序 「奪還の凱歌」
ミストラル砦を覆っていた黒煙は、ようやく消えつつあった。
夜明けの光が、戦いの傷跡を白々と照らす。
砦の中では、鉄の鎖を断ち切られた獣人たちが、震える声で互いを呼び合っていた。
涙に濡れた目で空を仰ぐ者、倒れた仲間の肩を抱き締める者、ただ静かに息をつく者――そこには、生き延びたという安堵と、失われたものの痛みが混ざっていた。
砦を解放したのは、銀牙のシンとシュイエン、そして総指揮官セイリオンだった。
セイリオンは血の滲んだ手甲を外し、遠くに霞む山並みを見やった。
「……終わったわけじゃない。ここからだ」
その声は静かだったが、近くにいた兵士たちは無言で背筋を伸ばした。
彼の背には、奪われた領土を取り戻した誇りと、それを再び守らねばならぬ責任が重くのしかかっていた。
ラミス平原の奪還は、それから間もなく行われた。
ジンの密使によって連携が取られていた蒼月軍は、残敵を包囲殲滅し、かつて帝国の旗が翻っていた丘に再び蒼月の月旗を立てた。
その光景を見たユナは、槍の柄に手を置いたまま、胸の奥にじんわりと熱を感じていた。
「やっと……取り戻せた」
だが喜びと同時に、セリーナとの戦いで見せたジンの姿が頭をよぎる。
彼が無理をしていたこと、そして自分の心の奥底に芽生えた感情を、まだ言葉にはできなかった。
蒼月の宮廷では、戦後処理が急速に進められた。
奪還した領土は全て蒼月のものとせず、協力してくれたリュミエル連邦にも分配された。
玉座の間で領土分配の報が読み上げられたとき、使者として来ていたリュミエルの使節は深く頭を下げた。
「これほどの誠意、必ずや我らの盟友として……」
その言葉に、蒼月の重臣たちも安堵の息をつく。
今後の同盟関係は、表向きは盤石となった。
だが、その裏で何人かの将は、帝国との戦がまだ終わっていないことを肌で感じていた。
奪ったのはあくまで一部の領土。敵の牙は、依然として鋭く光っている。
一方、帝国側では――
レオナードとギルベルトが本国に戻ったのは、まさに奇跡に近かった。
無明砦からの撤退戦は壮絶を極め、兵士たちは血路を開くために命を投げ出した。
レオナードは馬上で深く息を吐く。
彼の胸中には敗北の痛みと、仲間を失った悔しさ、そしてなお燃える闘志が同居していた。
「……借りは返す」
その言葉は誰にも聞こえないほど小さかったが、彼の眼光は炎のように鋭かった。
ギルベルトは沈黙していた。
普段は快活で豪放な彼も、この戦いでは多くを失い、容易に言葉が出なかった。
ただ、城門をくぐった瞬間に頭を下げ、無事を祈ってくれた民の顔を見て、胸の奥に刺さっていた棘が少しだけ和らいだ。
そして、行方を見失ったレンゲは――
ラミス平原の遠く、山間の村で一人、刃を研いでいた。
その動きは静かだが、研ぎ石に当たる金属音は怒りと悔しさを刻んでいるようだった。
(逃した……あの二人を)
彼女にとって、レオナードとギルベルトは倒すべき的であると同時に、自らの力を試すべき存在でもあった。
それを取り逃がしたことは、戦場での敗北以上に悔しかった。
「次は……必ず」
月明かりに照らされた刃が、まるで誓いのように冷たく光った。
戦は終わった。だが、誰もがそれを「終わり」とは思っていなかった。
獣人たちが解放され、蒼月の国力は増し、同盟国との絆も深まった。
しかし、帝国もまた息を潜め、次の一手を探っている。
戦場で流れた血は乾き、火は消えたが、灰の下ではなお火種が燻っていた。




