21 それでは出陣
それはそれとして、アイリス姉様は初めて、このマグネリア王国での夜を迎えることとなった。
皆での夕食を終えた私は、自室に戻った後、クローゼットの中にしまい込んでいたトランクに手を伸ばす。
黒いレースに縁どられた、秘め事を思わせる神秘的かつ悪魔的な雰囲気のあるトランクケースだ。
私はその真っ黒なトランクケースをベッドの上に移動させ、片隅に輝く金色のカギに手を伸ばす。
数字のダイヤルが四つ結合しているこれは、正しい数字を四つ組み合わせると開く仕掛けのカギなのだ。
暗証番号はもちろん、アイリス姉さまの誕生日である。
トランクケースを開いた中に入っているのは、私の宝物や、アイリス姉様にもらった『隣国の王太子を落とすための必殺アイテム』集だ。
私がこの国に来るときに、アイリス姉さまと二人で頭を悩ませながら選んだグッズである。
『この品々は、諸刃の剣だと思うのよ』
『アイリス姉さま?』
『敵陣は野獣だらけなのよ。興奮させすぎるのはよくないと思うの……!』
苦渋に満ちたアイリス姉様の顔を思い出し、私は思わずふふっと口元を緩める。
私はトランクの中から何を選ぼうかと手をさまよわせ、これに決めたと、黒い布地のそれを何枚か手に取る。ついでに、花の形が彫り込んである石鹸と、とろみのある液体の入った小瓶を二つ手に取る。
そして、壁際に控えている侍女二人に声をかけた。
「今日はね、これを使いたいの」
侍女二人に、石鹸と小瓶を一つ渡しながら、湯あみの準備に入る。
持ち込んだ石鹸で体を洗い、湯につかりながら侍女達に髪を洗ってもらっていると、ほう、と嘆息するような声が聞こえた。
「どうしたの?」
「いえ……こちらの洗髪油は、とても素敵な香りがするのですね」
「ええ。アイリスの花の香りなの」
「そういえば、ヴィオレッタ様の故国では、草花を利用した加工品が流行っていらっしゃるのでしたね」
「言われてみたら、そうね。ヴィンセント王国は森に囲まれているから」
「実り豊かでよいことですね」
「閉鎖的で保守的っていうおまけが付いてくるのよ」
「ヴィオレッタ様からは、そういった面はあまり感じられませんが」
「リオナとルイーゼが話しやすいからだと思う」
「ふふ。そう言っていただけると幸いです」
マイケルの配備してくれた侍女二人は、私の言葉にくすくすと笑っている。
かの王太子は、親しみやすさを優先して柔らかい雰囲気の若い侍女を配置してくれたらしく、意外にも私達は仲良くやっていた。
ここに来るまで、自我の強いおじいちゃん侍従とおばあちゃん侍女や、刺客を兼務していた護衛に囲まれていたことを思うと、なんだか胸の内がくすぐったいような、不思議な気持ちになってしまう。
私がむずむずしたような、変な顔をしていると、侍女のリオナとルイーゼは洗髪を終え、タオルを用意し、「ごゆるりお過ごしくださいませ」と言い置いた後、浴室を退室していった。
湯船に目のあたりまで沈み込み、ぷくぷくと息を吐きだしながら私は胸の内を落ち着けると、ザバリと大きな音を立てて、湯船から立ち上がる。
せっかくいい香りの石鹸に洗髪油を使ったのだから、ゆっくり湯を堪能したい気もするけれども、そんなことをしている場合ではないのだ。
いそいそと浴室から出た私は、はやる気持ちを抑えながら、タオルで湯をふき取った後、先ほど選んだ装備品を身にまとい、髪を乾かす。
通常の貴族令嬢であれば、このあたりまで侍女に手取り足取り身づくろいをしてもらうのだろうけれども、私は断っていた。幼い頃から自分のことは自分で行うようにはしてきていたし、侍女以外にも手伝いたいという者が沢山居るからだ。
長い髪を温風で乾かし終わった後、いつも使っている香油の中から、香りが薄いもの選ぶ。香油を手のひらであたため、髪や体に塗り、真っ黒な厚手のガウンを羽織ったら、戦闘態勢は完ぺきだ。
いや、違う。
今日はもうひと手間必要なのだ。
そう思って厚手のガウンを一度脱ぎ、トランクから取り出していたもう一つの小瓶を手に取ったところで、来客があった。
「あら?」
「なぁーん」
「あなたも一緒に来る?」
部屋に忍び込んできた黒いふわふわのご令嬢は、私の言葉にうなずくかのように、足に顔を摺り寄せてきた。
彼女を抱き上げると、満足したように私の腕の中で腰を落ち着けている。
「あ、でも今日は、一緒に連れていくのはよくないわね。あなたには刺激が強すぎるもの」
「にゃ?」
「それにきっと、あなたの大切な飼い主様がまた探していらっしゃるわ?」
「なぅん?」
「あら。知らないふりをするなんて、いけない子ね」
ごろごろと喉を鳴らすミゲルズ=スーパー=キューティフル=ゴージャ(略)もといフローラちゃん。
彼女のいいところを撫でくりまわしながら、ふと、その首元を見ると、いつもの赤い牛皮の首輪に紫色に光る宝石が輝いていた。
その知る人ぞ知る淫靡な輝きに、私は何度か目を瞬いてしまう。
「フローラちゃんたら。のぞき見に来たのね」
「にゃん」
「悪い子だわ」
私は、フローラちゃんを抱いたまま、そっと窓の近くまで足を運び、それとなく隣の棟の一室に目をやる。
確か、あの部屋だっただろうか。
灯りもついているので、やはり部屋の主は起きているのだろう。
「ごきげんよう、野獣殿下」
ちゅっと音を立ててフローラちゃんの首輪の宝石にキスをすると、視線の先にある一室から、ガタガタゴトー―――ンという大音量が鳴り響いてきた。
よくわからないけれども、満足してくれたようだ。
ならば私も満足である。
「よし、それでは出陣しなくちゃね」
廊下に出た私がフローラちゃんを床に下ろすと、フローラちゃんは「なぅん」と挨拶をして、私の元を去っていった。
彼女が腕の中から居なくなってしまうと、少し肌寒い。
今は早春で、夜はまだまだ冷えるのだ。
これからの大事に備え、暖かくしていなければ。
一度部屋に戻って、厚手のガウンを再び着た私は、もう一つの小瓶に手をかけた。