氷の姫と涙の石
「姫様、この本は読まれましたか? とても哀しいお話ですのよ、わたくし最後には泣いてしまいました」
「姫様、お庭の花をご覧になりました? ちょうど満開でしたわ、後でお部屋にも飾っておきますわね」
「姫様」
「姫様、姫様」
矢継ぎ早に繰り出される質問に、リリィは内心顔をしかめました。けれど実際にリリィの凍りついた表情は動くことがなく、ゆえに使用人たちも、話しかけるのを止めようとはしません。
仕方がないか、と諦めて、彼女は椅子に体重を預けました。
リリィが生まれたのは、他の国にも忘れられてしまいそうな、小さな小さな国です。けれど王様は強く賢く、王妃様は優しく美しく、民がお腹をすかせることもない、とても幸せな国でもありました。ただ一つ、第二王女が心を持たないことを除いては。
もちろん、本当に心を持たないわけではない、とリリィ自身は思っていました。綺麗なものは綺麗だと思うし、嬉しいときには嬉しいと、哀しいときには哀しいと思えます。ただリリィには、それを表に出す術が欠けていたのでした。
リリィは気付いていませんでしたが、彼女には特に他人に向ける感情というものが無かったのです。彼女を喜ばせようと話しかけてくる使用人たちを見て、どうして自分は笑えないのだろうと考えはしても、使用人たちがそうまでして自分を笑わせようとするのが何故かは分かりませんでしたし、その理由を考えることもありません。リリィの世界は本当に、本当に狭いものでした。
もちろん、それはリリィが本当に冷たい人間だということではありません。表情が動かないことを除けば、リリィはとても使用人たち想いの、とても良い王女でありました。きちんと彼らの体調を気遣い、労いの言葉をかけるのですから。王様譲りの賢さと王妃様譲りの美しさもあって、リリィは使用人からも民からも愛されていたのです。
たとえ、心を持たぬ氷姫、と呼ばれても。
「姫様、国王陛下がお呼びでございます。姫様にお客様がいらっしゃっていると」
「またなのですか? ……分かったわ、支度をしてください」
使用人からかけられた言葉に、リリィは一見表情一つ変えず、そう返しました。けれど心の中では、もううんざりだ、と溜息をついていたのです。
他国で流れている噂は、リリィも聴いたことがありました。心を持たない氷姫の、未だかつて誰も見たことのない幻の笑顔は、世界中で暴れ回る龍の心をも掴むと。涙を流さぬ氷姫の涙は、あらゆる傷や病を一瞬にして癒す妙薬になるのだと。馬鹿げた噂だ、とリリィは思っていましたが、それを信じて毎日たくさんの人間がリリィの元を訪れ、自分こそはその心を溶かそうとするのでした。
さて、今日は一体どなたが玉砕するのかしら。そう考えながら父王の元を訪れたリリィが最初に聞いたのは、低く心地良い青年の声でした。
「驚いた。本当に美しい姫君ですね、国王陛下。あなたと王妃様によく似ていらっしゃる」
「お世辞など言わなくても構わんぞ、ジーン殿。早かったなリリィ、こっちに来なさい」
「はい、父様」
国王の隣に向かって歩きながら、リリィは彼の目の前に立つ青年をそっと窺います。彼女は自分が美しいことを散々周りに指摘されて知っていましたが、そんなリリィから見ても、青年はかなり美しい容姿を持っていました。輝く黄金の髪に、翡翠のような瞳。身に纏う衣服の質の良さから、恐らく王族か貴族のどちらかであろう、とリリィは見当をつけます。父王の隣に立ったところで、王が青年の、そしてリリィを交互に見ました。
「ジーン殿、これが二人目の娘のリリィだ。貴方も噂は聴いているのであろう、無愛想に見えるが、許していただきたい。リリィ、こちらは……」
「初めまして、リリィ姫。私はジーン。銀の国の第一王子だ」
「銀の国の?」
実際にリリィがしたのは、表情一つ変えず、首を傾げるだけ。それでも心の中では、最大限に驚いていました。
だって銀の国と言えば、この国からはもう一つ国を挟んだ隣に位置する、並ぶ国のない大国なのです。その第一王子ということは、目の前に立つ青年は、いずれ大国を継ぐことになるのでしょう。そんな相手と自分が会えるなど、誰が考えたでしょうか。
しかし氷姫の異名は、こういう時には役に立ちました。
「初めましてジーン様、リリィと申します。……失礼ですが、何故貴方のような方が、こんな国に?」
「リリィっ」
無表情で首を傾げるリリィに、慌てるような父王の声が飛んできます。その様子がおかしかったのか、ジーンはおかしそうに笑うと、不意にリリィの手を取りました。凍った表情のまま、動きまで凍らせるリリィに、ジーンは優しく微笑みかけます。
「貴女に会いにきたのだよ、リリィ姫。……リリィ、と呼んでも?」
「ええ、構いません」
「では、リリィ」
嬉しそうににこりと笑うと、ジーンはそっとリリィの手に口付けました。
「貴女に、我が国の次の王妃になって頂きたい。その許可を請いにきた」
「……ジーン様の妃に、と言うことですか?」
「ああそうだ、その通り。私と結婚して欲しいんだ、リリィ」
何故。その疑問が真っ先に浮かんだものの、リリィは緩慢な動作で父に顔を向けました。
「父様は、何と?」
「貴女が良ければ反対はしない、と」
「そうですか」
表情一つ変えず、リリィは呟きました。
国王が反対しないのは当然でしょう。何しろ相手は銀の国、どんな国にも一目置かれる大国なのです。その国の近くにある、というだけで、この小さな国がどれほどの恩恵を受けているでしょう。この上リリィが嫁ぐことで同盟の一つでも結べれば、と思うのも無理はありません。
「では、お受けします」
それを知っていたから、リリィは迷うことなく頷きました。
◆
氷姫と呼ばれるリリィのことを心配したのか、それともそんなリリィと結ばれるジーンのことを心配したのかは分かりません。ですが国王の言葉で、二人はすぐには結婚せず、しばらくジーンが城に滞在することになりました。
互いに賢いせいもあったのでしょう、二人はすぐに打ち解けました。相変わらずリリィは表情一つ動かしませんでしたが、二人が話している様子を見れば、彼女が楽しんでいることは分かりました。今まで城にはリリィと同じくらい賢い相手は両親くらいしかいませんでしたから、リリィにとってここまで話の弾む相手は初めてだったのです。
リリィにとってジーンとの結婚は、政略結婚だから逆らうことは出来ないもの、でした。けれどいつしかそれは、喜ばしく待ち遠しいものへと変わっていたのです。
それはリリィ自身にすら自覚できないような緩やかな変化でしたが、ジーンには隠すことは出来ないようでした。
「君は私に愛の言葉を囁いてはくれないのかい、リリィ?」
「この顔で言って、誰が信じるのですか」
「私が信じるさ。君は確かに表情に乏しいが、感情が無いわけではないだろう」
「……では、愛しています。ジーン様」
「ああ、私もだ」
そんな二人の元に、けれど不幸は本当に突然、何の前触れもなくやってくるのでした。
「龍が……?」
流石のジーンも、これには驚かざるを得ないようでした。そんな彼に首肯を返し、国王は同じ言葉を繰り返します。
「今は隣の国で暴れているようだが、最早あの国は滅びたも同然らしい。じきに龍はこの国か銀の国へ移動するだろう。ジーン殿、銀の国は貴方の帰国を望んでいる」
「……そんな」
ぐっ、と拳を握りしめ、俯くジーンを、リリィは無表情で見つめました。
隣国に龍が現れた、という知らせ。それはつまり、次はその隣に位置するこの国と銀の国のどちらかが龍に襲われるという、半ば死刑宣告でもあったのです。リリィや国王にとって守るべきはこの国ですが、彼は他国の人間。王の後を継ぐ彼が銀の国を見捨てここに残ることなど出来ないと、リリィには分かっていたのでした。
「ジーン様。私たちは大丈夫ですから、どうか故郷を護ってください」
「私は貴女の婚約者でもあるのだぞ、リリィ」
ジーンが辛そうに顔を歪めます。けれど今に至ってもなお、リリィの表情が変わることは無いのでした。
「ええ、だからこそ申し上げているのです。銀の国は私の国でもある、違いますか」
「……ならば、この国も私の国だ。私には、国を護る義務がある」
「この国は父のものです。貴方が継ぐのは銀の国であって、この国ではないはずでしょう」
「だが――」
「陛下!」
言い返そうとしたジーンの言葉を遮るように、部屋に兵士が飛び込んできました。その蒼白な顔色に、国王が立ち上がります。
「何事だ」
「はっ……龍が、隣国を喰らい尽くしたと。位置からしてこちらに向かってくるものと思われましたが、突如向きを変え、ゆっくりと銀の国に向かって進んでいるそうです」
「っ!」
今度はジーンの方が、顔色を失いました。その手を、やはり無表情のままのリリィがそっと包み込みます。
「ジーン様。大丈夫、まだ間に合います」
「あ、ああ。ありがとう、リリィ」
「いえ。……父様」
ジーンの手を握ったまま、リリィは父王の方を振り返りました。続く言葉を予想していたのか、国王は顔をしかめます。そんな彼に構わず、リリィは言い放ちました。
「私も、ジーン様と共に銀の国へ参ります。……親不孝な子供で、ごめんなさい。でも、止めても無駄です」
◆
「……何とか間に合った、か」
馬から降りると、ジーンは険しい顔で目の前を――破壊された建物の残骸の中で丸くなっている龍を睨みつけました。辺りには無残な亡骸が転がっていて、数刻前までは確かにここが人の村であったことを何よりも語っています。
「その人たちを救えなかった、などと正義感を燃やすのはお止めくださいね、ジーン様。私たちの目的は銀の国を護ることであって、この国を救うことでは無いのですから」
背後から聴こえた言葉に振り返ると、少女がしっかりとした足取りで馬を降りながら、いつも通りの無表情で彼を見ていました。
その言葉に、ジーンは苦笑を浮かべます。
「ああ……そうだな、すまない。大丈夫かリリィ、どこか痛いところは?」
「平気です」
そう、女性らしくないことに、リリィは乗馬の腕もかなりのものでした。それでも長旅の疲れはあるのでしょう、ふぅと息をつくと、彼女はジーンの横に来て龍を見つめました。
「さて、どうします? 寝込みでも襲いましょうか」
「ああ……それにしても、慎重に作戦を立てる必要はありそうだな。村人が一人でも生きていれば良かったんだが」
「それは絶望的、ですね。ジーン様がはしゃいで他の兵たちを置き去りにするから」
君が他の兵士がいるのを嫌がったからだろう、とは口に出さず、ジーンは肩を竦めます。
「あっ……あんたたち、助けにきてくれたのか?」
そのとき、不意に切羽詰まったような人の叫び声が聞こえました。
ぎょっとして二人が振り向くと、今まで辛うじて生きていたらしい人間が、目を覚ました龍に咀嚼されているのが視界に映ります。咄嗟にリリィを抱き寄せて自らの手でその目を塞ぎ、ジーンは剣を抜きました。そして息を殺し、リリィを抱いたまま草むらの影に身を潜めます。
しかし村人を食べ終えた龍は、真っ直ぐにジーンを見ました。
「っ……くっ!」
最早、隠れ続けることも、逃げることも出来そうにありません。飛び出そうとしたジーンの手を、リリィがそっと押さえました。
「駄目です、ジーン様」
「だが……」
「ジーン様。私、貴方には感謝しているんです。こんな私を、貴方は愛してくださった。本当に……」
不意に、ジーンは気付きました。いつしか、リリィに剣が奪われていたことに。リリィの握るその剣の切っ先が、ゆっくりと、彼女の胸元に向かっていることに。
「なっ……やめろ、やめるんだリリィ!」
「私の笑顔は龍をも惹きつけ、私の涙は妙薬となる。なるほど、それが真実ならば、この体を持って龍を封じることも出来るでしょう。ですからどうか、貴方は」
ふっと、リリィの表情が変わります。
彼女が生まれて初めて浮かべた表情は、それはそれは美しい笑顔でした。
「生きてください、ジーン様。……愛しています」
「リリィ!」
鋭い剣の切っ先が、リリィの胸を裂きます。
同時に彼女の瞳から零れた雫は、地面に落ちるその瞬間、宝石のように輝く、透き通った石となったのでした。
◆
一度は彼女の故郷に運ばれた氷姫の亡骸は、しかし銀の国で手厚く葬られ、数十年の後にはそこに賢王と呼ばれたかつての青年が寄り添いました。
そして龍を封じた涙の石は、いつまでも、銀の国の宝物庫で眠り続けているのです。
こんにちは、高良です。連載作「枯花」の投稿が遅れているのに何やってるんだと読者様からは叱られそうですが、とりあえず出来上がったものから。文芸部と漫研のコラボ部誌用に、徹夜で書いた作品です。一緒に仕上げたもう一つの短編と同時投稿。実は世界観も繋がっています。その辺りも、楽しんで頂けたら嬉しいです。
っていうか童話調って言いつつ童話じゃないね!
では、次は「枯花」でお会い出来たら幸い。