第二十三話 「ラミス谷の死闘」
湿った風が吹き抜ける。夜の帳の下、帝国軍は数万の兵を連ね、月明かりに銀の甲冑を輝かせながら進軍していた。その行軍の足音は大地を揺らし、森に潜む鳥獣を追い払う。人間の国の力、その威容を前にすれば、いかなる小国も震えずにはいられぬだろう。
先陣を率いるのは獅王剣将レオナード・クレストと、剛将ギルベルト・アッシュフォード。両将は武勇において帝国五剣将の筆頭を争う猛者であり、その威風は兵の士気を大いに鼓舞していた。
「あと半日でミストラル砦だ」
レオナードが馬上から前方を見据え、口を開く。その横顔は月光を浴び、獅子の如き威厳を放っている。
「皇帝陛下は火急の勝利をお望みだ……足を止めるな」
ギルベルトが大斧を肩に担ぎ、獰猛な笑みを浮かべる。
「承知。前衛を任された以上、俺らが血路を拓かねばなるまい」
だが、その街道は不気味なほどに細かった。両脇には鬱蒼と茂る森林が迫り、列は蛇のように長く伸びていた。兵たちの間にざわめきが広がる。異様な静けさが続く森──それこそがセイリオンの仕掛けた罠であった。
◆
闇に潜む影。鎧黒ユズハンは伏兵の先頭に立ち、低く声を放つ。
「火矢、放て!」
次の瞬間、無数の火矢が夜空を裂き、狭隘な街道へ降り注いだ。油を染み込ませ仕込まれていた木々と藪が一斉に爆ぜるように燃え上がる。炎は瞬く間に壁となり、夜を朱に染めた。
「火だ! 火計だ!!」
帝国兵が悲鳴を上げ、後衛の兵は炎に阻まれ足止めされる。前衛は燃え盛る炎に押し出されるように進むしかなく、混乱の気配が広がっていた。
レオナードは鋭い眼差しで炎を見据え、歯噛みした。
「……仕方ない、進むぞ! ここで止まれば全滅だ!」
ギルベルトが斧を掲げ、兵を怒鳴りながら先へと誘い込む。
「進めぇ! 怯むな! 俺たちを信じろ!」
だが、彼らは気づかぬ。谷へ誘い込まれるその道こそ、セイリオンの罠であった。
ユズハンは炎に包まれた森を背に、冷ややかに頷く。
(これで時間は稼げる……次は玄武だ)
彼は茂みに姿を隠し、合図の旗を待った。
◆
谷の中腹。岩壁の上に立つセイリオンは、冷徹な眼差しで帝国の先鋒を見下ろしていた。松明の炎を反射する瞳は氷のごとく澄み、感情を一切映さない。彼にとって兵は駒、勝利こそが全てであった。
「……いまだ」
旗が振られる。その瞬間、谷の後方から轟音が響き渡った。巨盾を掲げた玄武ガロウが姿を現し、猛虎の如き咆哮を放つ。
「この谷は通さん!」
ガロウは全軍を率いて帝国後方に突撃。地を揺るがすその進軍に、帝国兵たちは驚愕し、悲鳴を上げた。
「なに!? 伏兵だと!」
レオナードが振り返り、血相を変える。
その頭上から、岩と大木が雨のように降り注ぐ。矢の嵐が続き、悲鳴が谷を満たす。崖上からの攻撃を指揮するセイリオンは、冷酷に呟いた。
「今のところは、うまくいってるな。」
◆
烈炎カンロウが吠える。
「今だ!突撃しろー、我が烈火の牙を受けよ!」
炎を纏った大剣を掲げ、鋒矢の陣を組んだ部隊を率いて正面から突入する。その炎は兵の列を薙ぎ倒し、前衛は地獄に叩き込まれた。鉄と炎の衝撃に、兵士たちはなすすべなく倒れていく。
レオナードは必死に剣を振るい、ギルベルトも大斧を振り下ろす。
「退くな! 俺たちで道を開け!」
しかし、前後左右から押し寄せる敵に、士気は急速に崩壊していった。
◆
一方、後方で炎を突破したヴァルド・ディーゼルと焔月の軍勢が谷へ到着する。彼らが目にしたのは、既に修羅場と化した戦場だった。
「急げ! 玄武を討て!」
焔月の命で後軍が突進し、ガロウを包囲する。無数の槍と剣が彼の部隊を押し潰そうと迫った。
その瞬間、セイリオンの旗が再び振られる。
「方円陣に組み換えよ!」
ガロウは咆哮を上げ、全軍に命じる。
「耐えろ! ここが死地だ!」
盾が重なり合い、円陣が築かれる。
《玄武甲殻》
全身を覆う魔力障壁を展開し、物理・魔法ダメージを軽減する。
鉄壁の守りは幾度も衝撃に揺れたが、崩れなかった。矢と血潮が雨のように降り注ぐ中、ガロウは巨盾を掲げ続けた。身体は切り裂かれ、鮮血が流れ落ちても、決して膝を折らなかった。
「まだだ……まだ我らは屹立している!」
その声が、兵たちの心を奮い立たせる。死地にありながらも彼らは戦い続けた。
◆
そのタイミングで、背後に突如としてユズハンの軍が現れた。
「今だ! 突撃せよ!」
《鎧黒戦術眼》
戦況を見抜き、敵将や部隊の弱点を即座に見破る洞察能力。発動すると、敵の陣形の穴を味方に共有し、集中攻撃を指示できる。ろ
鋭い槍撃が帝国後軍の背面を切り裂く。悲鳴と怒号が響き渡り、帝国兵は四散していく。焔月の隊は大混乱に陥り、統率は完全に失われた。
ヴァルド・ディーゼルは盾槌を構え、焔月を庇いながら後退戦を展開する。
「退け! 旗を守れ!」
幾度も致命の刃が焔月に迫ったが、その全てをヴァルドが防ぎ切った。だが、その代償は大きかった。彼の鎧は裂け、血が溢れ、ついには膝をついた。
「ヴァルド!」
焔月が叫び、彼を抱え起こしながら必死に退路を切り開く。血に染まった背中が、戦場の混沌を切り裂いていった。
◆
谷の中央では烈炎カンロウが火炎の大剣を振るい、レオナードとギルベルトを圧倒していた。剣と斧が火焔に打ち砕かれ、轟音が戦場を揺るがす。
《炎獄連爪》
燃え盛る大剣を連続で繰り出す近接連撃技。
「くっ……こいつは化け物か!」
ギルベルトが血を吐きながらも斧を振り抜く。だが、その力は炎にかき消されていった。
そこへ月影ミナギが影のように滑り込み、双刃で二人を翻弄する。
「この刃から逃れられると思うな」
帝国両将は互いを庇い合い、必死に突破口を探した。剣戟と炎、影の舞が交錯する中、深手を負いながらも、彼らは辛くも谷を突破し、退却することに成功した。
◆
戦の喧騒が遠ざかる頃、ようやく後方からアウルス皇帝と軍師グレンが到着した。彼らの目に映ったのは、燃え残る谷と屍の山であった。
「……見事だ。これほどまでにやられるとは」
アウルスは冷ややかに呟く。その声に怒気も悲嘆もない。ただ、戦の結果を淡々と受け入れる冷酷な覇王の声音だった。
「またもやセイリオンか! 姑息な策を……!」
グレンの悔しげな叫びが谷にこだまする。彼の拳は震え、燃え上がる憎悪がその眼に宿っていた。
◆
戦が終わり、ミストラル砦に帰還した蒼月軍。兵たちは歓声を上げた。だが、その中心に立つ玄武ガロウの姿は血に塗れていた。彼は死地を守り抜き、なお生きて帰還したのだ。
「玄武よ、よくぞ耐えた」
セイリオンは深く頷き、全軍の前でその功を称えた。
烈炎カンロウも炎の如き笑みを浮かべ、拳を掲げる。
「よくぞ踏みとどまったな、さすがだ! その胆力こそ、我らの誇りだ!」
仲間たちも口々に彼を讃え、兵たちの眼は熱を帯びていた。ガロウは静かに微笑み、やがて倒れ込む。命は繋がったが、その傷は深い。担がれる彼の姿は、勝利の象徴であり、血に刻まれた誓いであった。
こうして蒼月軍は大勝利を収めた。だが、これは始まりにすぎぬ。帝国の覇道は止まらず、戦火はますます拡がろうとしていた。




