第一話:蒼月、目覚める
夜の図書館は、静寂に包まれていた。
天井から吊られた照明が鈍く机を照らし、ページをめくる音だけが時間の流れを物語る。
神楽 陣は戦史書のページをめくりながら、思索に耽っていた。
大学の図書室、その奥の閲覧席。誰も寄りつかないような軍略関連の棚を選び、彼は今日も「戦い」に取り憑かれるように文字を追っていた。
「戦術は、命のやり取りにして、最も“冷静”な論理だ……か」
独り言のように呟いたその瞬間――
風もないのに、ページが一斉に捲れた。
空気が重くなり、視界が歪む。
「……っ!? な、に……」
光。鼓膜を裂くような振動音。足元が崩れ、世界が反転する。
──そして、意識が途切れた。
◆
(……死んだ? いや、これは――)
目を覚ました陣の目に飛び込んできたのは、広大な草原だった。
青空がどこまでも広がり、空気は澄みきっている。だが、何かがおかしい。
肌に感じる風の匂い、草の感触、どれもが“現実”離れしていた。
「ここは……どこだ?」
スーツは消え、代わりに見知らぬ軽装と剣帯を身に着けている。スマホも財布も消えていた。
まるで“異世界もの”の物語のようだ、と彼は苦笑する。
だが、笑っていられたのはそこまでだった。
「動くな」
背後から、鋭く低い声。気配に振り向けば、そこにいたのは――
白銀の髪、鋭い虎の耳。威風をまとった女性獣人だった。
彼女は、まるで戦場に生きる獣のように、目を細めて彼を見下ろしていた。
「貴様……何者だ? 人間か。それとも“放逐された騎士”か」
「……いや、俺は神楽 陣。日本人だ。……って言っても、通じないか」
「“ニホン”……聞いたことがない名だ」
女性の名はユナ・グレイス。
彼女はこの世界において、差別と迫害を受ける亜人種族の一員、“白虎獣人”だった。
「このあたりは帝国領の外縁。人間が一人でいるなど、ありえん場所だ」
「……だったら、俺は異常者ってことで納得してくれ」
そう言っても、ユナは剣を抜こうとはしなかった。むしろ警戒の中にある“迷い”に気づいた陣は、あえて背中を見せ、地面に腰を下ろす。
「ここがどこなのかも分からない。でも――君が敵じゃないことくらいは分かるよ」
「……妙な奴だな。だが、害意は感じん」
ユナは警戒を解き、彼に干し肉と水を手渡した。
こうして、陣の“異世界での最初の夜”が始まった。
◆
数日後、陣は自分の身体に“何か”が宿っていることを実感する。
亜人たちの感情の流れを、微かに感じ取れる。気配の変化、殺気の波動。
戦いにおいて、それは「読める」というより「感じ取れる」レベルの危機察知だった。
それと共に、夢の中で見た不思議な言葉が現実味を帯びる。
《スキル【獣王ノ血脈】発動条件達成──》
突如、脳裏に浮かぶ文字。
スキル? まるでゲームのような響きだったが、確かにその力は“本物”だった。
――その時、彼はまだ知らなかった。
このスキルが、後に数多の戦場を変える“蒼月の覇者”たる資格であることを。
◆
夜空の下、焚き火を囲む二人。ユナがぽつりと語った。
「この世界は、力が支配している。私たち亜人は、“異形”として帝国に虐げられてきた。だが、誰もがそれに抗う力を持っているわけじゃない」
「でも、君は抗ってる」
「私は、仲間を……守れなかったからな」
彼女の瞳に浮かぶのは、静かな怒りと、深い悔恨だった。
「ジン。お前がここに来た理由は分からない。だが、もしもお前に戦う意志があるなら、私は歓迎する」
「戦うよ。まだ何も分からないけど――ここで見たもの、感じたもの、見過ごすつもりはない」
焚き火がはぜる音が、夜の静寂を裂いた。
異世界に降り立った青年と、獣人の女戦士。
この出会いが、後に大陸を揺るがす革命の始まりとなることを、まだ誰も知らなかった。