事件前夜 ③
手違いで「十五歳の日常 ⑥」から「事件前夜②」までのタイトルがズレており、本話「事件前夜 ③」が抜けておりました。
2023/09/03、「事件前夜 ③」を公開・挿入し、タイトルを訂正いたしました。
失礼いたしました。
「…………ふう。美保ちゃん、もういいよ」
「…………」
「美保ちゃん?」
「ぷっ! ぷはははは! クジラさん、役者だね! 警察官だと思わせるなんて、やるじゃない!」
鯨井の被せたジャケットを丸めて抱きながら美保は痛快そうに笑っている。
「勘弁して欲しいよ。俺は小心者なのによぉ」
「よく言うよ。お医者さんだもの、ビビリじゃないじゃない」
「逆だよ。ビビってるから手術前に色々準備して、落ち度やミスをなくす努力をしないと、手術前は手が震えて俺が死にそうになるわな」
医者を完全無欠の超人のように思っている美保に、プレッシャーのない仕事などないと言ってやりたかったが、機嫌が直ったようなのでそれはやめた。
「お疲れ様でした。ちょうどここだから、コーヒーでも飲んでいきますか?」
急な敬語に鯨井は慌てたが、トラブルを一つ乗り越えて落ち着きたい気持ちもあったので、美保の申し出に乗ることにした。
美保の淹れてくれるコーヒーは鯨井の大好物だから断る理由はない。
「謹んでお受けしましょうかね。……え、でもこのマンション、俺んちに似てるんだが?」
「私の住んでるマンションだよ」
「マジか」
微笑みながら見つめてくる美保の表情で、鯨井はすべてを察した。
年齢差や師匠の後釜問題などに左右されず、ここまで追いかけてくれる女性を無下には扱えない。ましてや美保が自分の願望と同じ気持ちでいてくれたと気付いたのだ。ここから先は一本道で、その周辺のことはあとからなんとでもなる。
マンションのいつもの駐車スペースに軽自動車を停め、玄関エントランスからエレベーターで八階まで上がり、一番手前の部屋へ入る。
「ソファーでくつろいでて下さいな」
「お、サンキュ」
美保が車を降りた時から抱きかかえていたジャケットをハンガーにかけ、鯨井にソファーを勧めてくれたので、鯨井は素直にソファーに腰を下ろした。
手持ち無沙汰で室内を見回してみるが、女性の一人暮らしにしては物が少なく、家財はベッドやデスクがある他は鯨井が座っているソファーとその前のティーテーブルくらいだ。
ベッドシーツやソファーのファブリックが明るい色味なぶん、女性らしさを感じるが、自分の部屋と大差ないさっぱりした部屋に変に落ち着いてしまった。
「はい、お待たせ」
「いや、いつも悪いね」
「半分趣味だもの。気にしないで」
「……ん、いつもどおり美味い!」
鯨井が座っているソファーは一人がけなので、美保は鯨井の足元に正座している。
やや見下ろす感じで美保を見ていると、不意に美保が上目遣いに目線を合わせてきた。
「結婚したらいつでもこのコーヒーが飲めるよ」
「ずいぶん直球で来たな」
「だって、何年もはぐらかされて来たもの。やっとこさホームにまで連れ込んだんだから、余計なことはいらなくない?」
笑いかけてくる美保の顔が勝利を確信した余裕の笑みに見えて、鯨井は一瞬苦笑したが、コーヒーカップを置いて美保に手を差し伸べる。
美保はまずヒザ立ちになって誘いを受け、ゆっくり立ち上がって鯨井の右足に腰掛ける。
「こんなオジサンでいいんか?」
「私を子供とは思ってないんでしょう?」
「そりゃあ確かに」
「なら、大丈夫」
「あ、ちょっと待て」
首に抱きついた勢いでキスをしようとする美保を、鯨井はギリギリで制止する。
「先に行っておかなきゃなんだが、このまま新都に居続けられるかは分からない。今の立場や職場のままとは限らない。下手をすると世間からのバッシングや攻撃にさらされるかもしれない。そこは、平気か?」
間近で見る美保の顔に年甲斐もなくドギマギしながら、鯨井はゆっくりしっかりと言葉を連ねる。
美保の気持ちを確かめるというよりは、自分の覚悟を確かめるという意味が強いかもしれない。
「野々村の女ですよ? そんなの慣れっこです」
「それもそうか」
世間の好奇心にさらされていたのは教授の弟子だけではなく、美保や美保の母もつまらない一挙手一投足を週刊誌に取り上げられたことがあるのを思い出した。
「そのへんも含めて、よろしくな」
「はい」
潔い返事のあと、美保から顔を寄せてきて口付けを交わした。