第十一話 「幻影の策」
夜襲の失敗から一夜。
影鎌のネイア・エルミルは、重い足取りでルミナ・ヴェールの塔に戻ってきた。
鎧の留め具を外す手は震え、視線は床に落ちたままだ。鎌の刃先には、未だ焔月との交戦で付いた赤黒い汚れがこびりついている。
「……申し訳ありません」
エリオット・グランディの前で、ネイアは膝をついた。
普段の鋭さは影を潜め、言葉も掠れていた。
しかし、エリオットは首を横に振る。
「戦は常に勝てるわけではない。お前が戻っただけで、まだ手はある」
その声は静かで、感情を大きく揺らさない。だが、瞳の奥には次の一手を探る光があった。
翌朝——塔の外に帝国軍の旗が翻った。
先陣には、狂犬ヴァン・ドルグと焔月の姿がある。
ヴァンは甲冑の肩を鳴らし、大声で吠えた。
「そんな所に籠ってないで、出てきて勝負しろやぁ!」
その侮辱的な叫びに、シア・フレイナールが眉をひそめ、ネイアの拳が音を立てて握られる。
先日の雪辱を胸に、刃を抜きたい衝動が走る。
だが、エリオットの声が冷たく響いた。
「黙ってやらせておけ。お前たちが暴れる時は、必ず来る」
帝国軍は塔の守兵が出てこないと見ると、攻城兵器を前に押し出した。
投石機の巨石が唸りを上げて飛び、塔の外壁に衝撃を刻む。しかし、その瞬間——砦の地面一帯が淡く輝き、強力な魔法陣が展開された。
重い石弾は途中で力を失い、城壁に当たる前に砕け散る。突撃する兵もまた、体に鉛を抱えたように鈍り、矢を受けて倒れた。
高台からその様子を見ていたグレン・リヒトとラウル・フェルナンドは、言葉を交わさずとも同じ結論に至っていた。
「このままでは落ちぬな」
「ええ、魔法陣をどうにかせねば」
捕虜となった敵の斥候が本陣へ引き立てられると、グレンは静かに手をかざした。
紫の光が斥候の瞳に宿り、抵抗の色が消えていく。
「本体は塔の中……だが、左右後方に発動を補助する装置がある。二つとも壊せば、魔法陣は大幅に弱体化する」
ラウルは頷き、軍配の骨を鳴らした。
「その拠点は守りも薄いようだな」
「だが、こちらの動きが読まれれば、本陣を突かれる」
グレンは口元に笑みを浮かべた。
「私が幻影を作ろう。偽りの兵を前線に立たせてやれば、城兵も容易には動けまい」
作戦は即座に動き出した。
幻影の兵たちは実体を持たずとも、旗を翻し、武器を掲げて戦意を演じる。その背後では、ヴァンと焔月が音もなく左右の森へと分かれていった。
ヴァンは背中の大斧を握り、低く笑った。
「こういうのは、吠えるより斬る方が性に合ってる」
彼の足音は獣のように軽く、息遣いも荒くならない。
一方、焔月は赤い刀身を鞘に納めたまま、しなやかに駆けた。
「油断は敵の一番の隙」
その眼差しは、獲物を狙う蛇のように静かだ。
左右の後方拠点は、やはり警戒が薄かった。
帝国軍がここまで踏み込めるとは思っていないのだろう。
ヴァンが先に吠え、敵兵の意識を自分に集める。
「おらァッ!」
大斧が唸りを上げ、一撃で木製の柵を粉砕する。
焔月はその背後で影のように滑り込み、指揮官の首元に刃を走らせた。
血飛沫が夜気に溶け、拠点の中心に悲鳴が響く。
両者の動きは一瞬だった。拠点はみるみる制圧され、発動補助装置は破壊された。
同時に、もう一方の拠点でもヴァンの咆哮と炎の斧が火花を散らし、制圧が完了する。
その瞬間——塔を囲む魔法陣が不規則に脈動し、光が弱まった。
エリオットの眉が僅かに動く。
「しまった……やられたか」
遠くからその光景を見ていたグレンは、満足げに口角を上げた。
「これで奴らの塔は弱体化した。次は——落とす番だ」




