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譲り羽  ―ゆずりは―  作者: 天野鉄心
第四章 恋人たち
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心の距離 それぞれの道標 ④

   ※


「…………ん、ああ、うん。……夢、か?」


 巨大なベッドで目を覚ました黒田幸喜(くろだこうき)は、なんとも寝覚めの悪い夢にうなされ、辺りを見回して自分の居る場所を確かめた。

 眠りに落ちる前と同じ、三宮界隈にあるラブホテルの一室に変わりはない。

 体を起こしてみると、すぐ隣に女が体を丸めて眠っていた。

 中島(ちゅうとう)病院婦人科医師の播磨玲美(はりまれみ)だ。

 黒田との複数回に及ぶ行為のあと、彼女も一糸纏わぬ姿のまま眠ってしまったようだ。


「……そろそろ頭を切り替えんとな」


 あまり長く眺めているとまた抑えが効かなくなると判断し、黒田は玲美にシーツをかけて、自身はソファーへと移る。

 退出前にシャワーを浴びるつもりなので、裸のままタバコに火を着ける。


「うん? おかしいな……」


 記憶ではH・B(ハーヴェー)の名刺整理アプリに登録しておいたはずのデータが見つからない。

 正しくは関連別にフォルダ分けしたうちの、雑誌社・新聞社に属する記者のフォルダが無い。

 用途が似た別のアプリをめくってみたが、やはり探しているリストは見当たらなかった。


「となるとこっちか。こういう時はアナログが面倒やな……」


 脳内のスクリーンを閉じ、ソファー横に置いてあったバッグを取り上げて漁る。引っ張り出してきたのは名刺ファイルだ。


 どんなにインターネットが普及し便利な時代になっても、ハンコとサインと名刺は未だに生きながらえており、特に営業職や社長業は名刺配りに余念がない。名刺は、実際に顔を合わせて手渡されると捨て辛く、社章やデザインなどに拘ると印象づけしやすくなり、顔と名前を売りたい営業職や社長業では捨てたいのに捨てられないアイテムなのだ。

 ハンコやサインに至っては、二〇〇〇年代からその非効率性が訴えられてきたが、画面上のダイアログに打ち込むだけの処理ではセキュリティも確保されず、本人証明や責任所在も曖昧になってハンコ文化の脱却に踏み切れないでいる。そればかりか、ハンコやサイン以上の本人証明を築き上げられないだけでなく、インターネットは高速化と大容量化を推し進めてもセキュリティの向上や環境の整備、または法整備が追いつかないでいる。

 世間的には書類作成や書類提出を面倒がる傾向があるが、ネット上で済ませたがために未処理か処理済みかが不透明になったり、再手続きの連絡を見落としたりと、『物』が残らない不具合も多くあるのだ。


 未だに警察手帳にメモ書きするのも、アナログでなければならない制約がある。


「……結構あるが、いざこっちから話を聞きに行くとなると、選別が難しいな」


 名刺ファイルをざっとめくり、小規模な出版社やマイナーなスポーツ誌の記者はすっ飛ばし、情報力や規模の大きい所をいくつか抜き出していく。

 最終的に大手新聞社二社の事件報道記者と、大手出版社の系列の記者二名の、計四名に絞った。


「……いや、これやと意味がない。ちょっと変わり種も混ぜとかんとあかんな」

 そういえば……と黒田は再び名刺ファイルをめくっていく。

「なんでこんなモンが紛れとるんか分からんが、ま、この辺やろ」

 どんな経緯で名刺交換したのか覚えていないが、見るからに弱小出版社の名刺も加え、黒田は五件の逆取材先の選別を終えた。


 一仕事終え、タバコも吸い終われば、すぐそばに女盛りの裸体がある。

 さっき選抜した記者たちには朝一番でアポイントを取ってからでなければ会うことも叶わないだろう。

 となれば夜明けまでまだ時間がある。

 黒田はベッドへ視線を向け、播磨玲美の寝起きの機嫌を伺うためにゆっくりとベッドに近寄った。


   ※


 同じ頃、神戸港に浮かぶ人工島ポートアイランドでは、鯨井孝一郎(くじらいこういちろう)が旅支度を進めていた。


 国立遺伝子科学解析室の地下にある宿舎で、持参してきていた着替えや柏木珠江(かしわぎたまえ)がまとめてくれた資料をバッグに詰めていく。

 翌朝に神戸を発って昼には一度自宅に戻るつもりだが、そこからの予定は全くの未定だ。


 ひょんな事で関わってしまった高橋智明という異質な存在。彼の脳に生まれた未知の器官や、そうなるに至った変態とも思える身体の変容。またその設計図とも言える遺伝的な特異性を、鯨井は調べずにはおれない。


 恐らくは単独個体の突発的な変異なのだろうと思いたいが、国生警察の黒田刑事によれば、高橋智明に付き添っている幼馴染みも同様の能力を備えているという。


 似通った特殊な事例が二例あるということは、医学や科学でなにかしらの事象を研究・解明していくにおいて、大変有り難いことである。比較対象が一般的な平均値ではなく、似通った特異なものであれば、その子細はより精細に考察することができるからだ。


 しかし鯨井の取り組みが成就しない可能性は非常に高い。


 夕方のニュースで、所属が不明な飛行体が淡路島の南部周辺を飛行しているのが目撃されたり、自衛隊が新皇居の防衛を想定した演習を近々行うという発表があったと報じていた。昨日の時点では『演習を行う』であったのが、『演習の子細を協議したらしい』という表現になっていたことから、有り得ない程の性急さで政府が自衛隊を差し向けようとしていると考えられた。


 そうなれば、政府とも警察とも縁のない鯨井が皇居に近付くことは至難の技となり、自衛隊が『演習』という名の『高橋智明対策』を実施すれば、ますます鯨井の行動に制限がかかると予想できた。


 もっとも、そういった危機的状況下において医療従事者が担う役割は重要視され重宝される。淡路島にさえ身を置いておけば、鯨井が高橋智明と接触するチャンスはゼロではない。


 ただ、その時にフットワークを軽くするためには播磨玲美とセットでは立ち回りにくく、また手の空いた医師を作らねばと思って玲美に中島病院へと戻るように指示した。


 このタイミングで播磨玲美への執着も取り払おうという意図もあったが、玲美に直接伝えたわけではない。遠回しにはなるが、野々村美保との関係を進めることで察してもらえるなら幸いだが、そうでないならば鯨井から明確な別離を切り出さねばならないだろう。

 美保のためにもそちらを先に済まさなければならないのだが、どうも優先順位を間違ってしまう。


「……さすがにこれ以上、美保ちゃんを放ったらかしにはできんからな」


 鯨井は、自分だけしか居ない部屋で美保に言い訳したことを自嘲した。その詫びというわけではないが、神戸に来てから初めて美保に電話をかける。


〈もしもし?〉

〈やあ、美保ちゃん。元気にしとるか?〉

〈私は元気だけど……。十日も連絡なしっていうのはヒドイんじゃない?〉

〈ごめんよ。思いのほか解析に手間取っての。けど、明日にはアワジ帰るさかい〉

〈あん、メール見てないのね。今、京都に居るよ〉

〈京都? なんで? ……もしかして、師匠の見舞いか?〉

〈うん。……ママにね、少し前におばあちゃんから電話があったみたいで、今日の昼に病院に行ってきたんだけど、ちょっと良くないみたい〉

〈そうなんか……。これは、俺も行かなあかんよな?〉

〈…………私に聞かれても。……クジラさんに任せるよ。仕事もあるだろうし〉

〈ああ、すまん。……いや、明日そっちに行くわ。美保ちゃんの両親もおるんやろ? こんなタイミングだが、このタイミングしかないとも思える〉

〈本気で言ってる?〉

〈当たり前やろ。指輪のサイズまで聞いたんやぞ。俺はろくでもない男やが、そんな不義理はせん。……師匠に対してもな。それに意思表示は早いに越したことはないし、師匠の具合如何ではこんな話もできなくなりかねん〉

〈…………ありがとう〉

〈なんちゃない。後で病院の住所だけ送ってくれるか?〉

〈分かった〉


 通話を終えると、鯨井は小さくため息をついた。

『不義理はしない』などと見栄を切ったが、十日間もフィアンセに連絡を取らずに私事に明け暮れたのは、充分に不義理だ。


 電波を通していたとはいえ、美保の声のトーンが低かったのは、美保の祖父・野々村穂積の容態が芳しくないことが原因というだけではないだろう。


 美保くらいの年齢なら電話の切り際に『愛してる?』とか聞いてきそうなものだが、それすらなかったのは、自分の不義理で機嫌を損ねてしまっているからだと思えた。

 メールを見ていないことを指摘されたのも痛恨事だ。


「それでも嫁にもらうと明言したら受け止めてくれた。それで問題ないやろ」


 自分の覚悟を確かめるようにあえて声に出し、鯨井はもう一度バッグの中身を確認した。

 明日は美保の両親に挨拶をしなければならない。

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