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川中島決戦 名もなき英雄たち  作者: 山脇 和夫
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海津城最前線

海津城最前線

 

 永禄四年、初冬に差し掛かろうとする信州川中島は一面真っ白な靄に包まれていた。

武田軍の最前線である八幡原砦には、犀川対岸に越後軍が陣を張っている関係上、数千の軍勢を張り付かせているが

何か事が起これば後方の海津城からいつでも援軍が駆けつける算段になっていた。

今年は武田家当主、武田信玄も主力を率いてこの地に来ていたが、今未明より前線視察の名目で八幡原砦に陣を進めていた。

本来ならお館様来援ということで大いに気勢が上がるところだが今年一番の寒さ故、皆凍えて静寂を保ったままだった。

数町先には越後勢が対陣しているが心配することはない。

数年前より度重なる越後勢の侵入を阻止するため八幡原砦は要塞化が進み、前面の犀川を天然の堀として鉄壁の防御を固めていた。

前衛には二重に張り巡らされた柵が施されていたが、最前線の防人の中に新兵衛はいた。

歯をカタカタと鳴らして寒さに堪えながら、前方を凝視していた。

「新兵衛ではないかぁ、ここにおったかぁ」

「お〜権助、久しぶりじゃのう。おめぇもここの当番になっただかぁ?」

「いやいや、今朝方甲斐のお殿様護衛のため儂の主、土屋様に従って着陣したところじゃ。それにしてもここは寒いのぅ、震えが止まらん」

「今日は今年一番の冷え込みじゃ。そのせいで一寸先も見えぬ濃霧となっちまったぁ。

しかしもうすぐここにも冬がやって来る…

そうすれば越後勢も退陣じゃ。今年も睨めっこで終わりじゃな。」

「儂もここに着いたばかりじゃが早いとこ帰りたいわい。儂ら足軽は防具こそ貸し与えられるが、あとは着の身着のままだからなぁ〜

甲斐に比べたら、ここは極寒じゃ〜凍え死にそうじゃわい」

「愚痴をこぼすな権助〜儂はここに来て3年にもなる。

高坂様が海津城の城主であられる限り儂はずっとここにおらねばならぬ。

お主のように故郷にはおいそれと帰れんのじゃ。」

「そういえば新兵衛、勝沼の佐吉も来ておったぞ!

御当主信玄さまの弟であられる信繁様も来ていられる故、そこに付き従ってきたそうじゃ。

久しぶりに因縁の三人組が揃うたわけじゃ〜」

「何が因縁じゃ〜落ちこぼれ三人組じゃなかろうがぁ」

二人はカタカタと噛み合わぬ歯を鳴らして笑った。

しばらく昔話に花を咲かせた二人だが、新兵衛がいつに無く怪訝な顔をしてポツリと呟いた。

「実はな…今朝はいつもと様子が違うんじゃ…

水鳥の鳴き声が聞こえん…いつもなら夜明けと共に

ガァガァと煩いもんじゃが今朝に限って妙に静かじゃ。」

「な〜に、おおかたこの濃霧じゃ、水鳥も戸惑って静かにしておるのじゃろう」

何も起きなければいいが…

新兵衛の不安は消えなかった。


実は新兵衛、おっとりもんで戦さ訓練でも行軍訓練でも全くの音痴であったが、幼い頃より兎や鳥を狩るのに石投げを得意としていた。

貧しい農家の出であったため、武具を揃える事が出来なかった。

しかし石ならその辺に捨てるほど転がっている。

おかげで石投げには長けていた。

十間ほどなら狙い違わず目標に当てる自信がある。

じっと獲物を待ち伏せて近づいたところで投石するのだが、その感も大したものだった。

また根気よく獲物が来るまでじっとしておるので、獲物が近づく音に敏感だった。

要は耳がいいのである。


新兵衛は先ほどから背中にゾクゾクと冷たいものを感じていた。

白霧の向こうで馬のいななきが聞こえたような気がしたからだ。

根っからの耳の良さは他のものでは聞こえない些細なものまで聞き取れる。

獲物がそっと忍び寄る気配、その時感じるゾクゾク感を今も感じているのだ。

敵じゃ…

咄嗟に忍び寄る危機を感じたが、もし間違えたら鞭打ちでは済まない罰を受けるだろう。

しかしもし敵なら…

まだ味方はこの異変に気付くものは無い。

まだ寝ているものもいるであろう。

もし越後勢の奇襲など受けようものならお味方は間違いなく総崩れとなろう。

新兵衛の切羽詰まった顔を権助が心配そうな顔で

覗き込んでいる。

権助も新兵衛の特技はよく心得ている。


新兵衛は自分の感を信じた!

そしてあらんばかりの声を振り絞って叫んだ。

「敵襲!敵襲じゃ‼︎越後勢が攻めてきよった!」

見張りに持たされていた太鼓をけたたましく鳴らす。

新兵衛は権助に目配せした。

権助も心得たりというように頷くと

「敵襲じゃ!皆の者〜敵が攻めてきよったぞ〜」

と叫びながら陣内にかけもどって行った。


敵襲の叫びと太鼓の音は瞬く間に武田勢の守備兵に浸透していった。

まるで号令がかかったように一糸乱れぬ動きは流石精強を誇る武田勢である。

しかしこれも川中島の守備を任された海津城主

高坂弾正昌信の力が大きい。

川中島は信州武田領の最前線である。

この重要な守備には並大抵なものを選ぶわけにはいかない。

信玄が選んだのは、まだ家臣団の中では若輩の高坂弾正昌信であった。

実は昌信、武士の出ではない。

父親は春日村に住む農家であった。

幼い頃より容姿端麗だった昌信は信玄の目に止まり御伽衆として仕えたが後に近侍衆として、そして百騎持ちの足軽大将にまで出世した。

昌信は、武田の信州攻略に当たって幾多の武功を立て、信玄の信頼を一身に背負う人物に成長したのだ。

そんな青年武将に越後と境界の接する最重要拠点である海津城を託したのである。

昌信もその信頼に応え、部下を徹底的に鍛え上げ

いかなる困難にも立ち向える精強な軍団を作り上げていたのだ。

当時、砦や城の攻略は守兵の三倍の戦力が必要とされていた。

たとえ、一線の防御策といえども、そこを抜くのは並大抵ではない。

逆に言えば柵内にある守兵は柵さえあれば大軍であろうとも進撃を食い止めることが出来たのだ

しかしその防御が破られるとすれば、攻撃方の奇襲か防御方の怠慢しかない。

昌信は越後勢の川中島侵攻による防衛線を犀川沿いに構築するとともに、守兵の怠慢を厳重に戒めていた。

今まさに敵襲の叫びに、まるで待ってましたとばかりに一糸乱れず持ち場につく姿は、日ごろの訓練の賜物であろう。


太鼓の音や陣内のざわめきは、八幡原に本陣を張る信玄の耳にも入った。

信玄はぎくりと驚きの表情を浮かべて供の武将たちをぐるりと見まわした。

武将らも信玄の采配をいただこうと目線を返す。

すかさず諸角豊後守が一歩前へ出て拙者が見てまいりますと供のものを連れて陣幕を出て行った。

諸角はこの川中島最前線の要塞を預かる責任者でもあった。

陣幕内では、皆はどう思うと信玄が諸将に問うた。

まず内藤修理亮正豊が「まだ前線の報告が入ってみないと確かなことは言えぬが、この濃霧ゆえ大方敵の斥候を大群と見間違えたのではなかろうか」と口火を切った。

「そうかもしれぬな・・・一寸先も見えぬ状態で大群を動かすは愚の骨頂!大方こちらの様子を伺うために放った斥候でござろう。」と穴山信君。

「いや、今未明、御屋形様が八幡原に向かわれる折、こちらの前衛が越後勢の斥候と接触した旨の報告を受けております。未明はまだこんなに霧が出ていなかったため

こちらの陣容もある程度知れているとみてもおかしくはござりますまい・・・」

信玄公の前衛を守っていた土屋昌次が前に乗り出した。

信玄はしばし考えこんだが、目をぐっと据えて諸将に下知した。

「わしはこれを越後勢の総攻撃と見た!一同のもの、各隊に通達!これより我が軍勢は犀川大砦にて越後勢の進撃を食い止めつつ、本隊は魚鱗の陣を引き

万が一砦が破られた折の陣を引く!」

穴山信君が何もそこまでという怪訝な表情を浮かべたが、信玄はすかさず目を止め信君に諭すように言った。

「わしが謙信公ならこの濃霧で油断している武田の、しかも信玄が海津城外に出ているこの機を逃さず一斉攻撃に出るであろう。謙信ほどの神がかりした武将ならきっとそうするはずじゃ」

信君も渋々うなずいたが、この信君、武田家のご親類衆の筆頭にある家柄・・・武田宗家とは同格なのだというプライドがある。

信玄も他の武将たちに指図するようにはいかず遠慮がちに言うしかなかった。

信玄は陣立てを皆に言いつけた。

「最前衛右翼は内藤修理隊、中翼は土屋昌次隊、左翼は飯富三郎兵衛昌景隊・・・二段目は原隼人隊、跡部勝介隊、武田逍遥見信廉隊・・・三段目は我が本陣・・・

後衛は信君殿にお願いしたい」

信君も信玄の下知が下った以上、反論は許されない…

御意!気持ちを切り替えた。



その頃、犀川沿いに張り巡らされた第一の柵内には

武田守備隊が配置を完了して一寸先も見えぬ濃霧と対峙していた。

深々と静まり返る空気が漂ってはいるが、新兵衛でなくても誰もが霧の向こうに蠢く何かを感じていた。

新兵衛は石投げが得意である。

腰の袋には石投げに適した礫が数十個も入れてあるが、まだ足りぬと前をにらみつつ足元に転がる石を拾い続けている。

「とんでもねぇ数じゃ…」新兵衛の背筋は自分ではどうすることもできないくらい震えていた。


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