゃなくて」
今まで教室で目立たなかった人物が急に存在感を増したことではなく、これまで当たり前にいた人物が教室からいなくなったことへのものだったということだ。
有坂は俺のほうに一歩踏み出した。
「大丈夫?」
迷った様子をしながらも有坂が口にしたのは、俺への気遣いだった。
「急に記憶が戻ったからかなり負担が大きいと思うけど」
大丈夫だとはいえなかったし確かにいろんな意味でダメージはでかいが、けれどどこかすっきりした部分もあった。
降り続ける雨が、窓ガラスを音を立てて叩いている。
「全部話せよ、はじめから」
もう何も隠す必要はないんだから。
「大して話せることなんてないよ」
有坂は言葉を選びながら慎重に口を開いた。
「葬儀の後、桐生は魂なんてものはどこかにあるのかって聞いただろ。もしあるなら、一度だけでも会ってみたいって」
「――――――」
そうだ、クラスの全員が来た葬儀の後何故かこいつと橋のところでなんでだか会って声をかけられた時に思わずそういう話をした。
「彼女も、心残りがあるって言ってた。どうしても伝えたいことがあったって。だから僕にできる範囲で二人に協力をした。それだけのことだ」
有坂は淡々と言った。
「できる範囲広すぎだろ」
どうにでもいいことにいちいち突っ込むのは、まだ現実感がないからだ。
雨の日のことも葬儀の日のことも、そして有坂にもだ。
あまりにも冷徹に、現実が俺の目の前にあって逆にリアリティがない。ただ、受け入れたくないだけかもしれないが。
「泉水がどうしても伝えたいことってなんだ?」
聞いてみたが、有坂は黙って肩をすくめて答えなかった。
(有坂君は、なんでもできちゃう魔法使いだからね)
たとえ話だと思って聞き流していたが、こういう意味だったのか。
「期限付きの魔法だけどね」
有坂は視線を落として続ける。
「僕は本物の魔法使いではないから、死んだ人をいつまでも存在してるように見せかけることはできない。そもそも人の魂を現世に引きとどめておける時間は限られている」
「…………」
「高野さんが亡くなったのは先月。そしてあさってが」
有坂はそこで少し言葉を切った。吸い込む息が苦しげだった。こいつは多分宣告者には不向きなんだろう。
雨がいつの間にか小降りになっている。静かだった。
「四十九日目」
四十九日。それは死んだ人がこの世にいる期間だよ。これもいつか泉水が言ってた台詞だなと思った。
そういえばついでに思い出したが、じいちゃんが死んだ時にうちのばあちゃんも言ってたな。
あの世とこの世の境目、中有にいられる期間がその日数だと。
「だから本当はまだ時間があったはずなんだけど。……力不足でごめん」
ぽつりと有坂は付け足した。
「もう……会えないのか?」
蒼ざめて疲弊した顔に聞くのは酷だろう。それでも考える前に口が勝手に尋ねていた。
有坂はゆっくりと首を横に振る。
「大丈夫、まだ……」
なにがまだなのかは説明せず、有坂はゆっくりと右手を前に出し掌をひらいた。
「二つ目の質問は本人に直接聞くといいと思う」
手のひらにかげろうのようにゆらめく青い光を見たと思った。その直後に魔法のように泉水の姿が出現する。
泉水はどこか不安そうに、俺と有坂を交互に見比べている。水色のセーラー服。事故の当日泉水が着ていたものはとっくに処分されていたし、予備の制服は泉水の父親が棺におさめたはずだった。
「高野さん」
有坂にうながされて、泉水はためらいながらもうなずいて俺のほうへ向き直った。
暗い教室の中で、泉水だけがほのかに光を帯びている。
「ええと」
思わず俺が先に口を開いたが、言葉にならずに不覚にもうめいてしまった。さっきようやく全部思い出した衝撃を受けたばっかりなのに、急に何を言えばいいのか何をどう聞いたらいいのかちっともわからなかった。
泉水は困ったような、そして寂しそうな微笑を浮かべている。
とりあえず一歩だけ泉水に近づいた。正面から真向かう形になって、泉水が瞳をあげる。
昔から良く知っている顔なのに、見たことのない表情をしていた。
「ごめんね、亮ちゃん」
少しの間のあと、泉水がようやく言葉を発した。
「なにがだよ」
「いろいろ」
「そんなんでわかるかよ。ちゃんと言えよ」
別に泉水を責めたいわけではない。そもそも謝られるような覚えもない。言葉にならないのは、こっちも同じだ。
「別にお前はなんも悪くないよ」
「ほんとはねわたしにはわかってたんだ、ずっと。わたしがそばにいるから亮ちゃんが毎日みたいに頭痛で苦しんでるってこと。わたしのせいだって」
「だから別にお前は」
「でももうちょっとだけ一緒にいたかったんだよ。どうしょうもないってわかってても、もうちょっとだけ、ぎりぎりまでって。……二度と一緒にいられないから」
泉水はさえぎろうとする俺を無視して早口に言った。
「ごめんね」
謝られると腹が立つ。泉水にではなく、自分にだ。
「ほんとにごめんね」
「さっきから言ってるけど謝罪なんてしてもらいたくねえよ。そんなこと言い出したら俺の方だって謝らないといけないこといっぱいあるっつーの。俺はごめんとか言われたくないし言いたくもない。ぜってー言わない。お互いごめんごめん言い合ってたってしょうがねえし、気をすませたくない。つか、気ぃすまねえし。……そんなことはどうでもいいんだ」
いい加減腹が立って強くさえぎると、泉水は笑った。今度は本当におかしそうに。
俺は憮然としつつ言葉を捜す。
今、言わなくちゃいけないのは。
俺が泉水に言わなきゃいけないのはたったひとつだけだ。
わかってはいるんだが、だからと言ってさっさと口に出せないのは言葉が見つからないわけではなく、単純に有坂というギャラリーがいるせいも含めて恥ずかしいだ。
ギャラリーに関してはこいつがいないと泉水が存在できないんだからしょうがないといえばしょうがないが、いようがいまいが簡単に言えるくらいならとっくにこれまでみたいな幼馴染の関係ではないだろう。
どういう返事が戻ってきててもだ。
有坂はさっきから俺たちに背中を向ける格好で机に座っている。この後、もしも俺がまかりまちがって錯乱した挙句に思い返せば死にたくなる台詞を口にしたとしてもこいつは知らん顔をしてくれるだろうことは疑っていない。
別に黒歴史になるような、そこまで奇をてらった言い方はしない予定だが俺にだって多少恥らう権利はあってもいいはずだ。
こういっちゃなんだが、幼少のみぎりの泉水の中に存在する思い出の俺を別にすれば初めての経験のはずだしな。
とはいえ、俺がまごまごしている間に無情なほど時間はどんどんすぎていく。有坂は魔法使いだが、生身の人間でもある。
シンデレラじゃなくたって魔法の時間に限りはあることは知っているし、そして続けさせてはいけなかった。
ええい、しょうがない。俺は腹をくくってもう一歩進み出ると、泉水の手をとってみた。
……こんなに暖かいのに。
目を合わせると泉水はにっこりと笑った。その瞬間。
「亮ちゃんだーい好き!」
せりあがって来た感情に、俺が胸を詰まらせて言葉を発せなくなったタイミングで泉水が弾けるように大きな声で言った。
「なっ、ばっ」
不意をつかれて仰天している俺に、泉水はいたずらが成功した子供のように明るい笑い声をあげる。
机に座ったままの有坂を見ると大きく前のめりになった背中が震えている。多分笑いをこらえているからだろう。
「あーあ、ついに言っちゃったあ」
「なんだよお前。なにこれで満足です、みたいな顔してんだよ」
「だって」
泉水は笑ったまま答えた。
「もう絶対言えないって思ってたから、言えて満足だよ」
「…………」
泉水はつないだまま俺の手を一度だけぎゅっと握ると、優しくほどいた。
「ということで」
何にも言えなくなっている俺を放置して、泉水は有坂に声をかけた。
「有坂君にはほんと迷惑をかけちゃって。ごめんね。そしてたくさんありがとう」
「いや……僕のことは気にしないで」
上半身をひねるようにして振り返った有坂が机から降りた。いたたまれない顔をしている。
「……もういいの?」
「うん」
泉水はあっさりとうなずく。こっちが気が抜けるほど。
「キリがないからね。ほんとにありがとう」
有坂はゆるく首を振った。
「ちょ、ちょっと待ておい」
このまま話が収束しそうな流れに慌てて俺が引き止める。
「お前言うだけ言いっぱなしで終わりかよ。こっちの返事も聞けってんだ」
自分だけ気を済ませてすっきりしていくつもりか。
有坂は俺を見て、そして泉水を見た。判断を待つように。泉水は大げさなそぶりでため息をついて見せた。
「えー」
「えーってなんだよ、えーって」
「亮ちゃんの返事なんていらないよ」
「な、なんじゃそら。どういうことだ」
なんて自分勝手な話なんだと俺が憤慨していると、泉水が肩をすくめる。
「だって亮ちゃんの返事なんて知ってるもん」
きっぱりと言い切った。
「…………」
「知ってるもーん」
どこから出た確信なのか知らないが、絶句する俺をよそに泉水は胸をそらして自信満々に笑う。
「まあ、どうしても亮ちゃんが言いたいっていうなら聞いてあげてもいいかな。手短にお願いね? はい、どうぞ」
「――――お前なあ」
そう言われてじゃあありがとうと、何かをいう気になるやつがいるとでも思うのか。こいつのペースに振り回されてばかりではいかんと、くらくらするこめかみを押さえてようやくそれだけ声を振り絞る。泉水はまた笑った。
「あはは、冗談」
「時と場合を選べよ」
「そうだねえ」
泉水は少しだけ真顔になると、ちょっと頭を傾けた。茶色い髪が襟元ではねる。
「じゃあ、時を選ぶとして。亮ちゃんの返事は百年後に聞いてあげる。文句でも不満でもなーんでも全部。ほかにもわたしに言いたいことがあればそれもまとめて聞いてあげるよ。だからね―――」
泉水は大きく息を吸い込むと、再びにっこりと笑った。
まるで大輪の紫陽花が咲き零れるように。
「だから、百年後にまたね!」
その言葉に弾かれるように、とっさに伸ばした俺の手はむなしく宙をつかんですりぬける。
まばたきほどの間に、ほんの一瞬の隙に泉水は完全に俺の前から消えた。
握っていた手のぬくもりだけを残して。
「あのバカ……」
ぼそりと呟くと、突然泉水がいなくなった実感が波のようにすごい勢いで押し寄せてきた。
たった今まで浮遊霊だか残像だか知らないが、目の前にいたのに。ここに、いたのに。
もう、本当にいなくなった。
青白い顔をした有坂が心配そうに俺を見ているので、お前こそ大丈夫なのかと聞いてやりたいのに声が出ない。
礼も言わなくてならないのに、唇はただ震えただけだった。
百年とかめちゃくちゃ長げえよ。四十九日とか、七十五日とか全然比べ物にならないくらい長すぎるぞ。
俺は今すぐ文句も不満も言ってやりたいのに、そんな長い時間覚えてなんていられない。
幼稚園の記憶だって忘れてたのに、そんなジジイになったころまで覚えてるはずがねえだろ。
さっき言いそびれた、たった一つのこと以外は。
有坂が武士の情けか、自分もしんどいのだろうに俺の頭にタオルをかぶせてくれたので、雨は降り止んでいたが帰ることも出来ないまま遠慮なくしばらく黙って泣いた。