第十四話 「炎の牙、迫る」〈前編〉
帝国先鋒、レオナード・クレストは、血と埃に塗れた甲冑の重みを全身に感じながら、本陣へと戻ってきた。
一歩進むごとに脛の鎧がきしみ、乾ききった血がひび割れて剥がれ落ちる。背中に背負った大剣は、数え切れぬほどの斬撃を受け、刃はところどころ欠けていた。
従う兵たちもまた、誰一人として無傷の者はいなかった。
肩で息をする歩兵、矢を抜いた痕から血を滲ませる騎兵、馬を失い肩を落とす従卒。視線は虚ろで、敗北の影が濃く刻まれている。
幕舎の前に立つ男の影が、そんな彼らの行軍を静かに迎えた。
「……戻ったか、レオナード。」
五剣将の一人、ヴァルド・ディーゼル。
黒鉄の鎧に覆われた巨躯は山のように動じず、その眼差しは冷たいが、咎めの色はない。ただ戦況を見極めようとする軍人の鋭さが宿っていた。
レオナードは視線を合わせぬまま、唇を噛んで吐き捨てる。
「くそ……奴ら、完全にこちらの動きを読んでやがった。伏兵に挟まれた瞬間、後ろの地面が揺れるような気配がしてな……あれは、罠だ。」
言葉と同時に、片膝をつき、血と泥に汚れた地図を地面に広げた。
指先で示されたのは、蒼月軍が三方向から矢のように突き出す攻撃線。赤く引かれた線は、まるで鮮血が紙に滲んだように生々しい。
ヴァルドはその線を見つめ、わずかに眉を寄せた。
「兵の損耗は?」
「……歩兵の三割が動けぬ。騎兵は半分が落馬、あるいは馬を失った。」
その数字が告げられた瞬間、幕舎内の幕僚たちは小さく息を呑んだ。
帝国軍にとっても、この規模の損害は軽くない。次の一戦を決める上で、兵力の穴は致命的な意味を持つ。
ヴァルドは短く頷き、低く響く声で命じた。
「すぐに兵の補充を要請する。早馬を王都へ。」
書記官たちは慌ただしく筆を走らせ、兵站官は補給経路の再編に取りかかる。地図の上で駒が置かれ、動かされるたび、緊張が幕舎を満たしていく。
レオナードは唇を深く噛み、拳を固く握った。
脳裏には、戦場で見たあの女の姿が焼き付いている。猫のような耳、しなやかな体躯、血の中でも笑みを絶やさぬ戦鬼の眼。
「次は必ず仕留める……あの猫女、名を……レンゲと言ったな。あいつの首、必ずこの手で――」
怒りと憎悪が燃え上がろうとした瞬間、それを遮るように幕舎の外から足音と息切れが近づく。
「報告! 東方の関門方面にて、五剣将ギルベルト様の部隊が出撃!」
幕僚たちがざわめき、空気が一変した。
ギルベルト・アッシュフォード――帝国随一の猛将。その戦斧は炎を纏い、一撃で敵陣を粉砕することで知られる。戦場に現れれば、それは守る者にとっての終焉の合図だった。
レオナードはわずかに目を細め、低く呟く。
「……奴は待てと言っても突っ込むからな。」
言葉とは裏腹に、その瞳には猛りの光が宿っていた。獲物を追う獣のように、勝利を求める飢えが滲んでいる。
──一方、東方の関門。
山肌をくり抜き、巨岩を積み上げて造られた天然の要塞。
外壁は陽光を浴びてもなお冷たく、そこから睨む兵たちの視線は鋭い。
見張り台に立つのは、漆黒の全身鎧を纏った蒼月軍天将七傑の一人、鎧黒・ユズハン。
隙間から覗く眼は常に前方を射抜き、何者の接近も許さぬ冷徹さを帯びている。
その隣には、若き武将リョウカがいた。
彼の頬には戦場を夢見る少年のような笑みが浮かび、口元は自信に満ちている。
「なあユズハン殿、あの程度の兵数なら俺が出て行って一突きで片をつけてやる。」
低く、しかし棘のある声でユズハンが返す。
「馬鹿を言うな。籠城して守り抜き、連邦の援軍を待つ。それが勝ち筋だ。」
「待つなんて性に合わねぇ! 戦功は先に動いた者のものだろう?」
二人の視線がぶつかり、互いの性格と信念が火花を散らす。
外からは太鼓の重低音が響き、地面がわずかに震えている。風が焦げた匂いを運び、遠くには炎の揺らめきが見え始めていた。
ユズハンはそれを見て、唇を引き結ぶ。
(来たか……あの炎。ギルベルト・アッシュフォード。奴と正面からやり合えば、門は長くはもたぬ……)
だが隣のリョウカは違った。
炎を見て血が沸き立ち、指先が槍を求めてうずく。
(これだ……この瞬間を待っていた。戦場は勝者のもの、先に名を挙げるのは俺だ!)
次の瞬間、彼は地を蹴った。槍を構え、城門を突破して外へ飛び出す。
「おい、待てリョウカ!」
ユズハンの怒声が背中に響くが、若き武将は振り返らない。
関門の外では、砂塵を巻き上げながら迫る炎の戦斧が、陽光を反射して眩く輝いていた。
その持ち主――ギルベルト・アッシュフォードの瞳には、猛りの光が宿り、炎の牙が獲物を喰らわんと唸りを上げていた。




