第5夜:椿姫
しんしんと。
音さえも吸収してしまう白い世界。
庭の椿の赤と葉の緑が美しく浮かび上がる。
髪に挿した椿の簪も同じように漆黒に浮かび上がった。
「もう姫様にはついていけません」
静寂を突き破ったのは、まだ幼さの残る声。
声の主をちらりと見たのは椿の簪を挿した美しい少女だ。
気だるげにけれども上品に着物をくつろげ、手には煌びやかな絵巻物。
対峙した少年は簡素な着物に真っ赤な顔をして眉を吊り上げていた。
少年の言葉に表情を変えずに少女は視線を巻物に落とす。
二人だけの生活で幾度と無く繰り返された言葉だった。
「ならば出ておいき」
違ったのは、続く少女の言葉だった。
いつもならば鼻で笑って新たな戯れを仕掛けるのに。
困惑が渦巻いて、けれども主の言葉に逆らう事はできず少年は踵を返した。
何度も何度も振り返り、白い世界に足跡をいくつもつけようとも優しい声はかからなかった。
ここは鬼の隠れ里。
少女は鬼の姫なのだ。
椿を愛する姫はいつしか椿姫と呼ばれるようになった。
鬼といっても人と全くの疎遠ではなく、たまに人々は薬を貰いにやってくる。
けれども畏怖の念は拭われず好んで近づくことなどありはしなかった。
あの少年以外は。
たった一人屋敷に残された椿姫はそっと微笑んだ。
これでいいのだと。
もうすぐ村の人間が押し寄せてくる。
自分たちがこんなにも不幸なのは鬼のせいだと。
飢饉も干ばつも流行り病もお前のせいだと。
なぜ息子を助けてはくれないのかと。
何十年も何百年も年を重ねてきたのだ。
人の厭わしい思考など、どの時代も似たり寄ったりなものだ。
嫌な事は他人のせい。
それが自分とは異なったものならなお良い。
椿姫は一番上等な着物に袖を通し、紅を引く。
見た目は少女なのに妖艶な笑みを浮かべて部屋の中央に座す。
心地よい沈黙はほんのひと時。
次第に怒号と金属の音が近づいてくる。
無様な姿は曝すまい。いつかあの子が椿姫に仕えていた事を誇りに思うように。
襖が開けられるのと同時に殺気がなだれ込んでくる。
ぎらりと狂気に光る双眸は鬼のものより、恐ろしい。
「すべてお前のせいだ。鬼なんかがいるから」
「覚悟は出来ているんだろうな」
椿姫は微笑んだ。
彼らを前にして何の覚悟が必要あるだろう
愛するあの子を手放す覚悟をした自分にあれより苦痛な決心などあるものか。
「お前たちも覚悟するが良い。このわらわに刃をむけることを」
一瞬の沈黙の後、人々はそれぞれ手にしたものを振り上げた。
喚き声に重なるのは優しく悲痛な叫び
「姫様―」
傷つくのも恐れずに走り寄る姿に目を細め
あの子の記憶に刻むように残酷に秘めていた想いを口にする
「わらわはそなたを愛しておった」
愛した子の見開いた瞳から零れ落ちる涙はひどく美しかった。




