3、祈りの体温
三月が近づき、戦況は最悪の段階を迎えた。帝国軍の氷上の大進撃に対し、大公国の防衛線は限界を超えつつあった。
帝国は過酷な講和条約を突き付けてくる一方、西の連合は大公国が帝国との戦争を続行することを願っていた。しかし連合の支援の約束は、リトセラス王国とヴァカムエルタ都市国家連合の中立に阻まれ、実現性の乏しい、または遅すぎるものだった。
リトセラス王国での交渉で、帝国と連合の意図の感触をつかんだ外交団は、それを大公国首脳部に報告した。
首脳部は連合の支援が現実的ではないことを知り、それを連合の裏切りと見なした。彼らは、大公国が連合の利益のために犠牲になることを拒否し、大公国の独立維持を最優先とする和平の交渉を行うことを決断した。
「おまたせ」
イーダは、テオドールの仕事が終わるのを待ってた。今日は彼の部屋で飲む約束だった。建物から出てきた彼の外套の袖を、彼女は騎士らしからぬ弱々しさで掴んだ。
「テオドール、私たち、いつまで会えるかな」
テオドールは、外交使節団が和平交渉のために、帝国の首都ワプティアへ向かうこと、そしてそれが事実上の降伏交渉であることを知っていた。彼女もうっすらとそのことを感じているようだった。
「僕たちはずっとこのままだと思うよ。もっとマシな酒を用意できるようになればいいけどな」
テオドールはイーダの不安を冗談で紛らわせようとした。大公国の命運は、もはやカレリアの雪原にはない。ワプティアの冷酷な交渉机の上にある。テオドールは、自分が守るべきだったものの残骸の中に一つだけ残って咲いているスズランのようなイーダの小さな肩を、強く抱き寄せた。
テオドールは、少し猫背気味に、使い古されたコートのポケットに両手を深く突っ込み、雪で消える自分の靴音だけを数えるように歩きだす。。半歩後ろには、イーダがいる。彼女が吐き出す息は白く、冬の夜の冷たさを可視化していた。
「……結構、冷えてきたな」
「……そうだね」
会話は、それ以上続かない。お互いの過去と、現在の体調と暮らし、それらを愚痴じみたことを語り合い、笑い飛ばすのが、二人の逢瀬だった。
けれど今夜、二人の間には戦況の暗さが動かしがたい重い石のように居座っていた。
テオドールがイーダに振り向くと、彼女は少しだけ微笑んだ。その瞳の奥には、薄い氷が張ったような寂しさが残っていた。テオドールは自分の右手を見た。街灯の下で、それは隠しようもなく小さく震えていた。
「……イーダ。……俺、怖いのかな」
イーダが足を止め、テオドールの横顔をじっと見つめる。彼は視線を合わせないまま、独り言のように言葉をこぼした。
「離婚した時も、こっちに戻ってきて来てからも、全部一人でやるもんだって思ってたし、実際そうだった。でも、なんかさ……」
「……何?」
テオドールはふっと自嘲気味に笑い、ようやくイーダを見た。
「……また一人になっちゃうんじゃないかってさ。……バカだよな、もう五十も近いっていうのにさ……」
イーダは何も言わなかった。ただ、静かに一歩、テオドールに近づいた。二人の距離が、いつもより拳一つ分だけ近くなる。
「……テオドール」
「……ん?」
「……夢みたいなこと、してもいいよ」
テオドールの動きが止まった。信じられないものを見るような目でイーダを振り返る。彼女は真っ直ぐに、彼を見つめていた。そこにあるのは、若者のような奔放さではなく、すべてを諦めた果てにあるような、深い慈愛の光だった。
イーダはただ、黙って彼の手を引っぱって、街の喧騒や戦火の気配から遠ざかるように、逆の方向に歩きだした。
テオドールの喉仏が、大きく上下した。彼は何かを言いかけ、そして止めた。言葉にするには、今感じている感情はあまりに重く、不格好だったからだ。彼はイーダに引っ張られながら、そっと彼女の冷え切った指先を握りかえした。その手は荒れて、かつての滑らかな白さとは似ても似つかない。でもそれが、今の彼にはなによりも愛おしいものだった。
それは愛の告白というよりは、濁流の中で流されないように必死に掴み合う、生に対する執着、これからも生きていくための誓いのようなものだった。
「……いいの?」
「……うん。……私も、一人は飽きたから」
そう言って、イーダはテオドールの手を、指先が白くなるほど強く握りしめた。まるでそうしていなければ夜の闇に吸い込まれて消えてしまうと恐れる、十五歳の少女のようだった。
テオドールは何も答えられなかった。ただ、冷え切った彼女の肩を、自分のコートの中に招き入れるように強く抱き寄せた。
互いの肩が触れ合う距離で二人は歩いていく。 二人の影は、ゆっくりと、本当にゆっくりと、イーダの部屋が待つ暗い路地の奥へと溶けていった。たとえ二人を邪魔する鐘の音があったとしても、今の二人には聞こえなかったに違いない。ただ、戦争の足音だけが、二人の時間を急かしていた。
その夜、テオドールが触れたのは、かつて夢見た銀色の光を放つ少女の肌ではなく、数多の冬を越えて荒れ、生々しい熱を宿した一人の女性の体温だった。
彼は、自分の失敗だらけの人生が、彼女の肌の熱に触れるためだけに用意された空白だったのではないかとさえ思った。その熱は、翌朝の冷気の中でも、消えない火傷のような確かな痕跡を彼の手に残した。




