肆
「別れた理由?」
陽は、果樹園と恋人という関係を終わらせることになったあの日をよく覚えていた。洋食好きな陽と、和食好きな果樹園。家での食事をどちらにするかで揉めた結果、別れることになったのだ。しかし、本当はそんな幼稚な理由で別れたわけではない、と陽は思っていた。きっと日常生活を二人で過ごす中で、次第に価値観の不一致などにより恋人関係に生じたヒビが大きくなっていったのだろう。食事のスタイルの違いはきっかけでしかなかったのだ。そんなことで別れるほど、子供ではない。
「私とお前が見据えていた未来に、齟齬があったからだろうな」
「食卓を和食と洋食どちらにするかで別れたじゃない」 果樹園は、何言ってんの、とばかりにこちらを指差した。 「特に梅干が嫌いだったわよね。ほんと珍しいわ。今回は、私があなたに梅干の素晴らしさを教えるためにおにぎりを作ってきました」
唖然としている陽に対して、果樹園はおにぎりを包んでいたラップを取る。
梅干は陽が最も嫌いな食べ物だ。初めて食べた時、口の中がバチバチと弾け、舌がじゅわじゅわと溶けていくような感じがし、この世の終わりを口に含んだような気がして悶絶した経験がある。以来梅干を極度に嫌い、化学兵器と呼んではばからない。
「梅干だけはやめてくれないか」
「美味しいのに」
「お前とは種族が違うんだ、この梅干族が! 無理矢理食わせたって全然面白くないぞ! 飲み会の一気飲みのノリで食わせようとするのはやめろ!」
「その通りだ! 一気飲みは急性アルコール中毒や嘔吐物が喉に詰まることによる窒息などで死亡するリスクがあります、絶対にやめましょう! そうお母さんが言っていた!」
陽は声が聞こえてきた方を見た。倉庫の入り口だった。そこに男が立っている。見たことのある黒スーツだ。横には大きな犬が四匹佇み、唸っている。降り注ぐ光を受ける彼らの姿は、正義のヒーローのような芝居がかった眩しさを伴っていた。思わず目を細める。
そして男の声には聞き覚えがあった。二度と聞くことはないだろうと思っていた声だった。自分のパン屋に漂う、場違いなタバコの臭いや包丁を思い出す。最も 『大日本命名改革推進党』 の思想とかけ離れた考えを持つであろう男が、今そこにいる。
「いや、別に今は一気飲みをさせられているわけじゃないぞ」 陽が言うと、 「そ、そうなのかっ?」 と男はうろたえたが、気を取り直して紅蓮を指差した。
「大日本命名改革推進党だな! 山田さんを解放させてもらう! 行くぞ、みんな!」
犬たちが紅蓮らに飛びかかる。恋物語でさえも犬の動きに翻弄され、陽の縄を外す男を止められない。陽が自由の身になると、男と共に全力で走る。果樹園の悲鳴と髑髏の甘いメロディ、紅蓮の怒号が後ろから聞こえる。追っ手がくる気配はなかったが、ダッシュする。男の素早さは駆ける犬のようだ。夢中で走ったら四足歩行になるのではないかとすら思う。
見覚えのある黒い車に飛び乗る。助手席にはミニチュアダックスフントがちょこんと座っていたので、運転席に移して陽は助手席に乗り込む。エンジンは既にかかっている。犬たちが後部座席に突っ込む。全員乗ったことを確認すると、男は扉を閉める。運転席の子犬を膝に乗せ、アクセルを踏む。
車は最初から走りたがっていたように気持ちよく前進し、田舎の道を走行する。
陽は犬の臭いが充満した車の中で不愉快そうに鼻をこすると、横でハンドルを握る男を見た。舌を出し、 「へっへっへっ」 と喘いでいる。
「ありがとう。……元強盗に感謝する日が来ようとはな。名前は、何だったか」
「渡辺ワン太郎だよ。その節はお世話になりました」 その言葉には軽い皮肉が含まれている。
「そう、ワン太郎だ。どうして助けてくれたんだ?」
「ボスの指令さ。幽邃お嬢様親衛隊のボスだ」
「幽邃の親衛隊?」 陽は窓を開けながら問う。 「何でそれが私を助けるんだ」
「一応、幽邃お嬢様の知人だからな」 ワン太郎は幽邃を 「お嬢様」 と呼ぶことにすっかり慣れている様子だった。 「助ける価値はある、と判断したんだろうさ」
ワン太郎は先週の日曜日に陽のパン屋の前で 『幽邃お嬢様親衛隊』 に捕らえられた後、そこに加わることになり、様々な訓練を受けている最中だという。幽邃の父親は親衛隊なんてものを組織するくらいに娘を溺愛している。そのことに関して幽邃はどう思っているのか分からないが、もう慣れているのだろう。
親衛隊に入ってから体験したことなどをとうとうと話すワン太郎。彼は自分の名前を誇りに思っている。親との仲もいいらしく、どうやらマザコン・ファザコンの気があるようだ。DQNネームをつけられたというのに、珍しいな、と思う。人によっては、DQNネームは必ずしも悪いものではないのかもしれない。
「強盗したのに仕事ができるんだ、お嬢様には感謝してるよ。会ってお礼を言いたいところだが、親衛隊はお嬢様との接触をできるだけ避けなくちゃいけないって決まりがあるんだ」
「私が伝えておこう」
「ありがたい」
やけに車通りが少ない道路を走るこの車は、さながら動く犬小屋だ。 「この曲を聴くとみんなのテンションが上がるんだぜ」 と、ワン太郎がCDプレーヤーで軽快な洋楽をかける。後部座席で窮屈そうにしていた犬たちが顔を上げた気配を感じた。
陽は大日本命名改革推進党のことを考える。ルラピケが恋物語にもらったというパンフレットのことを指摘すると、紅蓮はこう言っていた。
「寝ぼけたDQN親に危機感を持たせるためにはあれくらいが丁度いいのだよ、陽。大げさにでもいいから、兎にも角にもDQNネームを廃絶するべきだと世間にアピールせねばならない。最早なりふりかまってはいられないのだ。こうしている間にも無能な親は、子供に嬉々として愚劣の象徴であるDQNネームをつけている。その子の未来が暗い色に塗りつぶされるなど欠片も思わずにな。我々はDQNネームを生む親を改心させなければならない。そうすることこそが、慈善団体として、世のためになるのだ」
兄さん。
兄さんたちのような人がいると、今現在DQNネームで苦しんでいる人への差別が加速してしまうのではないのか? 愚劣の象徴と切り捨てるのは危険すぎやしないだろうか? ちゃんと情報を正しく伝える活動をしているのだろうか?
車のいたるところに付けられた犬のキーホルダーが不規則に揺れるのを睨みながら、陽は悩む。キーホルダーの方は、狂気を感じるほどの満面の笑みをたたえながらこちらを睨み返していた。お前はどう思う、と心の中で問うと、キーホルダーはふらふらしてあさっての方向を向いてしまう。
▽
幽邃はグランドグリーンに戻るため、車道沿いの歩道をルラピケと歩いている。車通りは依然としてない。それでも人が歩いているのは確認できてほっとする。このままあの場所が、永遠に人間が近寄れない 「失われた交差点」 になるのではないかという心配には意味がなかったらしい。
「ところで、どうしておれを一緒に連れてきたんだよ?」
「ユウスイさんがいた方が、心強いからです!」 ルラピケは言った後で、真剣な顔になる。 「……もしかして、ご迷惑でしたか?」
「そんなことねぇよ」 幽邃は明るく言い、ルラピケの頭に手を置く。頼りにされるのは嬉しかったが、地上にはルラピケ自身より頼れる存在はいないような気もした。
「おい、幽邃」
声は突然横から聞こえてきた。そちらを向くと、よく見る黒い車が止まっている。そのツヤに幽邃はいつか食べたコーヒーゼリーを思い出す。いつも思うが、綺麗すぎておいしそうな車だ。その中から陽が顔を覗かせている。
「びっくりした。陽か。お前、今日は家でごろごろするんじゃなかったのか」
「とあるギタリストに誘拐されてな」
「何言ってんだ? あ、そんなことより、今すげぇことがあったんだよ」
「すげぇことなら、私が先程体験した事件ほど凄いことはないだろうな」
「じゃあ後で対決しようぜ。どっちの出来事がより奇想天外なのか」
「望むところだ」
陽が乗った車は、小気味よい音楽を窓から僅かに溢れさせながら走り去る。段々と車通りは増えていく。カラオケでコーヒーゼリーを注文しようかなと思いつつ、幽邃は口を開く。
「さぁ、戻ろうぜ。春香と祥子が待ってる」
「はい!」 ルラピケは満面の笑顔で、元気に返事をする。




