①
「それは自殺とは違うのか?」
ボウリングボールがピンを弾き飛ばした。ガコン、という音に 「よっしゃ」 とガッツポーズをする祥子を、幽邃は苦い缶コーヒーを飲みながら見る。 「んー」 と缶に口をつけたまま唸り、飲みきってから 「ストラーイク、バッターアウト」 と声を発した。
隣で春香が紅茶を飲み干す。 「あーあ、あれはホームラン狙えたよー」
「落下型ヒロインの話?」 ストライクを決めた興奮に顔を緩ませている祥子が、幽邃と春香に声をかけた。
「うん。落下型ヒロインは物語において、最高の出会いを演出する上で重要だと思うの」 小説家志望の春香が答える。
「ふーん」 幽邃が口を少しだけ尖らす。 「主人公が空中から落っこちてきたヒロインと出会う、それは確かに衝撃的かもなぁ」
次だよ、と祥子が言い、春香は立ち上がってボールに指を入れる。横ではしゃいでいる小さな子供が、 「すごいねぇ」 と親に頭を撫でられている。その上の液晶ディスプレイを見ると、十回連続ストライクだった。
「落下型ヒロインの一例を挙げるなら、天空の城ラピュタのヒロイン、シータだね」 そう言って祥子がカルピスウォーターのペットボトルに口をつける。彼女は博学多識で、どんな話にも合わせることができる。友達も多い。
幽邃が頷く。 「あれはおれも知ってる」
「神秘的だよね。私は一回しかラピュタ見てないけど、シータがゆっくりと主人公パズーの元に降りてくるシーンはよく覚えてるよ」
「おれはバルスだな。バルスが衝撃的だった。むしろバルスしか覚えてない」
「目が、目があぁ」
「で、さっきも春香に言ったんだけどさ」 目を押さえる祥子を見て笑いながら、頬杖をつく。 「おれは落下型っていったら、投身自殺を最初に思い浮かべたんだ」
「あぁ、ミステリーでよくあるよね」
「序盤の掴みとしては最高だな」
「ファンタジーからミステリーまで幅広く活躍する落下型ヒロイン、流石だね」
「おれもイケメンを街で見かけたらその頭上に落っこちてみることにするぜ」
頷き、幽邃と祥子は同時に言う。
「結論。落下型ヒロインは万能」
「やった!」 春香がスペアを決めた。
その横で、小さな子供がプロ顔負けの洗練された投球フォームで十一回目のストライクを成功させているのを彼女は知らない。
▽
「なんだそれは。『恋に落ちる』と、かけてるのか?」
小さなパン屋だ。ショーウィンドウの中に様々なパンが置かれている。蛇の形のパン。兎のパンやひよこのパン。また丸い形のパンは作った本人は地球儀だと言い張っているが、ただの饅頭にしか見えない。
何故味よりも形を優先するのか、幽邃には店長である夕陽のハイビスカスのこだわりが理解できなかった。まず、どうやって作っているのか謎だ。
その謎の店長、陽と呼ばれる男は店内の椅子に座って外を眺めている。和食が嫌いで、特に梅干を忌み嫌っているというのも謎。謎が謎を呼ぶパン屋だ。
「あはは、恋に落ちる、か」 幽邃はタバコが無いのを残念に思いながら笑う。 「陽は面白いことを言う」
「『店長』だ」
落下型ヒロインの話だ。物語において、主人公がヒロインと出会う時、空からヒロインの方が落ちてくるケースがある。祥子によると、初登場や出会いの瞬間にヒロインが落ちてくることに意味があるという。ヒロインが空から落ちてくる、という非日常的瞬間を作ることで、物語を楽しむ者を一気に非日常空間へご案内することができる。
「ところで、いや、吸って欲しいのだと勘違いされては困るのだが、タバコは吸わないのか?」
「春香――友達に怒られちまってさ」 幽邃は、春香の怒った顔を思い浮かべて、苦笑いする。 「『パン屋でタバコなんて論外』だってさ」
「その春香とやらはお前より遥かに有用な人材らしいな。今度うちで働く気がないか訊いてみてくれ」
「陽より遥かに優秀な上司の元でバイトしてるから無理だろうな。ちなみに春香は小説家志望で、衝撃的な出会いの書き方について考えてた。それで落下型ヒロインがどうのこうのって話になったんだ」
「衝撃的な出会いなら、私と果樹園の出会いよりショッキングなものはないだろうな」 陽は客がやってこないことに苛立ちを覚えているのか、またはそのショッキングな出会いを思い出したからなのか、不愉快そうに言う。
「果樹園?」 幽邃は、陽がリンゴの木の間を幸せそうに笑いながらスキップしている姿を想像した。
「……キモいな」
「勘違いしているようだが、果樹園とは人の名前だ」 陽が言う。 「樫宮果樹園。金持ちな女性だ。私に出来た、最初で最後の恋人」
「へぇ、陽でも彼女が作れるんだ」 幽邃は少し驚く。 「DQNネームだから付き合ったのか?」
「陽でも、ってなんだ。でも、って」 足を組む陽。 「それに私はDQNネームはむしろ避ける方だ。初対面で付き合うことになったから、名前は知らなかった。知ったときの幻滅ったらありゃしない、そもそも私は付き合うからには結婚まで真剣に考える男であるからして相手の親がDQNな場合……」
幽邃が陽の言葉を遮るようにひゅう、と口笛を吹く。 「マジで? 初対面かよ!」
「……ああ、初対面だ」 陽が顔をしかめる。 「あれは私が、引退した書店員として暮らしていた頃……」
「つまり現役のニート」
「いちいちうるさいぞ」 陽は言い返してから遠い目をする。 「あれは、確か東京で観覧車に乗っていた時だった。立ち並ぶビル群、なかなかに綺麗だったな。うん、綺麗だった」
幽邃は、陽のことだから怖くてろくに下を見れなかったのではないか、と想像する。が、少し反省して黙っている。
「非常に綺麗だったよ。そして、景色を楽しんでいると、ヘリコプターの音が聞こえてきてな。うるさいなと思っていると、どんどん音が近づいてくる。気づくと、ヘリは私が乗っているゴンドラにギリギリまで近づいてきていた」
なんだなんだ、と幽邃が身を乗り出す。
「そのヘリに、拡声器を持った女が乗っていたのだ。そしてこう聞こえてきた。『付き合ってくださーい!』」
幽邃は、タバコを吸えない苛立ちを抑えるために手元で回していたペンを、危うく落としそうになる。 「マジかよ」
「そいつが果樹園だ。後で話を聞いてみると、テレビの街頭インタビューに偶然出ていた私に一目惚れして探し回っていたらしい」
今度こそペンを落っことした。額に手をやる。カウンターをだん、と叩き、眉をひそめて呟いた。
「陽に一目惚れ……! ありえない……! 何故、地球は何事もなく回っているんだ……ッ!」
「自然の絶対的摂理をゆめゆめ疑うことなかれ」
「陽に彼女ができるとかいうありえないことが摂理なら、近いうちに相対性理論が否定されるかもな、これは」
「知っているか?」 陽は人差し指を立てる。 「相対性理論を考えた一人であるアルベルト・アインシュタインは、女性にとてもモテたと言われている。かのマリリン・モンローが彼を口説いた時のセリフは有名だ……」
また始まったよ、どうでもいい知識についての演説が。半分うんざりしながら、それでももう半分は陽の話を楽しんでいた。落としたペンを拾い、ふとあることを思い出す。
数日前。早朝のことだ。
幽邃は二丁目のマンションの隣にある空き地の近くに、バイクを止めていた。
寒さに身を震わせていると、空き地の雑草の上に人が数十人いるのを目撃。
ほとんどが暖かそうなダウンジャケットを着ていた。色が鮮烈で、非常に目立っている。そのカラフル人間たちから目を離し、空を飛ぶカラスを見ながらタバコを吸っていると、声が聞こえてきた。
「諸君!」
そうだ。
幽邃は思い出す。あの声は、もしかすると……。
このことを思い出したのはDQNネームの彼女の話をしたからだろうか、と考える。あの時の声には「果樹園」という単語もあった気がするからだ。何かの組織の名前も出てきた。確か、大日本……ナントカ党。
訊いてみようと思った。陽は何か知っているのではないか? いや、ひょっとすると、あの声の主は陽なのではないか? 回したペンをカウンターに置く。アインシュタインの話を立て板に水で続けている陽に声をかける。
「なぁ、陽」
床が砕けた。