第十六話 「雷と光、帝国の背へ(前編)」
帝国軍の主力が蒼月方面に注がれている隙を突き、リュミエル連邦は一手を打った。
蒼月国との同盟を固めるため、そして帝国の勢いを削ぐため――六耀将の中でも随一の武力を誇る雷槌の豪傑、ザラッド・ヴォルケーンと、光杖の聖女ルミナ・セリスが選ばれた。
「なぁセリス、今回は遠慮なしでいいんだな?」
雷鳴のような声で笑い、巨槌を肩に担ぐザラッド。その顔は猛獣のように獰猛で、しかしその瞳の奥には、戦いを渇望する炎と共に、わずかな憂いが揺れていた。
「ええ。帝国の背を叩くのが私たちの役目。躊躇えば、逆に呑み込まれる」
ルミナは静かに応じる。彼女の白金の髪は陽光を受け、薄い光の幕のように揺れていた。
二人の部隊は山間の獣道を縫い、敵の予想外の背面へと食い込む。帝国にとってこの方面は「攻められるはずがない」と高をくくっていた場所。守りは薄く、わずか二日で補給拠点を二つ陥落させ、三日目には帝国領の深奥に到達していた。
「見ろ、帝国の旗だ! 燃やし尽くせ!」
ザラッドの号令と共に巨槌が振り下ろされる。轟音が谷を震わせ、城柵は一撃で崩れた。
続くはルミナ。光の剣が輝き、白い閃光が矢のように走り、敵の騎兵を次々と射抜いた。
守備隊長は呆然と「早すぎる……」と漏らし、帝国兵は戦意を失って退路を求めた。
だがその鮮やかすぎる戦果は、逆に敵の中枢に届くのも早かった。
――帝都。
作戦会議の間では報告に怒号が飛び交っていた。だが一人、帝国軍師グレンだけが沈黙し、やがて口を開いた。
「……この局面、通常の兵力では間に合わぬ」
「何を言うか! 我らが精鋭が……!」
「非常手段を取るほかありません」
重苦しい沈黙ののち、地図に赤い印が打たれた。そこは帝国ですら口にすることを避けてきた名――魔将デュランの駐屯地だった。
翌日。
ザラッド隊の斥候が震えながら戻り、「ただならぬ騎影」を報告した。
ルミナが空を見上げる。遠く、黒い砂煙を巻き上げ、疾駆する漆黒の騎影。
その背に立つ巨躯の男。
青銀に光る剣が陽を弾き、空気ごと戦場を圧迫していた。
「……やはり来たわね。帝国が切り札を」
「はっ、面白ぇ!」
ザラッドの口元が大きく歪む。だがその心臓は、不意に重く沈む。
彼は武人である。強者と戦えることに歓喜する。しかし同時に知っていた。相手は人の域を越えた存在。勝てるかどうかではなく、「生き残れるかどうか」さえ定かではない。
それでも退くという選択肢は、最初から彼の胸にはなかった。
作戦はただ一つ――デュランを殺すのではなく、罠に誘い込み、足止めすること。
ルミナは古代遺跡の谷に魔法陣を仕掛けた。見えぬ光の陣は、踏み入れた者の生命を徐々に蝕む。
「……あの魔将が罠に足を踏み入れるかが勝負ね」
ルミナの声は冷静だが、心臓は早鐘を打っていた。彼女は知っていた。自分の魔法が絶対ではないことを。罠はあくまで一時の足止めにすぎない。
「入らなかったら?」ザラッドが問う。
「……その時は、全力で時間を稼ぐ」
彼女は瞳を閉じた。覚悟を胸に。
二人の視線が交わる。言葉はいらない。
そして――黒馬が嘶き、魔将デュランが戦場に降り立った瞬間、空気は変わった。
その存在感だけで兵たちの膝が震え、声が凍りつく。遠く離れた者でさえ、胸を圧迫されるほどの覇気。
ザラッドは巨槌を握り直し、己の鼓動を静めた。
(これが……魔将か)
豪胆を装いながら、胸の奥に冷たい恐怖が滲む。だがその恐怖を力に変えるのが武人の矜持。
「来い……天を裂く魔将!」
雷鳴のように吠えた。
デュランの視線がゆっくりと二人を射抜く。
その瞳は深い闇に青白い光を宿し、すべてを無に帰す冷酷な意思だけを映していた。
「……下らぬ蟻どもが」
低く響いた声は、地を伝って兵たちの心を凍らせた。
ルミナの喉がわずかに震える。恐怖ではない。だが心の奥に、理屈を超えた「抗えぬ死の予感」が芽生えていた。
(負けるかもしれない……それでも、立たなければ)
彼女は光の剣を掲げ、魔法陣を発動させる。光が走り、谷全体に罠が展開される。
同時にザラッドが咆哮し、雷槌を振り下ろした。大地が裂け、雷鳴が轟く。
デュランは動かない。ただ剣をわずかに傾けただけで、その一撃を空ごと断ち切った。
火花と衝撃が走り、ザラッドは血を噴きながら後退する。
(重い……! この剣圧は人のものじゃねぇ!)
しかし罠がじわじわと効き始めていた。デュランの呼吸が一瞬だけ鈍る。
その隙を、ルミナが見逃さない。光の矢が降り注ぎ、黒き甲冑に突き刺さる。
「チッ……小賢しい」
デュランが吐き捨てる。
ザラッドは再び槌を構える。腕は痺れ、肺は焼けるようだった。
それでも立つ。武人の矜持が、彼を押し上げる。
(俺が死んでも……この時間で連邦は動ける……!)
ルミナもまた、自分の寿命を削る覚悟で魔力を注ぎ続ける。
恐怖を押し殺し、ただ一人の男の背を守るように。
デュランは一歩、また一歩と迫る。そのたびに兵たちは逃げ惑い、空気が潰されていく。
――そして、三者の視線が再び交わった。




