第十八話 「魔将への報償」
グランディア帝国・王城謁見の間。
金箔をあしらった天井には壮麗な戦勝画が描かれているはずだったが、この日、その輝きは薄く、漂うのは誇りではなく重苦しい緊張だった。
高い柱が林立し、磨き上げられた床には、沈黙という名の影がじっと座していた。
「……よもや、連邦領の一割を奪うとはな」
白髪の老臣マルキスが、唸るような低声で言った。その瞳は鋭いが、その奥に潜むのは警戒と不安だった。
「だが、奴は味方ではない。いつ牙をむくか分からぬ魔将に、大きな褒美を与えるなど……」
若き将ギルベルト派の貴族が、すぐさま反論する。
「しかし、戦果は紛れもなくあやつの手によるものです! 報奨を渋れば、今度は我らにその牙を向けるでしょう」
その声は確信に満ちていたが、裏腹に手は小刻みに震えていた。
議論は徐々に熱を帯び、やがて怒声が飛び交い始める。
互いに「国を守る」という大義を掲げながら、その実、目は恐怖と猜疑に濁っていた。
そして――。
重厚な扉が、突風に煽られたかのように開かれた。
一瞬で室内の空気が冷たくなり、まるで真冬の荒野が押し寄せてきたような錯覚に襲われる。
「……おお、これはこれは。王とその家臣たちが、我の褒美について語らっておる最中か」
低く響く声が広間を満たす。
《天を裂く魔将》――デュラン。
鋼のように整った輪郭、紅く光る瞳。その奥には底知れぬ闇が潜み、鎧の隙間からは黒い霧がゆらめいていた。
魔気は床を這い、絨毯を黒く染めるかのようで、近くの侍従が呼吸を忘れたように口を押さえる。
玉座の上で皇帝アウルスは、ほんのわずかに肩を震わせた。
彼は若き日に幾多の戦場を渡り歩いた猛将だったが、今、この一人の魔将の前では、血が凍るような圧迫感に抗えなかった。
背中を伝う汗が、衣の内で冷たく広がっていく。
「報酬は……いかほど頂けるのだ?」
デュランの口元には笑みが浮かんでいる。しかし、その笑みは氷の刃のように冷たく、見る者の心を刺し通した。
広間に沈黙が落ちる。
老臣たちは互いに視線を交わし、若き貴族たちは喉を鳴らす。
わずかに間を置いて、皇帝は唇を震わせながら言った。
「……奪った連邦領の一割を、そのままそなたに与える。加えて……帝国領の一割も、割譲しよう」
その言葉に、広間がざわめきで揺れた。
「な、何をおっしゃるのです陛下!」
「帝国領を、魔将ごときに――!」
声が重なり、怒号となり、やがて不満と恐怖の渦に変わる。
デュランはその騒ぎを楽しむように視線を巡らせ、片手を上げて宙をなぞった。
次の瞬間、黒い稲妻が走り、空気が爆ぜた。
反対の声はぴたりと止まり、全員が息を潜める。
「……満足だ」
短く告げ、デュランは黒霧と共に姿を消す。
残された者たちは、嵐の通り過ぎた森のように呆然と立ち尽くしていた。
「国土を二割も失うなど前代未聞だ!」
「陛下は何をお考えなのだ!」
「だが、拒めば我らは皆殺しにされていたぞ!」
怒りと恐怖が入り混じり、やがて罵声と弁解が交錯する。
しかしその議論には、もはや解決策も救いもなかった。
その報せは、やがて戦場に散らばる五剣将の耳にも届く――。
帝国西方・野戦陣地。
夕暮れ、血と鉄の匂いが漂う中、ギルベルト・アッシュフォードは無言で戦斧を磨いていた。
早馬からの報告を受けると、無造作に地面へ斧を叩きつけ、獣の咆哮にも似た怒声を上げる。
「……二割だと? 二割も魔将にくれてやっただとぉぉ!」
その声は陣幕を揺らし、周囲の兵士たちの顔色を奪った。
ギルベルトの瞳は燃え盛る炎のようだったが、その奥には、決して今は刃を向けられない相手への苦渋が滲んでいた。
北方では、雷槍のセリーナが報を聞き、深く息を吐く。
「……陛下の決断、理解はできる。けど……納得はできない」
握る槍の柄がわずかに軋み、石突きが土を抉る。
彼女は冷静沈着な将として知られていたが、内心では誇りを踏みにじられた屈辱が渦巻いていた。
「次は……あの魔将と肩を並べるのではなく、槍先を向ける時だ」
南方の砦では、盾槌のヴァルドが険しい顔で報を聞く。
「……今は感情よりも前線だ」
短くそう呟き、再び盾の手入れを始める。
だが、その胸中では冷たい計算が進んでいた。
――あの魔将が帝国の敵になる日、その時こそ全ての戦力を集中し、首を取る。
他の将たちも、口には出さずとも同じ思いを抱いていた。
屈辱と怒り。
それでも、今は刃を鞘に収めねばならない。
デュランが大人しくしている間に、今は蒼月国とリュミエル連邦への戦いを続けねばならない。
ギルベルトは最後に、空を睨みつけて唸った。
「……いいだろう。今は従ってやる。だが、いつかあの魔将の首、必ず俺が……!」
帝国全土に噂は広がり、兵士たちの間にも不満が燻った。
だが、その火を表に出すことは誰一人としてできなかった。
天を裂く魔将は、いまや帝国の二割を手中に収めた。
戦場の空気は、怒りと恐怖と猜疑を押し殺したまま、さらに張り詰めていく。




