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三十年目の鐘は鳴らない  作者: 万里小路 信房


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2、塔の向こう、届かなかった指先

 ある夜、どこも店が満員で入れなかった時、イーダは言った。


「うちで飲もうよ」


 テオドールは驚いたが、イーダが言葉をつづけた。


「正直、外で飲む金もツラいんだ」


 場末の狭い部屋、新築で誰も借り手のいないだろう部屋でイーダは暮らしていた。彼女の部屋で、二人はシードルから飲み始め、話題がよりプライベートなものになるとウオッカに変わった。  


 イーダはこれまでのことを話しだした。テオドールは黙って聞いている。死別した夫のこと。彼女は恋人のいる彼を奪うようにして結婚したんだという。


 夫の死後、妻子ある男性との愛に溺れたこと。そして、その男に貢ぐようにして騎士としての領地を失ったこと。


 テオドールはイーダが過去の男の話をしているときに、嫉妬のような感情が芽生えているのを感じた。久しく忘れていた感情だった。摩耗していたと思っていた心に、まだこんな感情があったなんて驚きだった。新鮮さすら感じられるこの感情を大切にしたいと思った。


 イーダの話は続いている。テオドールは自分の心を見つめながら、彼女の話を聞いていた。官能的なことも赤裸々に語る。彼女は自分を男だと認識していないから、こういう話をするのだろう。自分は彼女にとって男性というよりもかけがいのない友人なのだろうと思った。時々、あいづちを打つが、余計な口を挟まない。


 今日のイーダはすぐに酔っ払ってしまったようだ。こういう話を誰かとしたかったとテオドールに言う。彼と再会するまでの彼女は孤独だった。


「テオドールの話も聞かせて……」


 テオドールも自分のことを話した。帝国での暮らし、冷たい家庭、壊れていった自分……。イーダに隠すことはなかった。自分の、失敗ばっかりだった人生をさらけ出した。


「私たち、いろいろあったね」


「ああ……、本当に、いろいろだ」


 互いの欠落を埋めるのではない。ただそこに傷があることを認め合う、孤独な大人たちの柔らかな時間が、雪の降る夜を静かに溶かしていった。


 二人はその後、お互いの部屋で、二人きりで気取りのない会話を交わすようになった。イーダの部屋で飲むとき、彼女は時折、部屋の片隅に立てかけている古びた剣に目をやる。かなりくたびれているが、よく手入れがされている。その剣を眺めるときの彼女の表情には、どこか諦めの色が浮かんでいた。


 大公国の外交団がホルンフェルスで必死の交渉を続ける中、西の連合から、魅力的な、しかし毒を含んだ提案が届く。


 西の連合は大公国が帝国との戦争を継続することを強く望んでいた。義勇騎士に偽装した正規騎士団の派遣すら提案した。戦争を続ければ、大規模な支援を行うと約束したが、それはそれは空虚なものだった。


 連合は、自分たちの利権のために大公国を盾として使い捨てようとしていた。リトセラス王国とヴァカムエルタ都市国家連合の中立の壁は厚く、援軍など届きはしない。テオドールは扱う書類の中で、西の連合の不誠実さをいやというほど見せつけられていた。


 和平交渉が頓挫しそうだという絶望的な情報を耳にした日の夜、テオドールはいてもたってもいられず、イーダの部屋のドアを叩いた。ベランダで冬の月を眺めていたイーダの背中に、テオドールはふと、三十年前の、まだ何も失っていなかった頃の疑問を投げかけた。


「昔……、いつも空を見上げて何を見ていたんだ?」


 イーダは一瞬、少女のような顔をして笑った。


「遠い向こうのことだよ。本当に、馬鹿みたいに青い夢のようなことを、ちょっとだけ」


 それは、世界がまだ単純な色をしていた頃の記憶だ。


 三十年前。大公国の首都にある宮殿の一つ。騎士見習いが集められた宮殿の裏手に、氷結した噴水があった。夕刻、厳しい修練を終えた見習いたちが、汗と雪にまみれて宿舎へ戻る中、二人だけがその回廊に残っていた。


 十五歳のテオドールは、支給されたばかりの磨き上げられた銀色に光る小剣を抱え、ひどく緊張していた。隣には、同じく騎士見習いのイーダが、回廊で空を眺めている。


 当時の彼女は、冷たい冬の空気そのもののような、透き通った美しさを持っていた。


「ねえ、テオドール。この雪が溶けたら、私たちはどこへ行くのかな」


 彼女が不意に尋ねた。テオドールは、高鳴る鼓動を隠すように、無理に太くした声で答えた。


「どこへだって行けるさ。俺たちは騎士になるんだから。大公国を守って、世界中を旅して……それから、ええと……」


 テオドールの言葉が詰まる。本当は「それから、お前と一緒に」と言いたかった。けれど、十五歳の彼にとって、その一言は重装騎兵に立ち向かうよりも勇気がいることだった。


 イーダはテオドールに軽く微笑んで、また空に目を戻した。


「私は、あの宮殿の塔の向こうまで行きたいな。そこには、裏切りも、義務も、退屈な礼儀作法もない、本当の自由がある気がするの。……テオドール、一緒に行ってくれる?」


 彼女が微笑んでまた彼の方へ振り返る。夕日が彼女の白銀の髪を黄金色に染め、その瞳には、未来に対する根拠のない、けれど眩いばかりの確信が宿っていた。


 テオドールがその小さな指先に触れようと手を伸ばした瞬間、寄宿舎の鐘が鳴り響いた。差し伸べられた手は空を切り、二人は慌てて隊列に戻った。


 それが、二人の人生で最も青い夢に近づいた瞬間だった。


 テオドールが現在の、荒れて節くれ立ったイーダの手をそっと見つめる。今はもう、あんな窓はない。けれど、この狭い部屋で飲む安酒の中に、あの時届かなかった答えがある気がした。


 かつては宮殿の塔の向こうに行けると信じていた二人が、冷える体を気遣い合っている。


 二人の距離は、一メートル進むのに十数年かかるような、もどかしい速度で縮まっていた。若い頃の情熱はない。あるのはもうこれ以上傷つきたくないという臆病さと、互いの体調を気遣うだけの、水滴のような優しさだった。

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