第二十二話 「ミストラル砦の策謀・セイリオンの知略」
その頃、蒼月国の最前線──ミストラル砦。
分厚い石壁の中、軍議の間には松明の炎がゆらめき、武将たちの影を荒々しく壁に映していた。卓の上には広げられた地図。その中心に立つのは、冷徹な眼差しを持つ男、蒼月の軍師セイリオンである。
月影・ミナギが報告を終えると、場の空気は一層重く沈んだ。帝国軍は敗戦を重ねてもなお勢いを失わず、この砦を目指して進軍している。圧倒的な国力差を思い知らされるたび、武将たちの胸には焦燥が走る。勝ち目はあるのか──誰もが心中で問わずにいられなかった。
だが、セイリオンは微動だにせず、口元に冷ややかな笑みを浮かべる。
「……正面からぶつかれば我らは潰される。ならば、近づく前に削り取るまでだ。血を流させ、恐怖を刻みつける」
低く響く声は、妙に愉快げですらあった。居並ぶ将たちの胸に、不思議な熱が芽生える。恐怖の中にあった心が、戦場を描き出す彼の言葉で塗り替えられていく。
「ユズハン」
呼ばれた鎧黒・ユズハンは、即座に膝をつき、頭を垂れる。その獅子の瞳には、すでに戦場の炎が映っていた。
「はっ!」
「敵軍の行軍路に、細い街道がある。両脇は鬱蒼たる森。油を仕込み、奴らの半ばが通り抜けた瞬間に火を放て。進むしかなくなった前衛は、必ず混乱する」
ユズハンの口元にわずかな笑みが刻まれる。
「……なるほど。後衛は取り残され、時間差が生まれるわけですな。承知しました。敵を背後から断ち切る好機となりましょう」
セイリオンは頷き、指先を地図の谷に滑らせる。その眼差しは、もはや敵軍の未来を見透かしているかのようだ。
「前衛が谷に差し掛かった時──玄武・ガロウ」
「はっ!」
巨躯の虎獣人、ガロウが重厚な声を発し、膝を折った。その背筋から漂う威圧感は、他の誰よりも戦場の重みを知る者のものだった。
「伏兵として後方から急襲せよ。奴らが振り返る刹那、私は崖上から岩と丸太を落とし、弓兵に射掛けさせる」
武将たちの胸に、戦場の絵図がありありと浮かぶ。地鳴りのような混乱、悲鳴、怒号。セイリオンの声には冷徹さと同時に、勝利の確信めいた響きがあった。
「そして、混乱の最中──烈炎・カンロウ!」
「おうとも!」
炎の鬚を揺らし、クマ獣人のカンロウが吠える。巨腕を振り上げるその姿は、焔そのものの猛りを纏っていた。
「正面から叩き伏せ、焼き尽くしてくれるわ! 奴らの悲鳴が聞こえるのが待ち遠しいわい!」
その豪胆な声が場を震わせ、空気は一気に熱を帯びる。武将たちは、己の胸に潜んでいた恐怖が、次第に闘志へと姿を変えていくのを感じた。
「よい。前衛は壊滅するだろう。しかし、やがて後衛が追いついてくる。その時だ、ガロウ」
セイリオンの視線が再び巨躯の武将に向かう。
「貴様の役目は死地。最も危うき場所に立ち、我らの陣を守れ。私の合図で方円の陣に組み換え、前後からの圧力に耐えよ」
ガロウはわずかに目を閉じ、深く息を吐いた。その心に去来したのは、死の影ではなく、戦士としての誇りだった。
「……心得た。死地こそ、我が望むところ。屍を積み上げてでも、陣を支えよう」
その言葉に、場の空気が震える。誰もが、彼の決意に胸を打たれた。重圧を背負う覚悟を示したその姿に、恐怖はもはや消えていた。
そして、最後にセイリオンの視線がユズハンへ戻る。
「ユズハン。ガロウが死地を支えるその瞬間、貴様は魚鱗の陣を組み、敵後衛の背を突け。退路を断ち、奴らを袋の鼠と化せ」
ユズハンの唇がわずかに吊り上がる。戦術家としての血が騒ぐのを隠せなかった。
「ふむ……逃げ場を与えぬ一撃か。良い。背骨を噛み砕くように、奴らを仕留めてみせよう」
軍議は終わり、静寂が場を満たした。重苦しいはずの沈黙の中に、不思議と熱があった。圧倒的兵力を誇る帝国軍を前にしても、セイリオンの策を胸に抱けば、不思議と勝利の幻影が浮かぶ。
武将たちは互いに視線を交わす。恐怖と不安に押し潰されそうだった心が、いまや闘志に変わっていた。セイリオンの冷徹な笑みは、彼らにとって冷酷さ以上のもの──戦場における確かな信頼の象徴となっていた。
己が背を見れば、不思議と「勝てる」と思えてしまう。愚かであろうと、策の糸に導かれれば、その先に光があると信じられた。
こうして、ミストラル砦の夜は更けていく。やがて訪れる血戦を前に、武将たちの胸には、ただ一つの決意が灯っていた。




