24 ふと立ち止まるそのとき
その日、私は一人でお茶を飲んでいた。
午後の王妃教育が終わったので、お気に入りの中庭テラス席でティータイムを過ごしているのである。
私が教師達に囲まれている間に、アイリス姉さまは今後のマグネリア王国とヴィンセント王国の関係や嫁入りに関して話があるということで、国王夫妻やマイケルと会談をしていた。終わったらこのテラス席に来るといってたけれども、辺りにアイリス姉さまらしき人影はない。おそらくまだ終わっていないのだろう。
そう思っていたところ、遠くに見える東棟の三階の窓が開いた。
垣間見える白い腕、そこから現れたのはアイリス姉さまだ。
きょろきょろと中庭を見回した後、私を見つけた彼女は、嬉しそうに手を振っている。
アイリス姉さまは私の心臓を爆発させるつもりなのだろうか。
キュン死しそうな胸の高鳴りを押さえて、私が手を振り返したところ、アイリス姉さまの後ろからマイケルが現れた。
マイケルに何か言われて、アイリス姉さまは不満そうにしている。おそらく、アイリス姉さまは貴賓なので、念のため、他国であるヴィンセント王国で窓際に立たないよう注意されたのだろう。
その後、マイケルとアイリス姉さまはこちらにもう一度手を振り、楽しそうに談笑しながら窓を閉めてその場を離れていった。
「……」
アイリス姉さまは数日前にやってきたばかりだというのに、ずいぶんとマグネリア王国になじんだものだ。
あんなにもマグネリア王国の男性を怖がっていたというのに、なぜその意見を翻したのだろう。
しかも、アイリス姉様の態度が変わったのは、来国した翌日のことだ。前日は、怖くて眠れないアイリス姉さまのために、添い寝までして付き合ったというのに、見解が変わるのが早過ぎはしないだろうか。
(アイリス姉さまの様子が変わったのは、ミゲル殿下にお会いして失神した後のことなのよね。一体何があったのかしら)
あの徹夜明けの日、アイリス姉さまは挨拶と見舞いのため、第二王子ミゲルの私室をマイケルと共に訪問していた。そして、その場で極度の眠気により失神したそうだ。
(あのアイリス姉さまが、マグネリア王国の男性の前で意識を失うだなんて)
アイリス姉さまはマイケルとミゲルに心配されただけだと言っていたけれども、もしかして、何か呪術的な要素のある言葉を投げかけられたのではないだろうか。
だって、アイリス姉さまは鋼鉄のおパンツを身に着けてしまうほどマグネリア王国の男性に恐れおののいていたのだ。
その気持ちを覆すなんて、さぞかし大きな心の変化をもたらす事件があったに違いない。
ちなみに、この件について私はメルヒオールに相談したのだけれども、彼は「自分の胸に聞いてみるといいよ」としか言ってくれなかった。私の初めての人間のお友達は、とてもドライなのである。
(自分の胸に聞く。自分で考えろってことよね?)
アイリス姉さまが、マグネリア王国の男性への恐怖をなかったことにするほどの出来事。
若い女性である姉さまが、男の人への好感度を上げるような事件。
愛する妹である私にも言えないような、大きな気持ちの変化。
(……恋?)
ハッと私は顔を上げる。
先ほど、マイケルとアイリス姉さまは仲睦まじくしていた。
もしかして、そういうこともあるのだろうか。
ドッと冷や汗があふれてくる。
どくどくと波打つ鼓動が、気持ちが悪くてしょうがない。
(アイリス姉さまが、恋? マグネリア王国の人に。……王子に? でも、そんな……)
ぐらぐらと地面が揺れているような気がする。
アイリス姉さまが、マグネリア王国の男性に、王国の王子に、恋をしたとしたら。
この国に嫁ぐことがアイリス姉様の幸せなのだとしたら――。
私は一体どうしたらいいのだろう。
この婚姻は、マイケルが企てたものだ。
その目的は、マグネリア王国とヴィンセント王国の友好。
だとしたら、嫁ぐ王女は一人でいいはずだ。
ヴィンセント王国第二王妃ミラベルは、王太子である第一王女アイリスをマグネリア王国に嫁がせることを推していた。
第一王女アイリスが隣国に嫁ぐことを望まず、呪われた第三王女ヴィオレッタが身代わりを望み、国王ヴィルクリフが強く後押ししたから、第三王女の輿入れが決まった。
けれども、第一王女アイリスが隣国への輿入れに乗り気になったら?
(私、じゃない。私じゃなくなる。私じゃ、なくなったら)
アイリス姉さまがマグネリア王国に嫁ぐことになったら、きっと第二王妃ミラベルは喜ぶことだろう。
ヴィンセント国王ヴィルクリフは、どうだろうか。
憎い第三王女を国から出すことと、第二王妃ミラベルの要望を通すこと、どちらを取るのだろう。
アイリス姉さまが拒絶したことによって、『第三王女の輿入れ』に傾いていた国王ヴィルクリフの天秤は、どちらに傾くのだ。
(……いえ、大丈夫。アイリス姉さまが他の国で幸せな結婚をすることを、あの人は望まないはず)
国王ヴィルクリフの第一王妃クリスタに対する執念と執着と怨念が、ほとんど第二王妃ミラベルの支配下にあるといっても過言ではないヴィンセント王国の政治的勢力図の中で、第一王妃の長女アイリスの王太子という地位を存続させていたのだ。
あの国王の、アイリス姉さまへの執着は、尋常ではない。
現在、アイリス姉さまがこの国に来ていること自体が、国王の癇に障っているはず。
だから、アイリス姉さまがマグネリア王国に嫁いで、ずっとこの国にいるなんて。
まさか、そんな。
(相手がメルヒーだったら、マグネリア王国第三王子メルヒオールが、ヴィンセント王国王太子アイリスに婿入りすればいい。ミゲル殿下でも、そう。だけど……)
どうしよう。
相手がマイケル=ミゼル=マグネリアだったら、私はどうしたらいいのだろう。
王太子同士の婚約。
両方が王太子の地位を維持できるはずはなく、両国の政情を考えると、どう考えてもアイリス姉さまが王太子を降りてこの国に嫁ぐことになってしまう。
そうしたら、私は、マグネリア王国に返されることになってしまう。文字どおりの返品だ。
そして、アイリス姉さまの居ないヴィンセント王国で、私はなんの使命もなくアイリス姉さまと離れて、生涯を終えるのだ。
血の気が引いて、思考がまとまらない。
(国王に、あの人に、働きかければ)
国王ヴィルクリフに働きかければ、おそらく激高しながらアイリス姉さまの輿入れを阻止してくれるはずだ。
そう思う一方で、私の中の良心が囁く。
けれどもそうしたら、アイリス姉さまの気持ちは?
第一王妃と私の母の存在を利用して、アイリス姉さまの心を、これ以上くじいてしまっていいのか。
(…………………………………………………………)
このままでは、私はアイリス姉さまにとって必要のない女になってしまう。
それを根本的に覆さないと事態は解決しない。
事態は解決させなければならないのだ。
アイリス姉さまの視界を、思考を、あの淡い水色の瞳を、私のことで一色に染め上げなければならないのだ。
そうしないと私に生きている意味などかけらもなくて、アイリス姉さまのひとみのなかにうつるのはいつだってわたしだけでよくて、わたしいがいのひとがいっぱいうつってわたしのすぺえすがぜんぶなくなってわたしのことをぜんぶわすれてアイリスねえさまがしあわせになってしまったらわたしをこのせかいにひつようとしてくれるひとはだれもいなくて――。
(だめだめだめだめだめだめだめだめだめだめゆるさないぜったいゆるさないぜったいゆるさないぜったいにゆるさないぜったいに)
どうすればいい。
なにから壊してしまえばいいの。
わたしが、わたしでいるために。
アイリスねえさまのいちばんでいるためにはどうしたら。
――アイリスねえさまのこころを、こおらせて、シマエバ。
『君は、アイリス殿下が大好きなんだね』
「……マイク」
ふと気がつくと、私は王宮の室内にいた。
どうやら思考に耽るあまり、無我夢中でテラス席から立ち上がり、侍従侍女達を撒いた上で、王太子マイケルの寝室に入り込んでしまったらしい。
しばらくその場で立ち尽くした後、ゆっくりと息を吸った私は、周りを見渡す。
やはり、どう見てもここはマイケルの寝室だ。
先日、猫の姿で侵入したときと、基本的には変わりがない。
ただ、一箇所だけ、見覚えのない光景が広がる場所がある。
「マイケルのやつ! マイケルのやつ! 呪ってやる。呪ってやる〜!!!!」
寝室の片隅に置かれた、簡単な物書きをする机の上だ。
本が薙ぎ倒され、机上には、本の間に挟まれていたと思しき魔法画が散乱している。
魔法画に写っているのは、黒髪に紫色の瞳の肉付きのいい女――どうやら私のようだ。撮られた覚えはないのだけれども、隠し撮りだろうか。どうにもきわどい角度が多い気がする。
そして、その魔法画を踏みつけにしながら、万年筆サイズのご令嬢が、ワラ人形をどすどす殴りつけていた。
(……?)
私の存在に気が付くことなく、不穏な発言を繰り返しながら、本の背表紙を壁に延々ワラ人形を痛めつけるご令嬢。
殴られているワラ人形からは、金色の髪の毛が何本か飛び出ている。
誰の髪の毛だろう。
マイケルの毛?
「……」
私が無言で机に近づき、右手でご令嬢を掴みあげると、万年筆令嬢はギョッと目を剥いて私を見た。
深い青色の瞳と、紫色の瞳が交差する。
「……」
「……」
右手の中の温かい感触と重みが、無言で必死にもがいている。
しかし、こちらは人間サイズ、向こうは万年筆サイズだ。
その絶対的な力の差を、気持ちだけで埋めることができようか。
……ご令嬢は、できると思っているご様子だ。
…………そんなことが、本当に、できようか?
まるでチキチキと爪を立てるハムスターのようだ。
なんだか、笑いがこみあげてくる。
この無駄な抵抗を眺めていると、自分を取り戻していくような、そんな心地がする。
「……」
「……はなしてよ」
「……」
「はなして。はなしてよー!」
とくんと、心臓が波打つ。
この感情をなんと言ったらいいのだろう。
ああ、そうか。
これが――。
「加虐心……」
「喋ったと思ったら急に怖い!!!」
「あなたは何をしにここに居るの?」
「それは私があなたに聞きたいことよ!」
「お互いに聞きたいのですね。いえ、わかっています。あなたの正体について、私は既に理解しています」
「じゃあなんで聞いたのよ!?」
「様式美というやつです。それでは、正解を述べますね」
わたしはゆったりと、赤いルージュを引いた唇を弓なりに曲げる。
「――暗殺者、ですよね……」
「ちがうわよ!!!!!!」
びっくり飛び上がるようなそぶりで、私の右手の中で全身をピーン!と伸ばした万年筆令嬢に、私は微笑みを絶やさない。
「素晴らしいことです。私、この国の王太子の暗殺を、阻止してしまいました……」
「だから違うわよ!!! ちょっと嫌がらせしようとしただけ……というかその発言、誰に向かって発したらそういう言い方になるのよ!?」
「もう少し事情聴取をして、犯人グループの内情をぐちゃぐちゃにかき混ぜてから報告したら、きっとたくさんご褒美をもらえますよね」
「だから違うってば!!!!! というか、なに、ぐちゃぐちゃってなに。なに!?」
「ターゲットは王太子です。その暗殺の阻止。彼はきっと事態を解決するような、破格のご褒美をくれるはずです」
「だからなんで説明口調なのよ!!!! 誰と話をしているのよ!!!!!!」
「さあ、私の部屋に行きましょうか」
「えっ」
ご令嬢が白い顔をして固まる。
青い瞳は涙で潤み、全身がプルプルと震えて、手先が冷えているような感じがする。
なんて美味しそうな顔をするのだろう。
「それでは参りましょうか」
こうして私は、金髪に青い瞳の小さな暗殺者を、有無を言わさずマイケルの部屋から持ち帰ったのである。
ほんのちょっと一人で置いておいただけで斜め上に暴走するヴィオレッタさんはメンヘラの鏡。






