第一話 「奪還の凱歌 ユナの祈り、セリーナの選択」
無明砦の戦いから、三日が過ぎていた。
勝利の余韻は確かにあったが、蒼月軍の本陣にはそれ以上に、ひとつの重い空気が漂っていた。
――神楽ジンが目を覚まさない。
戦場で《蒼月刀・真顕》の力を解き放った彼は、戦いの終結とともに意識を失い、以来ずっと深い眠りについていた。
医療班は命に別状はないと告げていたが、戦場の将が数日も目を覚まさないとなれば、部下たちの不安は募るばかりだった。
その中で、ユナは一度もジンの傍を離れなかった。
軍議にも最低限しか顔を出さず、食事もほとんどこの部屋でとる。
ベッドの脇に座り、ただ静かに彼の寝顔を見守り続ける姿は、蒼月組総長としての鋭さとはまるで別物だった。
「……また、夢の中で戦ってる顔」
額に落ちた髪をそっと指先で払い、ユナは小さく微笑む。
戦場での彼は、誰よりも冷静で、そして時に無謀なほど味方を守ろうとする。
それが危ういことも、胸を締め付けるほど誇らしいことも、どちらも痛いほどわかってしまう。
彼女は自覚していた。
この感情は、ただの戦友への敬意ではない――もっと、深い。
しかし、それを口にすれば、自分も彼も、背負うものが重くなる。
だから、ただそばにいることでしか、伝えられなかった。
四日目の朝。
夜明け前の薄明かりが差し込む頃、ジンの指が小さく動いた。
ユナは息を呑み、身を乗り出す。
「……ユナ、か」
掠れた声。だが確かに、彼の瞳が開かれていた。
「ジン!」
次の瞬間、ユナの顔がぱっと花開くように輝いた。
その笑顔は、これまで誰も見たことがないほど柔らかく、温かかった。
クールな指令官としてしか彼女を知らない天将たちが、その場にいたならきっと目を丸くしただろう。
「良かった……本当に、良かった……」
言葉にならない安堵が、声の端々からこぼれる。
ジンはその様子を見て、微笑んだ。
「……心配、かけたな」
「……ええ。だから、これからは少しは自分の身体を――」
そう言いかけて、ユナは唇を噛み、視線を落とす。
ジンは何も言わず、その手を軽く握った。
それだけで、十分だった。
ジンが起き上がれるようになって二日後、彼はひとつの部屋を訪れた。
そこは簡素だが頑丈な造りの、監視付きの客室――囚われの身となったセリーナ・エリュシオンが収容されている場所だった。
扉を開けると、ベッドの上で佇むセリーナがいた。
包帯で巻かれた肩と脇腹、薄い病衣の上からでも分かるほどの怪我の深さ。
彼女は窓の外を眺めており、ジンが入ってきてもすぐには気づかなかった。
「……生きていたか」
ジンの声に、セリーナはゆっくりと振り向いた。
その瞳には驚きよりも、疲れと諦めが滲んでいた。
「命だけは……あの医療班と、あなたのおかげね」
「助かったのは、あんた自身の力もある」
ジンは部屋の中央に歩み寄り、彼女の正面に腰を下ろした。
セリーナは視線を逸らし、小さく笑った。
「私を殺しに来たのかと思ったわ。敗軍の将に情けをかける理由なんてないでしょう」
「そういう理由で来たのではない」
ジンの声は柔らかかった。
「どうしたいか、聞きに来た。本国に帰りたいなら手続きをする。ここで暮らしたいなら、それでもいい」
セリーナの眉が動いた。
「……それは、どういう意味?」
「俺は、ただ皆が幸せに、種族で差別されない国をつくりたい。それだけだ」
その言葉はあまりに真っ直ぐで、逆に胸に刺さった。
この男は、敵の将である自分をも見捨てないのか――。
セリーナの中に、混乱と同時に奇妙な温もりが広がっていく。
「……すぐに返事はできないわ」
「いい。答えは急がなくていい」
ジンは立ち上がり、扉へ向かう。
去り際、セリーナは思わず呼び止めた。
「……どうして、そこまで?」
ジンは振り返り、淡く笑う。
「戦場で会った時、お前は命を懸けてまで仲間を救った。それが答えだ」
そのまま部屋を出て行く背中を、セリーナは長く見送った。
この頃、天将七傑たちもそれぞれの胸中で、戦の終わりと次の嵐を感じ取っていた。
銀牙のシンは鍛錬場で拳を振るいながら、あの帝国の剣将レオナードとの再戦を思い描く。
「……次は、勝つ」
シュイエンは毒霧の調整をしながら、ジンとユナの距離感に微笑ましさを覚える自分に苦笑していた。
レンゲは遠い山村で、ひたすら刃を研いでいた。
心にあるのは、取り逃がした獲物――レオナードとギルベルト。
「必ず、この手で決着を」
月明かりに光る刀身は、まるでその誓いを刻むように冷たく輝いていた。
ジンは医務室の窓辺に立ち、外の夕焼けを見つめていた。
その背後でユナがそっと近づき、並んで空を見る。
「……行くんでしょう、また」
「ああ」
「危険な道でも?」
「……それでも、行く」
ユナは少しだけ唇を結び、それから静かに微笑んだ。
「なら、私も一緒に」
ジンはその横顔を見て、ほんのわずか目を細めた。
それは戦友としてではなく――想い人を見る目だった。




