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夕陽のハイビスカスが朝起きてキッチンに行くと、ルラピケが潰れた卵を持って涙目で立っていた。
ルラピケは陽の白いパジャマに身を包んでいる。大きさがあまりに違うのでダボダボだ。片方の華奢な肩が見えている。パジャマが大きいので彼女の体は余計に小さく感じられる。
大きな瞳にいっぱい涙を溜め、陽の顔を見るルラピケ。悲しみに顔を歪ませ、今にも涙を流しそうだ。小さな手から、黄身と白身がとろとろ垂れている。陽は眠たい目をこする。ぼんやりする頭で状況を理解する前に、とりあえず口を開く。
「おはよう」
「うぅ……おはようござっ……うぅえぇ」
陽は、涙をぽろぽろとこぼし、ううぅ、と呻きながら手を洗うルラピケを見る。次に、先程まで火を揺らめかせていたコンロと、それの上に居座るフライパンを見る。涙ながらに何度も謝るルラピケ。陽はあくびをしながら、ルラピケが何故卵を潰していたのか、推測による答えを出す。陽はため息をつき、床を拭いているルラピケを手伝った。小さな手と大きな手が、床の上を這う。
その後で、顔を洗う。角のように跳ね上がった、手ごわい寝癖を直す。ねばつく口の中をゆすぐ。吐き出す。そうして目が覚めたところで、横で頭を下げているルラピケに目をやる。
「ルラピケ。まあ、なんだ、礼を言う」
ルラピケは名前を呼ばれてびくっとした後、驚いたように顔を上げた。泣きはらした目をぱちぱちさせている。
「私に、卵を使った朝食を作ろうと思ったんだろう? ところが、地上の卵は予想外にもろかった。割ろうとしたら思いっきり潰れてしまった。そんな感じなんだろう」
「はい……」 ルラピケはしゅんとするが、陽の目をまっすぐ見つめている。
さすがは王女様だな、と陽は思った。悪いことをしても、人から、罪悪感から目を逸らさない。少しも言い訳をしようとしない。しかし、王女というのはここまで泣き虫なものなのか? と、ここまで思って陽は、王女というのは設定にすぎない、と慌てて頭を振った。だが、もう信じずにはいられないのではないか、とも思う。
「少しは言い訳することだな。自分から何も言わなければ、誤解を招いてしまう。言い訳は必ずしも悪いものではないんだ」 陽は直りきっていない寝癖を気にしながらルラピケに言った。
「はい……ごめんなさい……」
「謝らなくてもいい。地上と地底は違うってことが分かれば大丈夫だ。文字通り、天地の差だ。ははっ」
「はい……」
陽はため息をつき、労わるようにルラピケの頭を撫でてみる。さらさらした赤い髪。小さな頭は簡単にゆらゆら揺れた。
奇妙な感覚だった。今まで長い間一人で暮らしてきた陽。食事も一人。寝るのも一人。テレビを見て笑う時も、一人。そんな中、突然女の子がやってきて、一緒に住むことになった。食事は二人になった。眠りにつく時も、布団を二つ並べた。テレビを見て陽が笑った時は、ルラピケはどこで笑えばいいのか分からなさそうにしていたが、まぁ、一人寂しく見ている訳ではなくなったのだ。落ち着かないと言えば、落ち着かない。娘ができたら、こんな感じなのだろうか。そうぼんやりと考える。超人なルラピケが娘だとすると、自分にはあまりに不相応に思えた。
ルラピケの頭から手を離すと、陽は咳払いをして言う。
「じゃあ、一緒に卵の料理でも作るか」
ルラピケは、目尻に少しの湿り気を残しながらも、ふんわり笑顔になった。その様子を見て、陽は朝露をこぼす小さな花を思い浮かべる。朝日に照らされ、すぐに乾いてしまいそうな花。
ルラピケは元気に言った。
「はい!」
▽
ベーコンエッグトーストを作りながら、ルラピケに、何故こんなに早い時間に起きたのか尋ねた。
陽が起きたのは午前六時だ。寝る子は育つと云われる。逆に、寝ない子は育たないのではないか。そう思ったから、六時より早く起きたルラピケが心配になった。なにしろ、ルラピケが寝たのは陽と同じ午後十一時半だ。
「ミャミョリの民は一週間くらい睡眠をとらなくても大丈夫です」
質問に対して、ルラピケは笑顔でそう言った。陽は改めて地底人の恐ろしさを知る。もし地上を侵略しに来たりしたら、我々地上人は成す術がないのではないか。最近よく議論される人類滅亡の日に思いを馳せながら、陽はベーコンエッグトーストを皿に置く。
食器をルラピケに用意させた陽は、テーブルにつく。既に椅子に座って、律儀に陽のことを待っていたルラピケが、目を輝かせながら手を合わせる。
「いただきます!」
「いただきます。卵が垂れてくるから気をつけろよ」
ルラピケは、食卓で実際に「いただきます」と言ったことはほとんどないのだろう。勉強した日本語が活用できて、嬉しそうだ。
トーストを頬張るルラピケ。その嬉々とした様子を見て、陽は昨日の夜のことを思い出す。
ルラピケは夜遅くまで起きていた。陽の持っている三着の上着を重ねて身を包み、嬉しそうに星を眺めていた。片時も空から目を離さず、傾いた首が痛くならないのか、と陽が心配するくらいに。だが、陽が寝ると聞いて、名残惜しそうに布団に入ったのだ。
地底の空には星はないのだろう。どこまでも続く空が珍しいのだ。綺麗な夜の空を見ることができないのはもったいないな、と陽は思う。今度、星がよく見える田舎の実家にでも連れて行ってやるか。
陽はふと考える。「今度」とは、いつだ。
「ルラピケ、地底に戻る方法を探すと言っていたな。すぐにその方法は見つかるものなのか?」 すぐに帰れるのか? だとしたら、田舎の空を見せてやることはできない。
んー、と唸って、ルラピケは小さなあごをもぐもぐと動かす。トーストを飲み込むと、言った。
「地底人は、数十人が地上人と混ざって暮らしています。地上の状況を地底に報告したり、文化を取り入れたりしています。彼らに会うことができれば、簡単に帰ることができると思います。または、誰かがピケが地底の空の果てに開けてしまった穴を発見すれば、今すぐにでも迎えがくるかもしれません」
陽は 「ほお」 と呟く。そして、この家の真下から地底人のルラピケ捜索隊がやってくるところを想像する。その衝撃で家が吹っ飛ぶのだ。身震いした。地獄絵図。地底人の工作により原因不明になったその事件は、大ニュースになりそうだ。勘弁してくれ、と陽は思う。
「早く、地上にいる地底人を見つけるしかないな」
「はい!」 ルラピケは、陽が少し青ざめているのに気づいていない様子で、笑顔でトーストにかじりついた。
▽
幽邃が陽の家を訪ねてきたのは、十二時ごろだった。
インターホンが鳴ったその時、陽はトイレの便器に大事な小説を落としてしまい、 「ぬふぉす」 と謎の悲鳴を上げたところだった。あぶくも立てずに静かに沈んでいくハードカバー。救い上げる。ずぶ濡れの表紙に 『ああ無情』 と書いてあるのが、自らの状況を表しているようで、陽はふへっと笑う。
廊下に出る陽。壁のモニターに映るヘビースモーカーを見ながら、マイクを通してため息混じりに声をかける。
「何だ幽邃。今日は定休日だぞ、この貧乏神」
「我は神なり」 幽邃が冷めた目つきで煙を吐く。 「おれはピケに会いに来たんだ」
「ルラピケにか?」
陽はルラピケを見る。ホコリを被った地球儀をくるくると回し、真剣に眺めている。首を傾げながら、「あめりか……ごうしゅうこく」などと呟いているのが聞こえる。地底世界の広さはどれくらいなのだろう、と陽は思う。北海道くらいはあるだろうか。それともユーラシア大陸並みか。想像できない。
モニターの幽邃に視線を移す。丁度彼女が口を開く。 「すぐには地底に戻れないんだろ? だったら、地上を楽しませてやろうぜ。おあつらえむきに、今日はグランドグリーンの観覧車が小学生無料だ」
複合商業施設のグランドグリーンでは、飲食店から楽器屋まで様々な店舗が展開されている。シンボルは観覧車だ。数年前、それが建てられた当時に陽が思ったのは 「場違いなものを建てよったなぁ」 ということだ。だが今では、家を出てすぐ観覧車を目にしても 「あぁ、アレに乗れば、果樹園と出会った時のように、新しい出会いが私を待っているだろうか」 という妄想を平然とできるようになるくらいには、そびえる観覧車の姿を受け入れられていた。
「いいんじゃないか。観覧車に乗れば、憧れの無限の空へ近づけるからな」
「いや、でもピケは魔法で空を飛べるんじゃなかったか?」
「そうだったかもしれない」
「どうかしたのですか?」 ルラピケがいつの間にか陽の隣に来ていた。モニターを見る。 「あっ、ユウスイさん。こんにちは」
「こんにちは」 幽邃は微笑む。 「玄関で話そうぜ。外は寒いんだよ」
▽
スレンダーな体型の幽邃は、カジュアルないでたちで玄関先に立っていた。
黒い長袖Tシャツには、黒に近い灰色のアルファベットが大小様々なゴシック体でずらずらと書かれている。デニムのズボンをはいた脚は、改めて見ると、長い。紫色の鞄を肩から提げている。キーホルダーやアクセサリーは一切なく、幽邃らしいな、と陽は思った。地味な気はするが、友達などに 「かっこいい」 と思われていそうな雰囲気を纏っている。
「前から思っているんだが、Tシャツに書かれている英語の意味を若者は分かっているのだろうか?」 陽は幽邃を指差して指摘する。
幽邃がシャツを見て言う。 「それは真冬の夜のこと。月明かりが照らす雪はかすかに輝いて、夜はいつもと違う雰囲気を纏っています。窓から白の彩色が施された家々を眺めているチャーリーは、ため息をつきながら言いました。『ああ、なんて美しい夜なんだろう!』。そう書かれている」
「嘘だろう?」
「うん」
「ユウスイさん、その服はかっこいいです」 ルラピケがそう言って、着ているダボダボパジャマを引っ張る。 「ピケは地上の服が欲しいです!」
「破壊力抜群だな」 幽邃はルラピケを見て謎の言葉を呟いた後、煙を吐く。 「グランドグリーンにはライトオンがあるぜ。地上の服屋だ。陽が買ってくれるってさ」
「おい幽邃」
ルラピケが両手でパジャマを掴みながら、首を傾げる。 「グランドグリーンとは何ですか?」
「様々な施設が経営されている巨大な建物だ」 陽が説明する。 「お店の詰め合わせだな。服屋からボウリングセンターまで、何でもあるぞ。シンボルの観覧車が止まって人が閉じ込められることがよくある、楽しいところだ」
「楽園だな」 幽邃がそう言って煙を吐くので、陽は顔をしかめて鼻の近くで手を振る。
「ナルホド!」 ルラピケが嬉しそうに手を合わせる。 「ギャベフシャイットみたいなところですね!」
陽と幽邃は顔を見合わせた後、屈託ない笑顔のルラピケを見て、苦笑いする。
「多分そう」
「ピケはグランドグリーンに行きます!」 ルラピケがはしゃぐ。 「ヨウさんも行きます、よね!」
陽は少し考えて、一緒に行って買い物の用事を済ませてしまおうか、と呟く。玄関の棚の、何かでもらったちゃちな置時計が十二時を過ぎているのを確認する。次に腹の中で渦巻く程よい空腹感を感じ取り、フードコートの広くにぎやかな店内を思い描く。
「行こうじゃないか」 陽は頷いた。 「チャーシューメンが私を待っている」
「陽も来るのかよ。オッサンとデートみたいで嫌だな」 幽邃が顔をしかめる。
対照的に、ルラピケはにっこりしている。 「ピケは嬉しいと感じます。ヨウさんとユウスイさん、二人ともっと仲良くなりたいです!」
陽はその言葉にルラピケの孤独を見た気がした。
仲のいい人間はここには元々いなかったのだ。ここは地上。知っている人はほとんどいない。頼りにできる親も友人もいない。そんな中元気に振舞えるのだから、ルラピケは強い子供なのだな、と陽は思う。普通の子供なら、例えば岩盤にぶつかってそのまま突き進み地上にまで出てきてしまったら――その時点で普通ではないので例えの意味がない気もする――絶対にパニックになるはずだ。
だが、単に能天気なだけという可能性も捨てきれない。なんにせよ、ルラピケが楽しそうなので陽は安心する。
「ルラピケ、着替えて来い。もうワンピースは乾いただろう」 昨日、汚れた水色のワンピースはすぐに洗って暖房器具の前に干しておいたのだ。ルラピケと共に地中を突き進んできたのに破れ目一つない。是非とも地底人の衣料品生産業者をウニクロに紹介してやりたいな、と陽は思う。
ルラピケが陽に言われたとおり家の奥へ歩いていく。それを見て、幽邃が言う。 「ピケは帽子を被っていったほうがいいな。できるだけ赤髪を目立たせないようにした方がいいだろ」
陽は棚に無造作に置かれた帽子を取る。白のニット帽だ。ルラピケには大きいかもしれない、と陽は思った後、人差し指を立てる。
「ところで、ニット製のキャップの『ワッチ』は、第二次世界大戦中のアメリカ海軍に採用された帽子なのだが、私はこれを被ると頭が痒くなってしまうのだ。何故なら私の肌は弱いから。こんなものを被るくらいならば寒くても帽子なしの方がいい。アメリカ海軍にも、もしかしたらこの帽子は痒いから嫌だと思っている人がいたかもしれない。アメリカ海軍といえばチェスター・ウィリアム・ニミッツだが……」
幽邃はため息をつく。彼女は話を聞く姿勢を、聞き流しモードに切り替えたようだ。陽はそれに気づかない。