短編ホラー小説 変身願望〜謎の高級車が迎えに来た!
私の家はかなり狭い。
古くて、ちょっと汚い。
洗濯機は玄関の外に置いてある。
だから友達は呼べない。
みんなうちの場所は知っているから、たぶん影で笑っているんだろうなぁ。
6畳のアパートに、ママと2人。
パパは何年か前の、乾いた風の吹く朝にいなくなった。
ママは昼はスーパー、夜は場末のスナックで働いている。化粧はちゃんとしているけど、少しくたびれている。
でも優しくて、料理も上手で、私はママが大好きだ。
……好きなんだけど。
中2の私は、世間体というものを気にする。
クラスメイトは普通に両親がいて、
普通に一軒家やマンションに住んでいる。
ブランドのバッグを持っている子も、夏休みに海外旅行に行く子もいる。
だから私は、いつか玉の輿に乗るか、ママが金持ちの男性と再婚して、こんな生活から抜け出せる日を夢見ていた。
* * *
そんな、ある日の放課後。
ブラスバンド部の練習が終わって友達のマリと校門を出ると、黒塗りの高級車が止まっていた。
とても古いのに、磨かれたボディーは一点の曇りもなく、まるで黒い鏡の様だ。
ボンネットの先には、シルバーの天使が鎮座していた。
傍らに、黒いスーツを身に纏った老紳士が立っている。
……わ、すごい。
でも、こんな公立の中学にお金持ちなんていないはずだけど…。
「菜々様、お待ちしておりました」
突然、老紳士が渋いバリトンボイスで私に向かって言った。
「えっ!?」
白い手袋が後部座席のドアを開く。
柔らかな笑みで、私を中へと促す。
マリは口を半開きにして、ただ私を見ている。
普通なら、かなり怖い状況だと思う。
でも、不思議と怖くはなかった。
私はマリに小さく手を振り、車に乗り込んだ。
老紳士によりドアは静かに閉められた。
重厚感のあるいい音だ。
そこに座っていたのは、もう1人の私だった。
紺色の上質なワンピース。
艶のある髪はリボンでまとめられている。
透き通るような肌。
私より、少しだけ整った私。
「私と、入れ替わってみない?」
「……あなた、誰?」
「ふふっ」
答えはそれだけだった。
胸が、どくんと鳴る。
「うん」
私は、よくわからないまま即答してしまった。
「じゃあ、決まりね」
車は滑るように動き出す。
……静か。
高級車って、こんなに音がしないんだ。
ママのオンボロの軽自動車とは大違いだ。
深い静寂。
何かを話す雰囲気ではない。
やがて車は、見慣れた景色に入った。
———私の家だ。
古ぼけたアパート。
老紳士が降りて後部座席のドアを開ける。
重いドアの音が、やけに心地いい。
もう1人の私は、するりと外へ出た。
「じゃあね。頑張って」
嬉しそうに笑っている。
「え……?」
深く一礼。
ドアが閉まる。
車は、再び動き出す。
アパートが、どんどん小さくなる。
私は、窓越しにそれを見つめた。
不気味なくらい静かだ。
私は、どこへ行くのだろう。
「何か音楽でもおかけいたしましょうか?」
老紳士が私に尋ねる。
「…えっと…クラシックとか…」
「はい、かしこまりました」
滑らかな手つきで操作すると、車内に静かに流れ出したのは《G線上のアリア》。
音はやわらかく、空気そのものが震えているみたいだった。
全身がオーケストラの演奏に包み込まれる。
流れていく景色。
揺れない車内。
深く、やさしい音。
私は目を閉じる。
この車に、私は似合う。
そんな気がしてきた。
アパートの畳匂いが、記憶から少しずつ遠ざかっていく。
代わりに、静かな誇りのようなものが胸に広がる。
私は、少し背筋を伸ばした。
車は山道を静かに登ってゆく。
流れ行く車窓の5月の新緑が美しい。
脇道に逸れると大きな門に辿り着いた。
大きな鉄の門。
蔦の絡む重厚な門扉には、見たこともない紋章が刻まれている。
車が近づく。
老紳士は何も操作しない。
それでも――
門は音もなく、ゆっくりと左右に開いた。
私は思わず息をのむ。
選ばれた人しか通れない場所。
そう、私は選ばれし人間。
車はそのまま、敷地の奥へと進んでいく。
瀟洒な煉瓦造りの洋館が見えた。
車はゆっくりと玄関前で止まる。
老紳士が降り、後部座席のドアを開ける。
私は一歩、地面に足を下ろした。
装飾の施された観音開きの扉が老紳士の手によって開けられる。
中は、静まり返っている。
磨き上げられた床。
壁にかけられた大きな油絵。
天井から下がるシャンデリア。
空気が澄んでいる。
「申し遅れました。私はこの館の執事、岩井と申します。どうぞ宜しくお願い致します」
岩井さんは深く頭を下げた。
「はい、こちらこそ」
私も頭を下げる。
「菜々様の部屋にご案内します」
長い廊下を歩く。
絨毯が足音を吸い込む。
自分が、どんどん“それらしく”なっていく。
部屋に入ると、大きな窓と、天蓋付きのベッド。
窓からは綺麗な森が見える。
まるで高原リゾートの様だ。
用意された紺色のワンピースに着替える。
もう1人の私が着ていたワンピースだ。
大きな鏡の前に立つ。
よく似合っていた。
今までの私はかりそめの姿。
これが本当の私だ。
夕食までの時間、屋敷の中を歩いた。
広いリビングには、スタンウェイのグランドピアノが置かれている。
黒い艶が、シャンデリアの光を映す。
指を伸ばしかけると、
「自動演奏も可能でございます」
岩井さんが静かに設定をする。
やがて流れ出したのは、柔らかな旋律。
ピアノから流れてきたのは、バッハの《平均律クラヴィーア曲集》。
第1巻、第1番。あのプレリュード。
昔、私も弾いたことがある。
でも、途中までしか弾けなかった。
貧乏でレッスンに通えなくなってからはピアノに触れていない。
私は、ソファに腰を下ろした。
当然の様に紅茶とケーキが運ばれる。
白磁のティーカップ。
薄く立ちのぼる湯気。
小さなフォークが、銀色に光っている。
「どうぞ、ごゆっくり」
岩井さんの声は、音楽の邪魔をしない。
私はカップを手に取る。
上品な香り。
ベリーのケーキは甘さが控えめで、品がいい。
美しいピアノの音色。
この家では、すべてが完璧に整っていた。
* * *
夕食はフレンチのフルコースだった。
テーブルの上には、クリスタルのグラスとカトラリー。
もちろん、私にマナーなんてわかるはずがない。
フォークとナイフはぎこちなく、
ときどき皿に触れて大きな音を立てる。
その音だけが、広いリビングに響いた。
だけど、料理はどれも驚くほど美味しい。
それだけで、胸がいっぱいになる。
でも、少しだけ、寂しい。
スープを運んできた岩井さんに、私はそっと尋ねた。
「えっと、ここには…私の家族はいないのですか?」
岩井さんは、ほんの一瞬だけ間を置いてから答えた。
「皆様、明朝お戻りになります」
明日の朝。
どんな家族なんだろう。
優しいお父様。
上品なお母様。
……妹がいたらいいな。
私はふっと笑った。
きっと願いは叶う。
ここは、そういう場所なのだから。
翌日
自動演奏のグランドピアノから、ショパンのワルツが流れている。
1人で食べる、静かな朝食。
小鳥の囀りとともに、柔らかな光がリビングに差し込む。
そのとき、玄関の重い扉が開いた。
「お帰りなさいませ」
岩井さんが深く頭を下げる。
私はゆっくり振り向いた。
———家族だ。
高価そうなスーツを完璧に着こなした父。
一目で“できる人間”とわかる。
その父が、私を一瞥する。
そして、わずかに眉をひそめた。
何も言わない。
その隣に立っている母は……ママだった。
でも、違う。
ブランドのスーツ。
細いフレームの高そうな眼鏡。
背筋はまっすぐで、隙がない。
いつもの、少しくたびれた優しいママじゃない。
威厳がある。
そして、私を見る。
一瞬だけ。
その目に、失望が浮かぶ。
妹は凛とした美しい顔立ちをしていた。
そして、目が合うとニヤリと笑った。
私の背筋が、すっと冷えた。
父がゆっくり椅子に腰を下ろす。
「成績は」
唐突だった。
「え……?」
「今学期の順位だ」
私は言葉に詰まる。
この家では、最初の質問がそれなのだ。
母が静かに紅茶を口に運ぶ。
「あなた、今までどのようなお勉強をなさっていたの?」
“あなた”。
ママは私をそう呼んだ。
声に、温度がない。
「ふつうに……」
妹がくすりと笑う。
「お姉様、聖英女学院は“ふつう”では通用いたしませんわ」
にこやかだ。
でも、刃物みたい。
“聖英女学院”どうやら、私はこの地域で1番優秀な、お嬢様学校に通っているらしい。
しかも、成績は非常に悪いっぽい。
私の頭は今まで通りだ。
今まで通っていた公立中学校でも中の下くらいの成績だったのだから当然だろう。
父は視線を落としたまま言う。
「努力が足りない」
それだけ。
私は、初めて気づく。
この家では、“できない”ことは、人間失格なのだ。
「菜々、もう学校の時間よ」
母の声。
「食べ方まで汚らしいのね」
妹の声。
背筋が凍った。
ここは、私の居場所じゃない。
でも、学校へ行かなきゃ…。
* * *
学校が終わり、自宅に帰ってきた。
聖英女学院の1日は散々だった。
特に英語教育に力を入れているので英語の授業が多かった。帰国子女も多いらしく、日常会話も英語で喋る子も多かった。
当然私は全く喋る事はできない。
ここは私の居場所じゃない。
貧乏だった私に戻りたい。
洋館に帰り、制服を脱ぐ。
昨日の紺色のワンピースに袖を通す。
鏡の中の私は、まだ整っている。
でも中身は、いつもと同じままだ。
幸いな事に家には岩井さん以外誰もいない。
リビングに行き、私は小さく息を吐いた。
「岩井さん」
声が少し震える。
「…車を…出していただけますか。以前通っていた公立中学校へ」
今の時刻なら、ちょうどブラスバンド部の練習が終わった頃に間に合うだろう。
「元に戻りたいのですね?」
「はい」
「かしこまりました」
車は静かに走り出す。
昨日は心地よかったこの静寂が、
今日は落ち着かない。
30分ほどで到着し、校門前で待つ。
やがて、ブラスバンド部の練習を終えた“私”が、マリと出てきた。
岩井さんがドアを開け、“私”に『お待ちしておりました』と告げ、車内へと促す。
昨日と同じだ。
“私”は、何の疑いもなく馬鹿面をして乗り込んでくる。
ああ、これで戻れる。
私は、あのとき言われた言葉を口にする。
「ねえ、私と入れ替わってみない?」
“私”は、私を見つめる。
一瞬の沈黙。
そして、
にやりと笑った。
「嫌だ」
* * *
「—————— っ!!!!!」
悪夢を見ていた様だ。
夢でよかった。
長くリアルで恐ろしい夢だった。
目を開ける。
深い闇に包まれていて、部屋の様子をうかがい知ることはできない。
うち、こんなに暗かったっけ?
何かがおかしい。
手探りで枕元の電気をつけた。
部屋が一気に明るくなる。
高い天井にはシャンデリアが下がっていた。
白い漆喰の壁。
チェストの上には紺色のワンピースが丁寧に畳まれている。
えっ、こちらが現実…?
「そんなの嫌っ!!!!!」
「どうしたの、菜々」
傍らを見ると、私の大きな声でツインのベッドに眠っていたママが目を覚ました。
その表情はあの怖いママじゃない。
「えっ!?ここは…?」
「おはよう菜々、どうしたの?菜々が泊まりたいって言ってた山の上のホテルよ、ここは」
「……ああ……そうだったね……」
思わず安心してママに抱きついてしまった。
「ママ大好き」
「菜々」
少しくたびれたママだけど、世界で1番好き。
あと、あのオンボロのアパートも味があって結構好きかも。
私、幸せかもしれない。
素直にそう思えた。
* * *
優雅なホテルの朝食を食べ終わると、私たちはチェックアウトした。
紺色のワンピースは今日のために、デパートで背伸び買ってもらった、ちょっといい服だ。
その時にママも背伸びをして買ったジャケットを着ている。
これで、このホテルには見た目だけは相応しいはずだった。
でも、車はママのオンボロの軽自動車だ。
そのギャップもなんかいい。
「ふふっ」
思わず笑顔になる。
「菜々、どうしたの?」
「なんでもない」
今日はなんかとても楽しい。
ドアマンに挨拶すると、ママはふいに立ち止まった。
「あれ?軽、向こうの駐車場に停めたよね?」
私は指をさす。
ママはゆっくりとこちらを見た。
「何を言っているの?」
声は冷たい。
「だから、軽だよ」
「軽自動車なんて、うちにありません!」
きっぱりと言い放った。
“あの時”と同じ顔つきだ。
心臓が、どくんと鳴る。
「もう迎えがくるわよ」
「えっ?」
遠くから静かなエンジン音が聞こえてきた。
振り向く。
黒く磨かれた高級車が、ゆっくりと近づいてくる。
運転席には岩井さんが座っていた。




