第八話 「星を託す日」
あの日から、ユナは感情を押し殺して生きていた。
蒼月組の総長としての職務は、いつも通り冷静に、そして的確にこなしている。戦場の地図を前にすれば、声色ひとつ変えずに指示を下す。部下たちも「総長は何も変わっていない」と思うだろう。
だが、心の奥底では――二人のことが、どうしても消えなかった。
笑い声も、怒った顔も、背中を預け合った戦場の熱気も、すべてが鮮やかに蘇っては胸を締めつける。
戦の夜明け前、共に剣を研ぎながら交わした他愛もない会話。傷を負った時、無理に笑って見せた顔。あの全てが、もう二度と戻らない。
それを理解しているからこそ、ユナは心に壁を作り、涙の行き場をなくしていた。
――自分は、また誰かを失うのか。
その恐怖は、戦場の槍よりも鋭く胸を抉っていた。
ジンも同じだった。
口に出しては言わないが、その瞳はときおり遠くを見つめて曇る。
自らが下した采配――派遣する将を誤った判断が、二人を死なせた。あの瞬間、自分の中の何かがひび割れ、そこから後悔という名の毒が流れ込み、心を蝕み続けている。
彼は戦場で誰よりも冷徹であろうと努めてきた。だが、その冷徹さを形作っていた自負や自信は、あの喪失で脆く崩れた。
「もっと良い手があったはずだ」という声が、眠れぬ夜に何度も耳の奥で響く。
その声から逃れるように、ジンは戦術の書を読み返し、盤上で駒を動かし続けた。だが答えは出ない。死者は、どれほど盤面を並べ替えても生き返らない。
だからだろうか。
気づけば、二人は同じ屋根の下で暮らすようになっていた。
慰めあうためでも、逃げるためでもない。
ただ、お互いの沈黙を分かち合い、支え合って生きるために。
戦場で背中を預けてきた二人が、今は日常の背中を預け合っていた。
ユナは、愛するジンとの生活は何事にも勝る薬だったかもしれない。
そんなある日、セリーナがユナに手合わせを申し出た。
「総長、槍の稽古でもどうです?」
唐突な誘いにユナは最初、訝しげに眉をひそめた。
だが、槍を握った瞬間――手の中に伝わる重みと冷たさが、不思議と胸の中の重苦しさを少しだけ溶かしていくのを感じた。
セリーナは、何も説明しなかった。ただ黙って槍を構え、間合いを詰めてくる。その一突き一突きは、鋭くも温かい。
稽古を重ねるうち、ユナは気づいた。セリーナは戦いを教えるのではなく、戦いを通して息をさせてくれていたのだ。
槍を振るう時間は、余計な思考を押し流す。刃先に集中している間だけは、過去の記憶も痛みも遠のく。
――この人は、わかってくれている。
その笑顔を、ジンも静かに見守っていた。
彼にとっても、ユナが少しでも表情を和らげる姿は救いだった。
しばらくして、ユナのもとを訪ねる客があった。
セイリオンである。
扉を開けた瞬間、彼の背後に立つ一人の黒髪の少女が目に入った。
年の頃は十代半ば。しかしその瞳は、年齢以上の覚悟と闘志を湛えていた。
「ユナ、この子を弟子にしてやってほしい」
「……弟子?」
「戦災孤児だ。見かねて私が預かっていたが、武将の才がある。軍略と剣は教えたが、魔法陣の展開や槍術、さらに心の鍛え方はお前が適任だ」
ユナは息を呑んだ。
教えれば、戦場に立たせることになる。
そして戦場は、時に容赦なく命を奪う。リョウカとレンゲのように――。
「……同じことを、また繰り返すかもしれない」
低くつぶやいたその声は、自分でも驚くほど弱々しかった。
だが、少女はその言葉を否定するでもなく、真正面から受け止めた。
一歩踏み出し、深々と頭を下げる。
「ユナお姉さま、どうか……どうかよろしくお願いします」
その声には、震えと、それを押し殺す強い意志があった。
迷いはあった。だが、その真剣な瞳に、かつて自分が失った仲間たちの面影が重なる。
断れるはずがなかった。
「……わかった。私が教える」
こうして、少女――星羅はユナの弟子となった。
これはセイリオンなりの配慮でもあった。
弟子を育てるという新しい役割が、ユナを過去の痛みから少しでも遠ざけるだろうと考えたのだ。
セイリオンは戦場だけでなく、人の心の戦い方も熟知している。ユナの強さと脆さを、誰よりも理解していた。
星羅は驚くほど早く、ユナの生活に溶け込んだ。
訓練の時は厳しく、だがそれ以外の時間はまるで本当の親子のように寄り添った。
買い物にも連れて行き、休みの日には川辺で釣りを教えたり、時には料理を二人で作ったり――そんな時間の中で、ユナは星羅の笑顔に癒やされていった。
時折、星羅の真っ直ぐな眼差しに、リョウカの快活さやレンゲの誇り高さを重ねてしまう自分がいた。
その度に胸が痛むが、同時に「今度こそ守る」という決意が強くなる。
ジンもまた、星羅を我が娘のように可愛がった。
夜になると戦術や陣形の組み方を教え、盤上の駒を動かしながら未来の戦場を思い描かせた。
「戦は力だけじゃ勝てない。心と頭を鍛えろ」
その言葉には、自分が犯した過ちを星羅に繰り返させまいという願いが込められていた。
星羅は真剣に耳を傾け、駒を動かす度に少しずつ成長していった。
三人で暮らす日々は、穏やかで、温かかった。
笑い声が家に響き、食卓を囲む時間は戦乱の世を忘れさせた。
セリーナも時折訪れ、食後に軽い稽古をつけたり、星羅の質問に答えたりした。
セイリオンも、遠征の合間にふらりと顔を見せ、無言で盤面を覗き込み、星羅に戦略の問いを投げかける。
――その全てが、束の間の平和を紡ぎ出していた。
だが――その平穏が長く続くことを、時代は許さなかった。
戦火は再び広がり、遠くの空に赤い光が昇る。
その日が近づいていることを、三人とも心のどこかで感じていた。
ユナは槍を握る手に力を込め、ジンは盤面の駒を見つめ、星羅は唇を噛んだ。
それぞれが、近づく嵐の足音を聞いていた。
避けられぬ運命として、静かに――だが確実に、その扉が叩かれようとしていた。




