写本師は時代遅れだと婚約破棄されましたが、侮辱に投げつけられた初級教本を活版印刷でベストセラーにして見返します。
⏬後堂愛美の作品リストは本文下にあります。
指先に染み込んだインクの匂いを、私は密かに誇りに思っていた。それは、何世紀にもわたる知識と物語を、一文字一文字、未来へと繋いできた者だけが纏うことを許された香りだからだ。王立魔導書院の司書であり、伯爵令嬢でもある私の名はセシリア。この国でも指折りの写本師として、古書の修復や貴重な文献の筆写に人生を捧げてきた。
愛用の羽ペンが、植物性の紙の上をしなやかに滑る。夜の静寂を溶かし込んだような黒インクが、優美な曲線を描いて言葉を紡いでいく。この静謐な時間が、何よりも私の心を安らかに満たしてくれる。古代の魔導書は、劣化しやすい羊皮紙に記されたものも多い。より保存性の高い紙の本に写し直す仕事は、国の『知』を後世に残すための大切な責務だという自負がある。
しかし、その矜持と平穏は、婚約者であるライオネル様と会うたびにさざ波を立てる。彼は国内でも随一の権勢を誇る公爵家の次期当主。家柄も容姿も申し分ない、誰もが羨む婚約者のはずだった。
「セシリア。またそんな古臭い本に没頭しているのか。君の手はいつもインク臭いな」
書院を訪れた彼は、私の手元を覗き込み、あからさまに眉をひそめた。彼の指先は塵一つなく磨き上げられ、高価な香油のかすかな香りを漂わせている。私のインクの香りとは、決して交わることのない世界の香りだ。
「ええ、ライオネル様。これは五百年前に失われたとされる、古代魔法語の詩集の写しですの。一文字でも間違えれば、術式の意味が大きく変わってしまう、とても繊細な作業なのですわ」
「ふん。そんなものは、魔法使いにでも任せておけばいいだろう。公爵家の次期当主夫人となる者が、一日中書庫に籠ってインクに塗れているなど、外聞が悪いとは思わないのか?」
価値観のズレは、もはや修復不可能なほどに広がっていた。彼は私の仕事――私の誇りそのものを、何一つ理解しようとはしなかった。ただ、彼の隣に立つにふさわしい、華やかで従順な人形を求めているだけ。その事実に気づかぬふりをしながら、私は静かに憂いを募らせていた。
そんなある日の午後、私の仕事場である書院の一角に、見慣れない男が訪れた。歳は二十代半ばだろうか。平民のものと思しき、しかし上質で機能的な服を身に纏い、その瞳は好奇心と強い意志の光に満ちていた。
「失礼。こちらで古代の金属加工に関する文献を閲覧できると伺ったのですが」
快活な声だった。だが、彼が近づいた瞬間、私の鼻腔を微かな機械油の臭いが掠めた。それは、私の愛する手仕事の世界とは相容れない、無機質で冷たい香り。写本師の職を脅かす、得体のしれない何かを嗅覚に想起させる。
「……あちらの棚に。ただし、閲覧には許可が必要です」
私は努めて冷静にそう告げた。男――ヴィクトルと名乗った彼は、私の手元で進む写本作業に目を留め、感嘆の声を上げた。
「すごい……なんて精密なんだ。まるで印刷されたように文字が揃っているのに、一つ一つの文字に温かい魂が宿っている。素晴らしい技術だ」
彼の言葉に嘘はなかった。純粋な称賛の響きがあった。しかし、私は素直にそれを受け取ることができなかった。機械油の臭いが、心の隅に小さな棘となって引っかかっていたからだ。彼が持つ革新の気配に対し、私は伝統を守る者として、微かな警戒心を抱かずにはいられなかったのだ。
その警戒心が、まさかあのような形で私の運命を大きく揺り動かすことになるとは、まだ知る由もなかった。
◇ ◇ ◇
運命の夜は、王家主催の夜会という、最も華やかな舞台で訪れた。きらびやかなシャンデリアの光が、宝石を散りばめたような貴族たちの装いを照らし出している。しかし、私の心は晴れなかった。隣に立つライオネル様の視線が、私ではない誰かに注がれていることに、とうに気づいていたからだ。
音楽が一段と華やかになったその時、ライオネル様は私の手を取り、広間の中央へと歩み出た。一瞬、期待に胸がときめいた自分を恥じた。彼がおもむろに手を離すと、その隣には、まるで儚い花のような可憐な少女が寄り添っていた。男爵令嬢のメリッサ嬢だ。潤んだ瞳でライオネル様を見上げるその姿は、計算され尽くした完璧な庇護欲を掻き立てる絵画のようだった。
「皆、聞いてくれ!」
ライオネル様の声が、喧騒を切り裂いて響き渡る。全ての視線が、私達三人に集中した。
「本日をもって、私はセシリア・アーリントン伯爵令嬢との婚約を破棄する!」
ざわめきが波のように広がっていく。私は背筋を伸ばし、ただまっすぐにライオネル様を見つめた。動揺していないわけではない。だが悟られてはならない。ここで崩れ落ちることは、私の誇りが許さなかった。
「公爵家の嫁として、彼女はあまりに不釣り合いだ! その手はいつもインク臭く、華やかな夜会よりも薄暗い書庫を好む! このような時代遅れの写本師に、我が公爵家の未来は託せぬ!」
侮辱の言葉が、容赦なく私に突き刺さる。インク臭い。その言葉は、私の人生そのものを否定する響きを持っていた。唇を噛みしめる私の足元に、ライオネル様が一冊の本を投げ捨てた。ぱらり、と乾いた音を立てて開いたのは、ごくありふれた『初級魔法の教本』だった。
「慰謝料代わりだ。せいぜい、得意な筆写でもして日銭を稼ぐがいい!」
高らかな嘲笑が、私に降り注ぐ。私はゆっくりと屈み、その本を拾い上げた。指先が震えそうになるのを、必死で押さえつける。そして、顔を上げ、かつて婚約者だった男を、そして彼に寄り添う少女を、ただ静かに見つめた。
「……ありがたく、頂戴いたしますわ」
動揺を押し殺し、冷静にそれだけを告げて、私は誰にもたじろぐことなく、その場を辞した。シャンデリアの光が、やけに目に染みた。
夜会の喧騒を逃れ、私は当てもなく夜の街を彷徨っていた。頭の中では、ライオネル様の侮辱の言葉と、周囲の嘲笑が渦巻いている。誇りは、尊厳は、ずたずたに引き裂かれた。インクの香りは、私の矜持そのものだったはずなのに。
無意識のうちに、足は煌びやかな貴族街を離れ、実直な活気と熱気が満ちる職人街へと向かっていた。そこで私の足を止めたのは、とある工房から漏れる、規則正しい金属音と、あの日の匂い――機械油の香りだった。
ガラス窓から中を覗くと、そこには昼間に出会った青年、ヴィクトルの姿があった。彼は大きな機械と格闘しながら、生き生きとした表情で作業に没頭している。そして、工房の壁に飾られた一枚のページを見て、私は息を呑んだ。
それは、先日ヴィクトルが絶賛していた、私が写筆したものだった。彼が資料を探しに来たあの日、試し書きとして渡した、ほんの数行の詩。それが、まるで芸術品のように、大切に飾られていたのだ。
扉を開ける私に気づいたヴィクトルは、一瞬驚いた顔をしたが、すぐに温かい笑顔を向けた。
「セシリア嬢。どうしてここに……いや、ちょうど良かった。ぜひ君に見せたいものがあるんだ」
彼はそう言うと、機械から刷り上がったばかりの一枚の紙を手に取って見せた。そこには、私の文字と寸分違わぬ、しかしどこか無機質な文字が並んでいた。
「これが、僕の故郷で異端として弾圧され、この国に持ち込んだ『活版印刷』という技術だ。手作業の写本よりも、はるかに大量の本を作ることができる……あなたの目には、まだまだ稚拙に見えるかもしれないが……」
彼は隣国で、この革新的な機械技術を魔法至上主義の権力者たちに疎まれ、全てを捨てて亡命してきたのだと語った。追放されたも同然の身の上だった。
彼の言葉を聞きながら、私の視線は壁の写本に吸い寄せられていた。
「あなたの文字は、機械では再現できない魂を持っている。一つ一つのインクの滲みや、線の揺らぎに、書き手の息遣いが感じられるんだ」
彼は心からの尊敬を込めて言った。
「だが、この技術は、その魂を千、万の人々に届けることができる。限られた者だけでなく、誰もが知識を手にできる時代が来るんだ」
その情熱的な言葉に、私の心は激しく揺さぶられた。ふと、手にしたままだった侮辱の証――『初級魔法の教本』に目を落とす。こんなもの、何の価値もない。ライオネル様はそう言って、私を貶めた。
しかし、ヴィクトルはその本を覗き込み、目を輝かせた。
「これは……! 素晴らしい。貴族には当たり前の本かもしれないが……魔法を志しながらも、高額な教材に断念する者が平民には多いんだ。これこそ、僕たちの技術で多くの人に届けるべきだ。セシリア嬢、これは侮辱の証なんかじゃない。無限の可能性を秘めた『原盤』だ!」
原盤――その言葉が、絶望の底にいた私の心に、一筋の強い光を射し込んだ。そうだ、これは終わりではない。ここから、私の、私達の物語が始まるのだ。
◇ ◇ ◇
翌朝、王立魔導書院の司書から私を解任する旨の手紙が届いた。後任には、聞いたこともないメリッサという名前の女性がつくことも知った。おそらくライオネル様の新しい婚約者だろう。一朝一夕の知識と経験で、司書や写本師の仕事が務まるとは思えないが……もっとも、いまの私にとっては関係なく、むしろ好都合だった。
その日から、私とヴィクトルの挑戦が始まった。私はこれまでの身分と役職を忘れて、彼の「シルバーブランチ工房」に通い詰めた。
最初の仕事は、『初級魔法の教本』を書き直した原稿を作ること。初級とはいえ魔法の入門書は、古代語で書かれている。これでは、読み書きすらままならない平民には敷居が高い。現代語に翻訳し、文体も平易なものに改める。
「ヴィクトル。分かりにくいところは図解を、親しみやすいものにするために挿絵を入れられないかしら?」
「活版では文字以外のものは印刷できないんだ……かといって、挿絵師に依頼していては費用もかかるし、なにより時間がかかって大量生産の足枷になる……」
ヴィクトルは、職人街を駆けずり回り、木版職人の協力を取り付けた。活版印刷以前の技術ではあるが、それゆえ熟練の職人も少なくない。なにより費用は安く抑えられ、大量生産という意味でも活版印刷と相性が良かった。
伝統的な写本の知識と、革新的な印刷技術の融合。それは、常識の違いを乗り越える、困難だが刺激的な作業だった。寝食を忘れ、インクと機械油の匂いが混じり合う工房で、私達は来る日も来る日も議論を重ね、試作を繰り返した。
しかし、私達の挑戦は、周囲から理解されるものではなかった。司書ギルドや写本師ギルドの古い仲間たちは、私を「手仕事の伝統を機械に売り渡した裏切り者」と非難した。貴族社会では、「婚約破棄されて落ちぶれ、平民の仕事に手を染めた令嬢」という陰口が、面白おかしく囁かれていると風の噂に聞いた。
降りかかる冷たい視線と心ない言葉に、孤立感を深める日もあった。本当にこれで良かったのだろうか。私の選択は、長年築き上げてきた写本師としての誇りを汚すだけではなかったのか。迷いが生じるたび、ヴィクトルは私を力づけてくれた。
「君の助力がなければ、この事業は絶対に始まらなかった。君は何も裏切っていない。むしろ、知識の価値を、これまでとは違う形で世界に広めようとしているんだ」
彼の真っ直ぐな言葉が、私の心を支えてくれた。
そして数えきれないほどの試行錯誤の末、ついに最初の試作品が完成した。手にした一冊は、私が手掛けた写本が持つ手書きの温もりと、印刷ならではの均整の取れた美しさを両立させていた。指でなぞれば、そこには確かに、私が込めた魂の息遣いが感じられる。
「……綺麗」
思わず漏れた言葉に、ヴィクトルが深く頷いた。
「ああ。君のおかげだ、セシリア」
困難を共に乗り越える中で、私達の間には、仕事のパートナーというだけではない、強い信頼の絆が芽生え始めていた。
私達は完成した本に、『万民のための初級魔法教本』と名付けた。高価な魔導書など夢のまた夢だった人々にも、魔法という知識の扉を開いてほしい。そんな願いを込めて。
身分を隠し、職人街の片隅にある市場で試験的に販売を始めた。初めは、誰も見向きもしなかった。「平民に魔法の教本だと?」と、通りすがりの貴族からは嘲笑の声も聞こえた。しかし、状況はすぐに一変する。
「おい、この本、信じられないくらい安いぞ!」
「しかも、めちゃくちゃ読みやすい! これなら俺でも魔法が使えるようになるかもしれない!」
これまで魔法書など手にできなかった平民や、わずかな金で危険な依頼をこなす冒険者たちの間で、教本は瞬く間に評判となった。その圧倒的な安さと質の高さが、知識に飢えていた人々の心を鷲掴みにしたのだ。
用意した百冊は、わずか半日で完売した。初めて手にした利益を二人で分け合い、工房でささやかな祝杯をあげる。硬い黒パンと安い葡萄酒だったが、王宮で飲むどんな高級なシャンパンよりも美味しく感じられた。
「やったな、セシリア!」
「ええ、ヴィクトル!」
グラスを打ち付け、私達は笑い合った。これは、ほんの小さな一歩に過ぎない。しかし、私達のやっていることが、確かに世界に求められているのだという確かな手応えが、そこにはあった。革命の狼煙は、静かに、しかし力強く上がったのだ。
『万民のための初級魔法教本』の成功を足掛かりに、私達の事業は急拡大を遂げた。個人経営の工房では追いつかなくなり、私達は「シルバーブランチ出版」を設立。工房の名前の由来となった、窓辺に立つ一本の白樺の木にちなんだ社名だ。
私は経営者として、そして編集者として、新たな才能を発揮し始めた。写本師として培った鑑識眼は、次にどんな本が求められているかを見抜くのに役立った。薬草学の入門書、基本的な読み書きを教える教科書、そして、誰もが楽しめる大衆向けの物語。私達が出版する本は、次々と人々の心を掴んでいった。
読み書きなど貴族のたしなみであり、平民には無縁の存在。そういった大衆の認識が変化していく様を、肌で感じる。街行く人々の多くが、活版印刷の本を片手に持っている。職にあぶれた魔法使いや下級貴族が、読み書きを教える私塾の看板を掲げる。講義に使う教本の需要が増せば、シルバーブランチ出版の収益に直結した。
ある日、王立アカデミー受験者のレベルが目に見えて上がっている、と昔の仕事仲間が教えてくれた。司書ギルドと写本ギルドは、この事業の有益性にいち早く気付き、もはや批判の声を上げることは無くなった。逆に、私の後任であるメリッサ嬢がろくに写本も蔵書整理もせず、たまに顔を出しては嫌味ばかりを言って帰っていく、と不満を聞かされた。
自分の仕事が、単なる金儲けではないことに、私は気づき始めていた。これは、一部の権力者や富裕層に独占されてきた「知識」を、全ての人々の手に取り戻すための戦いなのだ。その大きな意味と使命感に、私の胸は熱く燃えた。
もちろん、私達の成功を快く思わない者もいた。
「シルバーブランチ出版だと? あの落ちぶれたセシリアが、平民と組んで始めた商いか。実に不愉快だ」
ライオネル様と、今や彼の婚約者となったメリッサ嬢の耳にも、私達の評判は届いていた。嫉妬に駆られた二人は、公爵家の権力を使って、製紙ギルドに圧力をかけ始めた。シルバーブランチ出版への紙の流通を停止させるという、あまりに見え透いた嫌がらせだった。
しかし、今の私はもう、無力な令嬢ではない。まずは冷静に家族に事情を説明した。いままで静観に徹していた伯爵でもある父は、流通停止を撤回するよう製紙ギルドに圧力をかけ返した。ヴィクトルは、隣国にいたころの人脈を駆使しして、国をまたいで活動する商人から当座の印刷用紙を仕入れた。職人街の仲間たちは、自主的にインクや機械部品をかき集めて、提供してくれた。
これらを元手にして、私とヴィクトルはライオネル様の横暴を新聞という形で告発した。有力貴族間の根回しという旧来のやり方とは全く異なる、大衆への訴えかけに元婚約者は対抗手段を持たなかった。
結果としてライオネル様の妨害は、私達の結束をより強固なものにして、平民の知識への渇望をより高めただけだった。大衆の直接抗議が殺到して、製紙ギルドは流通停止の撤回を公に宣言せざる得なくなった。
この一件を通して、私は過去の自分――公爵家の権威に怯え、ただ耐えるだけだった自分と、完全に決別することができた。私は私の足で立ち、私の知識とスキルで、未来を切り拓いていくのだ。
シルバーブランチ出版の功績は、やがて王宮をも動かすことになる。私達が出版した安価で質の高い教本や実用書は、国民の識字率と魔法レベルの向上に大きく貢献している、と。その功績を称えるという名目で、私とヴィクトルは、王家主催の夜会に正式に招待された。
◇ ◇ ◇
因縁の場所。しかし、もう何の恐れもなかった。ヴィクトルと二人で仕立てた新しいドレスは、インクの匂いではなく、自信という名の香りを纏っていた。
会場で私達の姿を見つけたライオネル様は、憎々しげな顔で近づいてきた。その隣で、メリッサ嬢が扇の陰で勝ち誇ったように微笑んでいる。
「何のつもりだ、セシリア! 平民を連れて王宮に乗り込むとは、どこまで恥を晒せば気が済むのだ!」
その時、国王陛下が私達に気づき、穏やかな声で話しかけられた。
「シルバーブランチ出版の二人か。君たちの功績は、我が国の未来にとって大きな光となっている。実に見事だ」
国王陛下直々の賞賛の言葉。それに嫉妬と焦りを掻き立てられたライオネル様は、信じられない言葉を叫んだ。
「お待ちください、陛下! その事業は、元々私のアイデアだったのです! それを、この女が! セシリアが私の功績を盗んだのです!」
見苦しい虚言が、静まり返った会場に響き渡った。
全ての視線が、再び私に集中する。しかし、あの日のような同情や嘲りの色はない。皆が、私の次の言葉を待っていた。
私は静かに、あの日ライオネル様が私に投げ渡した一冊の本――今や歴史の転換点となった『初級魔法の教本』を、衆前に提示した。それは出版の原点として、私がずっと大切に保管してきたものだった。
「ライオネル様。あなた様はこの本を、『慰謝料代わりのガラクタ』として私にお与えになりましたわね。それも、王立魔導書院の仕事仲間の前で……逆に言えば、証人はいくらでもいるということ。試しに二、三人ほど呼び出して、どちらの言い分が正しいか尋ねてみては?」
私の静かな声が、広間に響く。
「この本の価値を見出すことができず、私への侮辱の証として投げ捨てたのは、他の誰でもない、あなた様ご自身です。価値なきものから価値を生み出したのは、私達の知識と技術に他なりません。あなた様のアイデアなど、どこにも介在する余地はございませんでした」
完璧な論理による反論に、ライオてネル様は言葉を失い、顔を真っ赤にして立ち尽くす。彼のアイデアを盗んだのではなく、彼が捨てたガラクタから黄金を生み出したのだと、全ての者が理解した。その愚かさと器の小ささが、満天下に晒された瞬間だった。
王家からも正式な称賛を受けた私達に対し、虚偽の申告で王家を欺こうとしたライオネル様の家は、その立場を大きく失うこととなった。これ以上ない、知的で静かな、しかし決定的な勝利だった。
夜会の喧騒が嘘のように静まり返ったバルコニーで、私は夜風に火照った頬を冷ましていた。隣には、いつの間にかヴィクトルが立っている。
「見事だったよ、セシリア」
「あなたのおかげよ、ヴィクトル。あなたが、あの本の価値を教えてくれたから」
私達はしばらくの間、言葉もなく星空を見上げていた。心地よい沈黙を破ったのは、ヴィクトルだった。
「セシリア」
真剣な声で、彼は私に向き直った。
「僕は、君という素晴らしい『本』に出会えた。その最初のページをめくった時から、もう夢中なんだ。僕が知らない知識、僕にはない強さ、そして、誰にも真似できない優しさ。ページをめくるたびに、新しい魅力が見つかる」
彼のまっすぐな瞳が、私を捉える。
「これからは、事業のパートナーとしてだけでなく、人生のパートナーとして、あなたの隣で同じ未来を描きたい。僕の人生という物語の、最後のページまで、君と共に歩ませてほしい」
それは、今まで聞いたどんな言葉よりも誠実で、温かい告白だった。私の心を満たしていたインクの香りが、彼の機械油の香りと溶け合い、今まで知らなかった、とても心地よい香りになるのを感じた。
「──亡命者である僕と伯爵令嬢である君とでは、身分が釣り合わないかもしれないが」
「いいえ。今度は私があなたに報いる番。私が責任をもって、家族を説得して見せるわ。国王陛下のお墨付きも得たし、父もあなたの仕事を認めている。絶対に大丈夫」
私は、彼の両手をとる。ヴィクトルの嘘偽りのない言葉を、静かに、そして力強く受け入れた。
◇ ◇ ◇
それから数年後。
シルバーブランチ出版は、王国で最も大きな出版社へと成長した。私たちの後に続くように多くの出版社が産まれ、出版ギルドが結成された。もちろん私たちの会社がギルド筆頭を務めている。
いまや魔法書や実用書だけでなく、歴史書、詩集、そして子供たちのための絵本まで、多種多様な書籍が刊行されて、人々の生活と文化を豊かに彩っている。
私の手元には、美しい活字で組まれた新しい本の草稿が置かれている。かつてインク臭いと蔑まれた私の指先は、今、この国の未来を紡ぐ無数の物語を生み出している。
工房の窓から差し込む柔らかな光の中で、私とヴィクトルは、次の出版計画について笑顔で語り合っていた。彼の指には、私と同じデザインの指輪が光っている。
実は、シルバーブランチ出版のロングセラーには『万民のための初級魔法教本』と並んで、もう一つある。私とヴィクトルの出版事業立ち上げをモチーフにした大衆向け小説だ。会社の規模が大きくなった際、私たちの最初の一歩を忘れないために作り上げた記念碑的作品だ。
どのような物語か気になる? 実は、あなたが読んだこのお話こそが、その作品なのです──




