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「なるほど。では、有坂くんのことを考えると頭が痛くなるということですね?」
七月も半ばの教室はすべての窓を全開にしても、そこから校庭のプールに向かっていっそ飛び降りてしまいたくなるほど蒸し暑い。
昼休みになるが早いか、大部分のクラスメートたちはわずかばかりの涼を求めて教室から姿を消していた。
俺のすぐ前の席の持ち主もそのうちの一人で、今は幼馴染みの高野泉水が空いたその席に勝手に陣取って俺の話を聞いている。そして大真面目な顔でそう尋ね返してきた。
泉水が口にした内容には確かになんの間違いもないのだが、しかし何故か肯定したくない。ものすごく嫌な予感が、宇宙の向こうに一瞬で突き抜けるほどの容量とスピードで俺に向かって襲いかかって来ているからだ。
なにしろこいつとは家が近所で物心つく前、というよりもお互いの母親の腹の中にいた頃からの古い付き合いだ。それなので、泉水がこうやって大上段にかまえた時はろくな台詞を発しないことは三日目のカレーよりも深く身にしみて知っている。
不吉な予感におののいて黙っている俺を無視して、泉水は勝手にうなずいた。
「わかりました、それはね亮ちゃん」
びしりと俺の鼻先に人差し指を突きつけて、おごそかに断言した。
「間違いなく有坂くんへの恋だよ!」
「大間違いに決まってるだろ!」
間髪入れずに前髪ごと額を叩いてやる。イラっと来たのはなにもこの暑さだけのせいではあるまい。
「あ、痛っ!」
泉水は額を押さえて俺の机に突っ伏したが、自業自得だ。
「アホか」
「ひどいなあ、もう」
「どっちが悪いんだ!」
右手で額を押さえたまま恨みがましい目で見上げた泉水は、自分の発言を棚に上げたまま悪びれた様子もなく左手で俺を指す。
「なんでだよ!」
いちいちムキになる俺も俺だという自覚はある。が、ここは偏見というかなんというかな泉水の言い分に対して、断固として譲ってはいけない場面だ。
「だって、ねえ」
泉水は芝居がかった態度で水色のセーラー服の襟ごと肩をすくめると、大きく息を吐いた。
「有坂くんの姿を見ると胸がドキドキして、この季節とはいえ手に汗をかくこともあって、そのうえ有坂くんのことを考えると頭が痛くなるとまで言われたら他にどう考えようがあるの」
泉水が首をかしげると、茶色い毛先が肩ではねる。
「あたし以外の誰に聞いたって、それは恋の症状だって答えると思うなあ」
「う」
痛いところを突かれて俺は思わず口ごもる。実際そう要約されるのが恐ろしくて、今日までずっと誰にも相談せず一人悩んでいたのだった。
「ね?」
まるで駄々っ子をあやす母親のような優しい声で、泉水が念を押そうとする。こいつは生まれたのは俺より二ヶ月も後だというのに、昔から何かにつけて姉ぶった態度をとろうとするのが小憎らしい。
「ね、じゃねーよ。ね、じゃ」
このまま言いくるめられてたまるもんか。反撃の態勢を整えるべく俺は咳払いを一つしてから椅子に座りなおした。
というか、まず固有名詞を大きな声で連呼するのをやめろ。ほとんどの連中が外に行ってるとはいえ、一番聞かれてはいけない当の本人である有坂が残っているのだ。
さっきからずっと窓際に、数人でかたまってなにやら盛り上がっているのを知っている。意識するまいとすればするほど、何故かあいつは視界の片隅に入ってしょうがないのだった。
今のところはまだこっちの話が聞こえている様子もなければ、そもそも俺らの存在すら気づいてないような感じだけどな。しかしこの先なにがどうなって本人の耳に入るかわからないし、有坂自身じゃなくても別のヤツだろうと第三者に聞かれた時点で俺は誤解で破滅してしまうだろう。
「デリケートだねえ」
「そういう問題じゃないだろ」
厳しく注意すると、泉水はくしゃみを我慢してる子犬みたいな顔でおかしそうに笑いをこらえている。
「俺の言い方が悪かった。もう一度ちゃんとはじめから言い直す」
ひそめた声が泉水まで届くように、俺は少し机に身を乗り出すようにした。
「あいつ、前からあんなヤツだったか?」
「あんな、とは?」
抽象的すぎたのか、泉水はぴんとこない顔できょとんと目を瞠る。
「前からあんなふうな、目立つヤツだったかってことだよ」
「んー。まあ目立つ人だと思うよ」
こっちの真剣さの半分も無い気軽さで泉水は肯定すると、声を絞っている俺の努力を皆無にするデリカシーの無さで思いっきり窓際の有坂幸夜へ丸い目を向けた。
「バ、バカ。見るなって」
慌てて泉水の顔の前で手をひらひら振って視線をさえぎる。泉水は吹き出した。
「そんなのしたら余計おかしいよ」
……確かにそのとおりだ。が、お前に言われるともの凄く腹が立つんだが、どうしてだかわかってもらえるか?
「いいからこっち向けって。話してる人の方を!」
「はーい」
泉水は子供のような素直さでうなずいて俺に向き直る。素直すぎるほどだ。急に近いところからまじまじ見られるとそれはそれで落ち着かない。
俺は少し椅子に背中を預けるように座り直した。
「あいつが目立つかどうかってのは今この瞬間の話じゃねえよ」
気づかれないようにそっと視線を教室の隅へ向けた。それだけのことで俺の心臓が存在を主張して激しくノックをはじめる。だからなんだというんだ、本当に。
有坂が目立つというのは確かだ。
窓際に集まって喋ってる連中は、制服の色だけは涼しそうだがやっぱりどいつも暑そうに下敷きやらノートを片手にパタパタと風を立ててこの気温をしのいでいる。ただ一人をのぞいて。
有坂幸夜はいつもの悠然とした微笑を浮かべて会話に加わっていた。まるであいつだけはこの暑さを感じてないかのように。
ありえないことはもちろん百も承知だが、俺にはそんな風に見える。
有坂は周りの連中と比べて、背が高いとか、ガタイがいいとか、声がでかいとかそういうことはなく、その点ではどれも人並みで飛びぬけたところがない。
顔は……まあ好き好きだが。俺から見れば色白でふにゃっとした顔立ちは女々しく思えるが、TVなんかで世間から好まれてるタレントの容貌を考えれば、多分一般的にはそれなりにそういう評価なんだろうと思われる。
なんにせよ男の容姿なんて、俺にとっては死ぬほどどうでもいい。今はそういう話ではない。
他の連中と細かく見比べればあれこれ違うかもしれないが、有坂が人のなかで埋没することなくひどく存在を主張しているのはそういう部分ではなかった。
目を引く。理由はわからないけれど、どうしてもあいつで視線が止まる。
……確かにこの部分だけクローズアップすれば、泉水の言うとおり恋の症状だと言われるだろう。
けれど、違う。当然ながら違う。そんないいもんじゃない。
俺が同性愛に偏見を持っているとかそういうことではなく、嫌な気分がする。インフルエンザの予防接種で順番待ちの列に並んでる時とか、学校で悪さして担任から親に連絡が行ってるのがわかってるのに家に帰らなきゃいけない時とかそんな昔の記憶に似ていた。
ざらっと胸の内側をこすられる感じ。
こんな気持ちが恋なんかであるはずがない。あってたまるか。
有坂から視線を外すと、自分でもあいまいなまま口にしてみる。
「だから、なんていうか、急にボリュームがでかくなったみたいな?」
「へ? 有坂君が太ったってこと?」
言った本人でも不確かな言葉なんだから当然といえば当然だが、泉水にはまるっきりピンと来なかったらしく目を丸くして俺を見た。突然水をぶっかけられた猫に似ている。
「い、いやそういう意味じゃなく……」
有坂幸夜は間違いなく細身である。形容詞をつけるとするならばありきたりだが、柳のような、であろうか。
「だからそういう直接的なイメージじゃなくて」
「ふうん?」
泉水が悪いわけではなく、自分の表現力と語彙の無さにイライラして片手で髪をかき回していると泉水が首をかしげた。
「べつに声もおっきくないよね」
「そうだな」
じゃなくて、ともう一度同じ言葉を繰り返して俺はまた言葉を探した。
「なんというか急に電気がついたというか、モノクロだったのがカラーになったというか」
「えーっと、それは要するに以前は有坂くんの影が薄かったと」
今度は超翻訳じゃなくて、ちゃんと俺の台詞を要約した。できるなら最初からやれ。
「そうそう、それだ」
俺は我が意を得たりと思わずまた机に身を乗り出したが、泉水は困ったと言いたげな顔つきをしている。納得できないらしい。
「んー、それって単に去年は転校して来たばかりだったしおとなしくしてただけじゃない?」
「う」
違うとは言い難い。
「それもあるかもしれないけど、それとは違ってさ……」
違って、とは言ってもどう違うのかと説明するのはやはり難しい。
頭の芯がじんわりと鈍痛を帯び始める。余計に思考がまとまらず、語尾は蒸し暑い教室の空気に溶けて消えた。
けれど、繰り返すがおとなしいヤツが自己主張をはじめたとか、クラスで発言回数が増えたとかそういう単純な話ではないのだ。そもそもそんな事実はない。相変わらずひっそりと自分のある場所に座っていて、そういう意味では有坂幸夜は去年同じクラスに編入してきた時から何も変わってないと思える。
そうじゃないんだ。けれど口に出そうとすると言葉は全て形になる前に、コーラに浮かべた氷みたいにころんと溶けて消えた。
そんな俺をもてあました泉水も椅子の下でぶらぶらさせていた足をそろえると、再び救いの手を伸ばそうと頑張ってくれた。
「去年はあたしは隣のクラスで、亮ちゃんも有坂君も別だったからそんな話した覚えもないけどさ。でも、今とあんまり印象変わらないけどなあ」
「……」
「可愛い顔してて、人当たりが良くてみんなに親切で。うん、一緒一緒」
「うがー、ちょっと待て」
うかうかしていると、危うく泉水に綺麗にまとめられるところだった。机を掌ではたいて話を止める。しかしこれではさっきから何の進展もない。
「そう並べられるとそうかもしれないけどな。でも違うだろ、根本的に違うだろ」
言ってる自分もうんざりしてきた。何度強く否定しても、漠然としたまま根拠を上手に示すことが出来ないままだ。
有坂幸夜は去年の二学期に、俺がいたクラスに転校してきた。田舎の学校にひょろっとしたいわゆるカワイイ顔の転校生は珍しい。
そのおかげでうちの学年のみならずちょっと全校で話題になった記憶があるが、けれどその頃の俺が有坂にどんな印象を持ったのか、転校してきたのが残暑が厳しい頃だったのかもう涼しくなっていたのか、どこの席に座って二学期三学期といろんな学校行事があったのにあいつに関わるどんなエピソードがあったのか、など何一つ覚えてないのだった。
泉水もそんなもんだろうと思ったが、意に反して泉水は首を横に振った。
「んー、あたしは文化祭の準備しながらクラスの女子がD組に可愛い転校生が来た! って盛り上がってた覚えがあるよ」
「む」
「うちのクラス、劇やったじゃない? 背景担当だった女の子たちが入れ替わり立ち替わりD組にのぞきに行っちゃってさ。準備が全然進まないって男子は怒り出すし、そのうちそもそもなんで劇なんかめんどくさいことやるんだ、って土台からくつがえすようなことを言い出す子までいて、文化祭直前までもめてもめて大変だったんだよね」
「ミーハーだな、女は」
「えー」
呆れて口を挟むと泉水は不満そうに唇をとがらせた。
「あたしは別に見に行ってないもん」
「どっちだっていいよ」
ムキになって否定されたが、話が本題からまたズレるだけなので軽く流した。
「それは転校生が珍しいから騒がれただけだろ」
「声をかけたらちょっとはにかんだ笑顔で手を振ってくれるんだよね。それがすごい可愛くて」
「……お前も見に来てたんじゃねーかよ」
「って他の子たちから聞いた!」
泉水はにっこりと笑ったが、ごまかされない。記憶の石盤にしっかりと刻みこんだが、とりあえず今は追及しないことにする。
「まあ、確かにお前は昔からどうでもいいことはよく覚えてるヤツではあったなあ」
「それ褒めてる?」
泉水は今度はふくれっ面になった。
「亮ちゃんがすぐなんでも忘れちゃうだけじゃないの?」
「大事なことだけ覚えていたらいいんだよ!」
「大事なことの優先順位がおかしいから、だいたいにして困ることになっちゃうんじゃないかなあ」
「……」
重々しく言われたが、否定できないのでとりあえず黙った。それにしてもやっぱりまた話がズレまくっている。けれど元に戻すのにも、さすがに少々根気がなくなっていて自然と溜息がこぼれた。
有坂の何が変わったのかを説明しようとすると難しくてどうにも話が進まなくなるのは、有坂自身は根本的な意味ではなんにも変わってないからだ。
いつでも泰然自若といった雰囲気で、人の輪の中にいるのにけれどどこか中心からは離れて自然な距離でみんなを見ている。俺が去年知っていた有坂はそういうヤツで、そして今もあいつはそういうヤツだ。
なのに有坂は突然存在を形作る色彩が濃くなったように感じる。なにも変わっていないのに、だ。
去年だけじゃない。俺は今学年も有坂とまた同じクラスになったが一学期のはじめ、最初の席替えの後どこの席に座っていたのか覚えてない。球技大会はなんの種目に出ていた?
さっぱりだ。
「それはー、亮ちゃんが有坂君にこれっぽっちも関心がなかったから……」
ぼそりと泉水が呟いた。
それを言われるとなんにも反論できないんだよなあ。そして話が振り出しにまた戻るのだ。
けれど、たとえそうだったとしてもじゃあなんで急に俺はあいつに関心を持ち始めたんだ。そしてこの胸の内側のあたりをを撫でる、ざらついた感触はどう説明できるんだろう。
自分の中にふつふつとたまっていく違和感。残りカスみたいな不審感。居心地の悪さ。 見てはいけないもの。触れてはいけないもの。近づいてはいけない。
有坂が視界に入ると、自分の中の奥深いところでなにかの警笛が鳴らされている気がする。
ただ、ネックはその不安感が何に由来するのかがさっぱりわからないことなんだが……。
「それが一番肝心なとこだよねえ」
泉水にも溜息がうつったらしい。
「……だな」
「……別に有坂君が嫌いなわけじゃないよね?」
何故か泉水は心配そうに眉をよせて、俺をじっと見ている。
もちろん有坂に対する恋でもないし、嫌いだから難癖つけてるわけではない。というか、知らなかったが特に親しそうな仲だとも思ってなかったがまさか、お前たちこそそういう関係だったのか。
「バカ」
音声には出さなかったはずだが、どうやってか俺の胸中を読んだらしい。泉水は氷のような視線を俺に向けた。
「バカってことはないだろ、バカってことは。お前の小学校の初恋相手だった松山だってあんな感じの草食系だったろうが」
思わずムキになって言い返したら、泉水は途端に真っ赤になった。
「な、なに言ってんの? 自分なんか幼稚園の頃はミドリちゃんも由佳ちゃんも志鶴ちゃんも歩美ちゃんも、可愛い子なら手当たり次第にみんな大好きって言いまくってたじゃないの!」
「は!? 人聞きの悪いことを大声で叫ぶな! 誰だよそいつら!」
「へえー、忘れちゃったんだ」
「忘れたもなにも知らねえよ」
「ふうん、そうなんだ」
「てか、今のその話全然関係ないだろ!?」
「それはこっちの台詞」
泉水は切れ味鋭い白刃のような冷ややかさで俺をばっさり切り捨てた。列挙された名前に誰一人心当たりがないのに理不尽だ。
ぼちぼち教室に戻ってきはじめたクラスメートたちが、からかいの視線をこっちへ向けているが全部スルーしてやる。いちいち気にしていたら身がもたないからな。
お互いにむっつりと黙り込んでしばらくにらみ合ったが、しょうがないので俺から折れた。
「んなの、物心つく前の話だろ。だいいち今と全然キャラが違うじゃねえか」
「幼稚園に入っても物心がついてないって、それもどうなの……」
泉水は呆れたように笑った。
「まあ、これで亮ちゃんの記憶があてにならないことは実証されたよね」
「いや、比較対象が過去すぎだろ」
「そうかなあ。じゃあ、亮ちゃんがこないだの土曜日のお昼に食べたものはなーんだ?」
「お前な……」
俺はがっくりと脱力して肩から机に崩れ落ちた。そもそも正解を誰が判定するんだ、誰が。
「もういい」
誰にとっての救いの鐘かは知らないが、午後の予鈴がスピーカーから教室に鳴り響く。悩み相談どころか、異常に疲れ果てただけだったぞ。
「さっさと自分の席に帰れ」
泉水が占領している席の本来の持ち主が戻ってきたのもあって、手を振ってしっしと追い払う仕草をしてやると不服そうに勢いよく立ち上がった。
そのまま行ってしまうかと思ったら、俺の隣に止まる。
「でも頭痛はかわいそうだね。早く良くなるといいね」
こめかみに、この季節だというのに妙にひんやりした感触が触れる。額の熱が一瞬だけ拡散した。
「な、なっ」
不意打ちにびっくりしてる間に泉水はにっこり笑って指を離す。
「もうすぐ夏休みだしね。きっとそのうち良くなるよ」
どんな根拠があるのか確信ありげに泉水は笑うと、そのまま何事もなかったようにさっさと自分の席に戻っていった。
「あいかわらず仲のよろしいことで」
隣の席に戻ってきた織田が、誤解にもとづきまくった上に余計な口をはさんで来た。
否定する気力もすでにひとかけらも残ってなかった俺は、そのまま背中を椅子にあずけてずるずると沈み込んだ。
結局泉水に相談してみたところでなんら解決方法などあるはずもなく、翌日も翌々日も俺は有坂を視界に入れるたびなんとも言えない頭痛と不安感にさいなまされ続けた。
じゃあ見なきゃいいじゃないかと思うだろうが、やけに目立つヤツなのでクラス替えでもおきない限り、どうしてもあいつの存在を意識せずにはいられないのだった。
しつこいようだが、これが恋などとありえるはずがない。何故ならウソかホントか知らないが、泉水がこのあいだずらずら並べ立てた俺の幼稚園時代好きだったらしい女子のことを思い出そうとしてもこんな気分になりはしないからだ。
すっきりせず落ち着かない気分が続くが、かといってもう誰かに相談してみようかという気分にはこれっぽっちもならなかった。
自分の人徳のなせる業だろうが、そもそも何事も頼りになりそうな友達がいないことに思い至ってそれはまたそれで鬱々とする毎日だった。
「亮一、帰りうち寄らね?」
ホームルームの後、頼りになるどころか面倒ばかりかけてくれる筆頭の織田がカバンの中にゲームの攻略本をしまいながら俺に声をかけてきた。
人のことは言えないが、ちらりと見えたカバンの中身はゲーム機と漫画だけしか入ってない。何をしに学校に来てるんだ、何をしに。
「んー、どうするかなあ」
「なんだよなんだよ、ノリが悪いな」
誘いの返事をしぶっていると織田は不満そうな顔をした。織田は家から学校までたった二駅というたいした距離でもないくせに、贅沢にも電車通学をしている。
しかしうちからは微妙に遠回りになる方角なので、自転車だと暑いし、電車で一緒に行けばたいした額ではないが定期じゃないこっちは多少とはいえムダな運賃がかかる上に駅からまた自転車という面倒にもほどがある自体になるのである。
真逆の方角ではないだけマシだが、この気温だし頭痛はひかないしで、正直かったるいのが先にたつ。
「いいじゃんいいじゃん門田も来るって」
「あっそ」
門田が来ようが俺の人生にどんな足しになるのだ、と思ったが口に出すと角がたつことくらいわかる。別にシャレではない。
「とにかく、待ってっから。絶対来いよ」
「……それ誘いじゃねーだろ」
俺がのらりくらりしている間に織田は勝手に話を取りまとめて門田と一緒に教室を出て行った。まあ、何があっても行きたくないというほどでもないので、はっきりした返事をしなかったのではあるが。
「しゃあねえな」
俺はうんざりしつつカバンを取り上げた。門田は学校まで徒歩通学なので、織田と一緒に電車だから自転車の俺はソロだ。
泉水はさっさと帰宅してしまったのか教室の中にはとっくに姿が見えなかった。いたらカバンを持って帰っておいてもらいたかったので非常に残念だ。
校舎を出てぶらぶらと自転車置き場へ向かうと、俺の愛機のすぐ隣で今にも泣きそうな女子が立ち尽くしている。背は高いが夏服の新品具合からするとおそらく一年だろう。知らない顔だ。
なんとなく居心地の悪さを感じつつも、前カゴにカバンを突っ込んだ。ポケットから泉水のおじさんが十年近く前に沖縄出張の土産にくれた、琉球ガラスのでっかいキーホルダーがぶらさがったキーを取り出して、自転車のロックを解除した。
正直でかすぎて邪魔なキーホルダーなんだが、貰い物ではあるしなんとなく取り替えることもできないでいまだに使用していたりする。娘である泉水はとっくにどっかでなくして、俺にものもちががいいねーと笑っていた。
チェーンも外して、後はもう自転車に乗って帰るだけなんだが一年と思しき女子はいまだに微動だにもしない。
「えーと」
ハンドルを握ったものの、ためらいつつ俺は口を開いた。
「どしたの。カギでもなくした?」
おそるおそる声をかけてみると、一年生はびくっと体を震わせると大きな目をいっぱいに見開いて俺を振り向く。なんだ。そんなに驚かれると俺だって怖い。
一年生は俺の内心など知るはずもなく視線を落として小さくうなずいた。背が伸びたほど心が成長してないのか小学生の子供みたいな頼りなさだった。
「あー」
場をつなぐのに意味の無い相槌を打ってみる。
「今日は歩いて帰って、明日合いカギ持ってくるとか」
提案してみたが、一年生はぶんぶんと首を横に振った。無いんだろうか。もしくは親に怒られるとか。 まあ田舎の山の上の学校なんで、自宅がバスやら電車の駅から遠すぎて歩きがキツイ可能性は確かにある。
とはいえそんなに頑丈なロックがされてるわけでもない。これなら俺でもなんとかなりそうだと目算を働かせる。
「このくらいだったら開けるってか、壊せなかないけど。壊しちゃってもヘイキ?」
なるべく優しく聞こえる声を出して尋ねると、一年生は今度は大きくうなずいた。
「そっか。んじゃ、ちょっとスパナかなんか借りてくっからちっとここで待っててくれる。俺のカバンとチャリ見張ってて」
「はい」
蚊の泣くようなか細い声で、返事がようやく返ってきた。なんとなく安心して俺は校舎に引き戻す。
こういう工具的なものは技術室か、用務員室とかにあるのか?
職員室は別に今現在なんの心当たりもないはずだが避けたい気がするので、パスだ。さわらぬなんとかに、というやつである。
とりあえず技術室を目指すかと帰宅する生徒の波に逆らって廊下を歩いていたら、階段の上から涼やかな声がかかった。
「あれ、桐生。なんで逆流?」
男の声に変な形容詞をつけたかないが、そうしか言いようがないのだからしょうがない。俺の心臓はリトマス試験紙の判定よりはっきりとそしてくっきりとドクンと脈打つ。
くそー。なんでここでこいつだ、有坂幸夜。
「ちょっと用があってな」
俺はしぶしぶ返事をする。会いたくなかった男だが、けれど天の助けになるかもしれない。この瞬間だけは。
「珍しいね、いつも速攻下校するのに」
俺は実はこう見えて帰宅部ではない。それなのにこういう評価をされるのは身から出たサビとはいえ、問題があるのではなかろうか。
「まあな……お前こそこれからどこへ行くつもりなんだ」
「え?」
有坂は本当に何を言われてるのかわからないというように目を瞠った。そして、俺の視線をたどってカバンを抱えている自分の左手を見る。
「うわっ」
カバンと一緒に自分が握ってるスパナに、指摘されてはじめて気がついたかのように驚いている。
「なんなんだよ」
こっちが驚いたわ。
「い、いや。ははは、持ってたの忘れてたというかなんというか……」
「ああ、そう」
忘れるようなものかよという突っ込みはとりあえず置いておく。有坂のいつも完璧な微笑が崩れたのはちょっとばかり気分がいいが、そんなことよりもだ。
俺は少しためらった。迷って考えて、けれど結局しかたないので口にすることにした。
「あのさ、悪りーんだけど」
「え?」
ちょっとそのスパナを借り受けたいと頼むと、有坂は何かを納得したようにうなずいた。
「いいよいいよ、使って。全然いいから」
「……おう」
ものすごく気前よく貸してくれた。まあ、こういうところで恩を着せたりせこいことを言うようなヤツではないことくらいわかっているが、ついためらってしまうのは個人的な気分の問題だ。
有坂は非常にタイミングがいいというか、今日に限らずこうやって困っている時にちょうどよく現れることが多い。
こないだも織田が昼休憩にサルのようにはしゃぎまわったあげく、飲みかけのジュースを机にこぼして大洪水を起こした時も、どこからともなくふらっと雑巾を持ってあらわれたことがあった。
おかげでほとんどの被害は机の上だけですみ、床への爆撃はほとんど未然に防がれた。が、そんな時もあっても有坂は一度たりとも助けをしぶったこともなければ、取引がましいことを口にしたこともない。 それはよくわかってはいるんだが……気持ちの問題だ。
とりあえずスパナを受け取って、自転車置き場に引き返す。何故か後ろから有坂がぶらぶらついてくる。
必要なのは工具だけで別に持ち主のお前はいらん、と断りたいところだが言える立場でもない。
カギを無くした一年女子はさっきの場所にピュグマリオーンの妻ガラテイアのごとく、ぴくりともせず悄然と俺を待っていた。てことは俺がアフロディーテ。
……我ながらアホな想像をしてしまってげんなりだ。
「いやー、すまん。ちと遅くなった」
俺がなるべく明るく声をかけると、一年生は相変わらず無言のままぶんぶんと激しく首を横に振る。
「んじゃ、すぐやっから」
「すみません……」
ようやく消え入りそうな涙声が、自転車の前タイヤにかがみ込んだ俺の頭上から降ってきた。
「ああ、カギなくしちゃったんだ。大変だったね」
「いえ……」
「良かったね、ここに桐生が来て。親切だからね。すぐすむから、もうちょっと待っててね」
状況を把握したらしい有坂が、頼もしくそして優しく請け負う。作業中なのでじかに見たわけじゃないが、一年生が少しほっと息を抜いたのがわかった。
背中がじりじりするのは別に、おいしいところを持って行く有坂に嫉妬しているわけではなく単純にこいつが俺のそばにいるせいだ。
くそ。なんか俺は損な役回りなような気がしてしょうがない。まあ、こういう場面で別に得したいわけじゃないんだが。
ロックは二、三度スパナで殴っただけであっさりと外れた。
「おし」
面倒がなくて助かるが、しかしこうも簡単だと防犯上問題がないか。無事魔法がかかって石像から人間にかわった一年生が嬉しそうな声で飛び上がった。
「ありがとうございます。ほんとに」
「いやいや、気にするな」
「よかったね」
ぺこぺこと何度も俺と有坂に頭を下げてから、一年生は先に自転車に乗って帰って行った。
「おっと、これサンキュ。助かった」
わざわざ返しに行く手間が省けるのは良かった。が、さっさと離れて欲しい。
「役に立ったならよかった」
にっこりと有坂は俺にも微笑みかけ、思わず膝から崩れそうになったが、とっさに自分の自転車のハンドルに手をかけてぐっと耐えた。ほんとどうにかならんかなー。
「ん? どうかしたの?」
「……おまえも気にすんな」
「そう?」
有坂は不思議そうにしていたが、俺は約束があるからと自転車を引き出し早々にその場から去った。
しかしあいつは一体スパナで何をしようと校舎をうろついていたのか。それは結局思い出せたのか?
疑問はしばらく頭から離れなかったが、直射日光ガンガン当たるうえに風の無い夕方前の一番暑い時間の海岸通りを必死に自転車こいでるうちに、脳は溶けたバターのごとく何も考えられなくなったのだった。