第二十九話 「蒼月の余光」
――黒雲を裂く月光の下、戦場を覆っていた咆哮と悲鳴は唐突に途切れた。
巨躯の魔将デュランが崩れ落ちると同時に、彼に従っていた無数の魔物たちが一斉にうめき声をあげ、狂ったように後退を始めたのだ。
それはまるで、心臓を失った肉体が急速に死へ向かっていくかの光景だった。
戦場に立ち尽くす兵士たちは、その異様な光景をただ呆然と見守る。
あれほど猛り狂っていた怪物の群れが、統率を失った瞬間に瓦解する――その姿は、恐怖よりも虚しさに近い余韻を残した。
やがて誰からともなく歓声が上がる。
「勝った……! 我らが勝ったぞ!」
それは震える声であり、泣き声にも似ていた。
ジンは力を使い果たし、その場に膝をついた。
握る蒼月刀はなおも淡く輝いていたが、刃の主はもう立ち上がれぬほど消耗しきっていた。
血と汗に濡れた顔を上げ、夜空に浮かぶ月を仰ぐ。
そこに映る光は、彼にとって勝利の証であり、同時に背負った犠牲の象徴でもあった。
イレーネはただちに残存兵をまとめ、瓦解しかけた隊列を再編しつつ負傷者の救助へと走った。
その瞳は冷静に光っていたが、心中では別の波が荒れ狂っていた。
(……よくぞ勝った。だが、代償はあまりに重い)
彼女の視線の先で、各将が次々と血に塗れたまま崩れ落ちていく。
銀牙シン、炎剣フェルノート、雷槌ザラッド、そしてシュイエンとシア――いずれも命こそ繋いでいたが、戦場に立ち続けられる状態ではなかった。
猛将たちが倒れ伏す姿は、兵士たちにとって戦勝の実感よりも深い痛みを刻むものだった。
ユナはジンの無事を遠目に確認すると、震える足で星羅のもとへ駆けた。
「……星羅っ!」
彼女の声は涙に濡れていた。
星羅は血に濡れた鎧の下で、辛うじて息をしていた。
全身はひどく裂かれ、脈は弱い。
ユナは涙を拭う間もなく両手を彼女にかざす。
「――《聖光魔法〈ホーリーヒール〉》!」
柔らかな光が星羅の体を包む。
けれどもユナ自身も限界に近かった。
魔力は底を尽きかけ、視界は暗転と光明を繰り返す。
それでも彼女は両手を離さない。
「お願い……戻ってきて……! 星羅……!」
何度も光を紡ぎ直す。
声は嗄れ、涙は頬を伝い続ける。
やがて、かすかな声が返ってきた。
「……ユナ……お姉さま……?」
瞳がわずかに揺れ、星羅の唇が震える。
「おかげで……なんとか生き残れました。……ありがとう」
その微笑みを見た瞬間、ユナの胸から堰を切ったように嗚咽があふれた。
「よかった……! 本当によかった……!」
ユナは泣きじゃくりながら彼女を抱き締める。
星羅はその細い腕の中で静かに頷き、再び意識を沈めていった。
少し離れた場所でそれを見ていたセリスは、ふっと表情を和らげる。
「……これで少しは救われるかしら」
彼女は次々と倒れていく武将たちに手をかざし、光の術を編みながらも、ユナと星羅の姿に目を細めていた。
ザラッドは担がれながらも、その光景に涙を浮かべる。
「……ユナ殿と星羅殿が……生きている……。それだけで……」
その声は、あの豪胆な猛将のものとは思えぬほどかすれていた。
セリスは思わずくすりと笑った。
「ふふ……あの猛将が涙を見せるなんて。やっぱり人の心は、誰もが同じなのね」
フェルノートは炎に焼かれた鎧を脱ぎ捨てながらも、息絶え絶えに言った。
「……生き残ったことが奇跡だ。ジン殿と……ユナ殿に感謝せねば」
シンはその隣で、血に濡れた拳を握りしめたまま、ただ無言で空を睨み続けていた。
やがて戦場に残る炎が収まり始めると、彼らは辛うじて隊を整え、故国リュクス・ヴェルトへの帰還を開始した。
道中は苦難の連続だった。
重傷者を抱え、わずかに残った兵を引き連れ、ようやく国境を越えたとき、誰もが涙を流した。
本国に到着すると、ただちに医療班が待機しており、瀕死の将たちは次々と収容された。
暗黒の傷は普通の治癒魔法では癒せず、ユナの聖光魔法が唯一の拠り所となった。
ユナは休む間もなく術を使い続けた。
自らも疲労困憊で倒れそうになりながら、重症の仲間たちに光を送り続ける。
「……お願い……皆さんを助けたいの……!」
その必死の願いに応えるように、光は何度も蘇り、仲間たちの体を修復していった。
治療は一週間にも及んだ。
シンは包帯の下でようやく拳を握れるようになり、ザラッドは笑えるほどに回復した。
フェルノートは剣を振れるまで持ち直し、シュイエンとシアも命に別状はなくなった。
――だが、その回復の過程で、ユナ自身は幾度も倒れ、意識を失いかけた。
そのたびにジンと星羅が支え、彼女を守り続けた。
ある日の午後、ジンと星羅が並んで庭に出ているところへ、ユナが笑顔でやってきた。
星羅はまだ身体を動かすのが辛そうだったが、頬に血色が戻っていた。
ジンも蒼月刀を傍らに置き、静かに微笑んでいる。
ユナはその光景を見て、胸の奥からあふれ出すような幸福を感じた。
血と死に塗れた戦いを越えて、今こうして二人が生きている。
それだけで十分すぎる奇跡だった。
「……二人が元気になっていくのを見られるなんて……」
ユナは涙をこぼしながら笑った。
「こんなに幸せなことはありません」
ジンはその手を取り、星羅もまた笑顔で頷いた。
三人はただ穏やかに過ごす。
鳥の声と風の音に包まれ、戦場の喧騒など嘘のように。
――かつて死地を共にした仲間たち。
今はただ、安らぎの時を享受していた。
後にこの戦は「魔将デュラン討伐」として歴史に刻まれる。
そしてこの戦乱で瓦解した魔物の群れは各地に散り、無数の脅威として大陸に根付くこととなる。
後にその魔物を狩り、名を馳せる者たちが現れる――冒険者と呼ばれる新たな存在の誕生である。
だが今この時だけは、ユナにとって歴史の流れなどどうでもよかった。
ただ大切な仲間が笑っている。
それが、彼女の何よりの願いであった。




