第1夜:夢幻(ジン)
太陽が燃え尽きて砂のかなたに沈むと辺りは途端に温度を変える。
月が中天に座すころには身を切るような冷たい風が吹きすさぶ。
昼間体を焼くような灼熱の大地があったなど嘘のようだ。
ここは砂漠の小さなオアシスの辺。
ほんとに小さなそれは少しの水をたたえるだけだった。
それでも旅人には金にも勝るものなのだ。
今宵も旅人が二人。
「今日は月が明るいな」
一人は頭から毛布を被り、両手で湯気の出ているコップを握りしめ頭上を仰ぐ。
「そうだな。満月だからな。」
もう一人もコップの中身を飲みながら月を見る。
空に雲はなく、大きな月が浮かぶ。
そのあまりの光に星の瞬きは見えない。
周りの闇さえも光に支配され藍になる。
どこまでも続く砂丘に影をつくり、青く輝く世界は幻想的ですらある。
「西の奴らは満月が嫌いなんだってな。」
こんなにきれいなのにと呟き液体を一口流し込む。
「本当にきれいなのにな。」
旅人にとって月は導きの光。
暗い夜道を照らし、安心をくれる。
ここまで明るいと星読みさえままなれないけれど。
だが、西方の人間にとって満月は不吉な徴。
ぽっかり浮かんだ光る球体は魔物の目なのだと言う者もいる。
「どこが嫌なのだろう。」
「さぁ、美しいものは人を惑わすからな。」
そう、まるで蜃気楼のように。
ゴポリ
「・・・?」
ゴポ
「お前、火を止めたか?」
水が沸騰するような音をいぶかしんで尋ねた。
「止めたよ。」
先ほど確かにお茶を入れるために湯を沸かしたが、火は消したはずだ。
ゴポッ
二人はいっせいに振り向いた。
小さなオアシス、水溜りほどのそれがあわ立っている。
月のしずくは乱反射してその中で幾つにも見える。
次第に立ち上った水柱は人型を取った。
「そう、時に美しいものは人を惑わしますね。」
そこに現れたのは黒い帽子とコートを纏ったものだ。
お辞儀をするように頭を下げているため顔は分からない。
「・・・。」
一人は呆けたように口を開けたまま固まっていた。
「・・・。」
もう一人も無言ではあったがさして驚いているようにも見えない。
今宵は吟遊詩人が語るような幻想的な夜なのだ。
異界の扉が開いても何ら不思議ではない。
「あんたはジンか。」
初めて見たと返答を聞かずに口にする。
ここは西の彼方ではないのだ。満月の夜に現れるのは魔物でも聖なるものでもない。
其処の現れるのはすべてが夢幻なのだ。
あの月が欠ければ姿を消す夢うつつの存在なのだ。
「人は様々な名で私を呼びますがね。お好きにどうぞ。」
ジンはゆっくりと顔を上げた。
帽子の下に現れた瞳は天空の月のように金色に光っている。
一人の男は西の奴らの言ったことは正しかったのかと呆けた頭で考えた。
しかし、口は未だに動かず、目の前のものを凝視するばかりだ。
「別に喰いついたりはしませんよ。」
ジンは目を細め、可笑しそうに男に告げた。
「それが願いなら叶えてもかまいませんが。」
しかし調味料が砂ではね・・・風にまぎれて聞こえてきた言葉に男はヒュッと喉を鳴らした。
冗談めいた言葉が全く冗談には聞こえない状況だった。
「だろうな。砂まみれの人間を喰ったところで不快なだけだ。」
男は驚いて相方を見やった。
どうしてこいつは平然とアレと言葉を交わしているのだろうかと。
それとも惑わされているのは自分だけで相方さえも幻の一部なのだろうか。
「前の町の砂まみれの料理はまずかった。なぁ。」
「・・・ああ。確かに・・・。」
そう、確かに前の町で食べた料理はひどかった。
口の中はジャリジャリと不快な音をたて、味もよく分からなかった。
砂漠の旅なのだから決して贅沢はいえないけれど。
しかし、そこで得た水はなんとも言えないほどうまかった。
火照った体にはあれほどうまく感じるものもないだろう。
「さて」
ジンが再び言葉を発したので、男はびくりと身を震わした。
「あなた方の願いはなんですか?」
「・・・願い?」
「そう、その気が無かったとしても、あなた方は私を呼び出した。これも何かの縁でしょう。願いを伺いましょう。」
叶えるかどうかは分かりませんがね。男にはジンがそう続けたような気がした。
「それで、あんたは何を代償に持っていくんだ。」
相方は面白そうにジンに尋ねた。
西の彼方の悪魔という魔物は願いを叶える代償に魂をねだると云う。
「願いごと次第ですかね。」
ジンは白い指を顎に当てながら応えた。
「何でも叶えてくれるのか?」
男は何を言うのかと、相方の服を引っ張った。
きっと魂を奪われるに違いない。
「それも願いごと次第ですが。」
ジンはゆっくりと口角を上げた。
月光を受けたその顔はそれは美しく恐ろしく見えた。
自分から魂を差し出してしまいそうになるほど。
「さぁ、願い事はなんですか?」
―山のような金ですか・・・
―それとも不老不死ですか?
「お前何かあるか?」
相方は男を小突いた。
「えっ?」
咄嗟に言われても思いつかない。逆に男も相方に尋ねた。
「願い事っていってもなぁ〜・・・生活に不満があるわけでも・・・」
砂漠の旅を続けるのはつらい時もあるが、生まれて時からそれが自分の生活だったのだからたいして不満があるわけでもない。
御殿に住みたいとも思わないし、ましてや永遠なんて想像もできないほどの時間を生きたいとも思っていない。
せいぜい5,60年生きられれば満足なのだ。
それは男にしても同じであった。
「何か無いのかよ。若いくせに。」
相方はそう言うが、たかが5歳しか離れていないはずだ。
「・・・何もないのですか?つまらない人間ですね。」
ジンは呆れたという風にため息をついた。
こうしているのを見ると魔物というより人に近い気がして、恐怖心が次第に薄れていった。
落ち着いて目に入ってきたのは、ジンの足元に広がるオアシスと呼ぶには小さすぎる水溜りだ。
「それなら、このオアシスを枯らさないでくれ。」
「・・・これをですか?」
ジンは怪訝そうな目で水溜りを見つめた。
「それはいいな。また来た時も助かるし、他の旅人が来た時も助かるからな。」
ここでは手に余るほどの金よりもコップ一杯の水のほうが貴重なのだ。
「本当にそんなものでいいのですか?」
―どんな願い事でも叶うかもしれないのに?
―見ず知らずの人間のためにこんな水溜りを残せと?
男は空いたコップに水を汲みジンに差し出した。
眉を寄せるジンにお構いなしにコップを突きつけ言った。
「砂まみれの人間よりよっぽどうまい。」
どうにも引き下がりそうにも無い人間に諦めたようにコップを受け取り、口を付ける。
「ただの水ですね。」
ああ、水だ。
嬉しそうに笑う人間。
「まぁ、砂まみれの人間よりかはましですか。」
ジンは再びため息をつく。
「いいでしょう。その願いを叶えましょう。」
風が起こり、ジンのコートがはためく。
「だっ代償って?」
いまさら気がついて男はあせった。
この願いの代償は何なのか。
魂とでも言われたらどうしようか。
「一杯のうまい水で結構ですよ。」
その声の後、吹き荒れた突風とともにジンの姿は掻き消えていた。
残ったのは月光に照らされた水溜りと二人の旅人とどこまでも続く砂だけ。
―たまには慈善活動もいいでしょう
「・・・夢かな。」
「さぁな。」
あまりにも静かな風景はジンが現れる前と変わりない。
やはり月が魅せた幻か。
「何年か後にここに来て見れば分かるだろうよ。」
そこのあるのは小さな水溜り。
オアシスと呼ぶには小さすぎる。
明日にも消えてしまいそうな。
何年か後に未だこの姿があったなら・・・
「やっぱり、きれいだよ。」
男は呟く。
あれは魔物の目ではなく、導きの光なのだから。
今宵は夢幻でございました。よろしければ次の夜もお楽しみください。




