第八話:英雄は戦場にて眠らず
蒼白い月が沈み、暁光が地平を染め上げる頃——ローク谷の戦は幕を下ろした。
勝者は、蒼月。
わずか数百の軍勢で、千を超える帝国軍を退けた奇跡の一夜。
しかし、勝利の祝宴など蒼月には存在しなかった。
戦に酔う者などいない。歓喜の喚声もなく、ただ静かに、負傷者の治療と死者の埋葬が行われていた。
谷を見下ろす断崖の指揮所にて、神楽ジンは野戦机の前に立ち、無言で地図を睨んでいた。
「……敵の本隊、約三千の動きは鈍っています。副将を失ったことで指揮系統が崩壊した模様」
「だが、あれは“止まってる”んじゃない。“次”を探ってるだけだ」
ジンは図上の赤い線を指でなぞりながら、口を引き結んだ。
「グランディア帝国は甘くない。このまま我らが調子に乗ることを想定して、必ず次の一手を打ってくる。……“奴”が動けば、なおさら、だ」
その“奴”という言葉に反応したのか、控えていたユナ・グレイスが一歩、進み出た。
「ジン。ひとつ、報告がある」
「……どうした」
「昨夜、西方の山岳地帯にて、帝国の遊撃隊が全滅した。——いや、厳密には“壊滅”ではない。“解体”されたように、見事に潰されたそうだ」
ジンの目が細くなる。
「ふむ……状況は?」
「現地の偵察兵によると、戦場には目立った魔法の痕跡も、大規模な兵器の使用もなし。だが、敵兵たちはほぼ一撃で沈められていた。
斬られた、というより——“舞うように切り伏せられた”。」
ユナが視線を上げる。
「私は、あれが“ミナギ”の仕業だと考えている」
その名が放たれた瞬間、指揮所に淡い緊張が走った。
ミナギ かつてはユナと一緒に活動していたが、戦乱の激化とともに消息を絶っていた。
「彼女が戻ったのなら——間違いなく、戦局は我々に傾く」
「……だが、彼女は戻るために来たわけではないかもしれない」
ジンは、懐から一通の古びた封筒を取り出した。
そこには、精緻な花の刻印があった。亜人族に伝わる古文書の文様。
「二日前……この手紙が届けられた。差出人は不明だが、文体は、あいつのものだ」
ユナはそれを受け取り、一瞥したあと、そっと息を呑んだ。
『——蒼月は、まだ戦えるか?』
その一文が、封書のすべてだった。
静寂が指揮所を支配する。
やがてジンは、机に拳を置き、深く言った。
「俺たちが“力”としてあいつを呼び戻すのではない。
あいつが、また“信じたい”と思える場所に、俺たちがならなきゃいけない」
「ジン……」
ユナの声には、かすかな憂いと、どこか安堵の色があった。
そしてその夜——
谷を抜け、再び戦場を目指す一つの影が、月下に揺れていた。
それは、風のように静かで、刃のように鋭く、しかしどこまでも気高い孤影。
その腰には、懐かしき蒼月組の紋章が、いまだ誇り高く刻まれていた。
ミナギが、戦場に戻ってくる。




