プライベートアイ ③
※
七月の夕暮れは遅く、午後五時を過ぎても比良山は空が明るい。
しかし西の空に宵の明星が目立ってくると、暑気を含んでいた風も涼しいものに変わり、訓練で野山を駆け回った少年達にも夕刻を知らしめる。
「おーし! こんくらいにしようか!」
淡路島のバイクチームWSSのリーダー本田鉄郎が右手を挙げて訓練の終了を告げ、少年達を集合させる。
「おつかれっす」
「おいっすー」
「お疲れ様でした」
スキンヘッドの田尻と金髪の紀夫が疲れの交じる声で互いの労をねぎらい、茶髪の少年城ヶ崎真は丁寧に腰を折った。
「みんな、お疲れさん」
一番最後に小柄な瀬名が歩み寄ってきて、スポーツを堪能したような爽やかな笑顔を見せた。
「皆、ご苦労さま。サバイバルゲームの知識とか作戦ばかりだったけど、良い訓練だったと思う。君達が何の目的でエアバレットを使うかは聞かないが、今日の訓練が役に立てば嬉しく思う」
少年達の前で訓練の総括をして、大尉と仇名される二十代の男が敬礼の真似事をした。
その右手にはエアバレットという空気銃を進化させた手甲が装着されてい、敬礼の時に軽い金属質の音を立てた。
次いで、大佐と呼ばれる中年男と軍曹と呼ばれる小太りの男も近寄ってきて、それぞれを労った。
「大佐、無理を聞いてもらって、こんなに長時間付きわせて申し訳ない。エアバレットは有効に使わせてもらうよ」
テツオは大佐に向けて右手を差し出し、大佐もその手を取った。
「我々が思っていたのとは目的が違ったようだが、役に立てて欲しい。商品開発の面でも、今日の訓練は大きな意味があった。こちらとしても感謝するよ」
思いのほか堅い握手が終わると、軍曹が口を開いた。
「エアジャイロの制御や扱いだけは本当に気を付けて下さい。エアバレットと違ってシビアな操作が必要ですから」
軍曹の念押しに少年達は一様にうなずいた。
エアジャイロとは、空気鉄砲の原理を凶悪に発展させたエアバレットを、更に移動用の推進機構として変化させた物で、吸入した空気を数倍の力で放出し続けることで人間を浮遊させたり飛行させることができる機器だ。
本来はスカイダイビングのように高所から猛スピードで降下して吸気口に風を取り込み、その風圧でタービンを回して発電と推力を得て滑空や飛行を楽しむ。
しかしここにHD化による身体能力の拡大を掛け合わせ、ダッシュやジャンプによってタービンを回す手法が取られた。
テツオと瀬名の子供っぽい思い付きだったが、エアジャイロは正しく機能した。
今日の訓練ではタービンが回り発電と推進に必要な風力を得るための初動が試され、浮遊と飛行中の操作を試した。エアジャイロの名が示す通り、組み込まれたジャイロと自分の体をシンクロさせて操縦するので、上昇や前進は簡単だが旋回や急停止の操作が難しく、少年達は習得に一番苦労した。
「色々お世話になりました。そろそろ日も落ちてきます。下山しましょうか」
テツオが礼を述べたあとに撤収を提案すると、全員がうなずいて帰り支度を始めた。
自然が少なくなったと言われる昨今だが、比良山地では熊や猪が出没することがある。明るいうちに退散するのが得策だろう。
帰路を急いだこともあるが、今朝の往路は余裕のあった少年達も訓練で消耗したのか、大佐たち大人と同様に復路を下りきると呼吸の乱れがあった。
薄暗くなり始めたイン谷口の駐車場で帰り支度をしていると、真のもとに大尉が歩み寄ってきた。
「真君、ちょっといいかな」
「あ、お疲れ様です」
「今日は君の能力の高さに驚かされたよ。命中精度も回避行動も、素晴らしいものだった」
「あ、ありがとう、ございます」
大尉の称賛に真は恐縮してしまうが、どうやら大尉は真を褒めるために来たのではないようだ。大尉の真面目な表情からそれを察して、真の感謝の言葉もつっかえた。
「サバイバルゲーム好きのただのサラリーマンが言うことじゃないとは思うんだが、ただ一点、君には欠点がある」
「……何でしょう?」
「君の年齢を考えれば仕方のないことだし当然の事なんだが、感情で引き金を引いちゃいけない」
大尉の言いたいことがわからず、真は黙る。
「的を外して悔しいとか、もっと精度を上げたいから頑張るとか、そういう感情は構わない。でも君は違う。明らかな憎しみとか、怒りとか、殺意のようなものを持って、銃口を向けている。……それは危険なんだよ」
「いけないことですか?」
「ああ。良くない。人殺しがいけないことなのは当然として、そういう感情で力を振るうことは、いけないことだよ」
大尉の言いたいことは真にも分かったが、それはこれまでの真の目標や目的を全否定するものに聞こえたので、真は大尉から視線をそらした。
「すまない。言い過ぎたようだね。……でもこれだけは心に留めておいてくれ。目的を達した後の君のために言うんだよ。感情で引き金を引いてはいけない」
もう一度さっきの忠告を繰り返して大尉は真に背を向けた。
大尉が自分を気遣ってくれたことは分かっているが、やはりこれまでの経緯を無視できないため、真は大尉に対して素直な態度は取れなかった。
それでも深いお辞儀をして帰り支度を再開した。
授かった武器を元のケースにまとめ背負ったり縛り付けたりしてなんとかバイクにまたがれば、そこからはバイクチームの本領で、すっかり日の暮れた琵琶湖畔を一列で駆け抜ける。
「あれ? 別荘に明かりがついてんな?」
「テツオさん、このバイクって……」
別荘の玄関からガレージへ向かう途中で田尻が別荘の異変に気付き、続いてガレージにバイクを停めていた紀夫が見慣れたバイクが停まっていることに気付いた。
HONDAVF750マグナ。
テツオの愛車と同じモデルである。
「ほほう。お熱いねー」
「てことは、もしかして……」
瀬名がテツオを冷やかしたのを見て、紀夫が嬉しそうにテツオの方を見る。
「……中に入れば分かるよ」
照れくさそうなテツオはぶっきらぼうに言い放ち、さっさと玄関へと向かってしまう。
そっけないテツオの態度に、真は田尻たちの方へ視線へ向けると、何か様子がおかしい。
「なんスカ? どうしたんスカ?」
「ん? んふふ。行けばわかるよ」
「俺、興奮して今日は寝れそうにないわ」
田尻も紀夫も鼻の下を伸ばしながらニヤついている。
真は訝しく思いながら玄関に歩いていくと、玄関ポーチで一組の男女が抱き合っている場面に出くわした。
男の方は背格好や服装からテツオだとすぐに分かったが、テツオと濃厚な口付けを交わしているモデルのような美女を見て、映画かドラマのワンシーンを見ている気持ちで傍観してしまう。
「おい、真。邪魔だぞ……」
「おっとっと……」
後から来た田尻と紀夫も鮮烈な場面に口をつぐんで行く末を見守る態勢になる。
田尻や紀夫の声でギャラリーが居ると気付いたのか、口付けの最中に美女が一瞬真の方を見た。
「あ!」と思った真だが、美女は抱擁を中断するどころか、ますますテツオに密着して激しいキスを繰り返す。
「……あん……う、ん。……」
官能的な声を発し始めた美女に答えるように、テツオも赤いレザーパンツに包まれた美女のヒップを持ち上げるようにしたり、胸元に手を忍ばせ始める。
「オホン。テツオ君、ここは玄関だぜー?」
テツオが美女のシャツを捲くろうとし始め、いよいよ下着が見えそうなところで瀬名が二人を制止した。
「あ、やべ」
「ふふふ。また後でしようね」
恥ずかしがる感じもなく抱擁を解いた二人に対し、さらなる展開を熱望していた男子三人は急な終幕に肩を落とした。
「……こん中じゃ知らないのは真だけかな? 彼女、洲本走連のクイーン鈴木沙耶香だ」
「そっちの三人はウエッサイだよね? じゃあ君が真君ね? よろしくネ」
テツオに紹介され、栗色の長い髪を揺らしながら美女は真に小さくお辞儀した。
本当に整った顔立ちで、なだらかに弧を描いた眉も栗色で、パッチリとした二重の瞳と形の良い小さな鼻、ポッテリして大きすぎず色っぽい下唇に、シュッと尖ったアゴ。パーツで見ても美しい物が小さな顔の中にバランス良く収まっている。
そして圧倒的に漂うセレブ感とお姉様感に、真は一瞬で虜になってしまった。
「よろしく、おねしゃさすっは」
元気よく挨拶しようとして盛大に噛んだ。
「何アガってんだよ。ここだけの話、俺の彼女だから恋は始まらないから緊張するだけ無駄だぞ」
「あん。もう一人紹介しなきゃ。キミ?」
テツオは真だけではなく、田尻や紀夫にも釘を指す感じで彼氏感を誇示する
一方で、サヤカは玄関ドアの方へ手を差し伸べて手招きした。
現れたのは小柄な少女で、長い黒髪をツインテールにした和風な面立ちの美少女だった。
薄くて細い眉は少し吊り気味だが、細く鋭い切れ長の目を生かしていて、低いが形の良い鼻に、引き結んだ小さい唇も薄くて可愛らしい。
服装がややポップだが、ミスマッチで少女らしい。
「あの、藤島貴美と申す者。お世話になり申す」
堅い話し方と見た目とのギャップや雰囲気に少年達は黙ってしまう。
圧倒的なサヤカの雰囲気と、貴美の不思議な雰囲気という取り合わせは少年達を混乱させているようだ。
「何、黙ってんだよ? 自己紹介してくれたんだから、答えなきゃだろ。ったく、しょうがねー連中だな。……俺はサヤカの彼氏のテツオ」
淡々と自己紹介を済ませたテツオは、横一列に並んでいる少年達に顎をしゃくって合図する。
「あ、あい。俺は田尻義男、十六歳です!」
「西川紀夫。田尻と一緒で十六歳ね。気軽にノリオって呼んでよ」
「ん? 俺か。ウエッサイの雑用やってる瀬名だ」
「……あ、はい。城ケ崎真です。十五歳? です……」
やや挙動不審な真の発言に小さな笑いが起こり、少しだけ場の雰囲気が和らいだ。
「とりあえず俺らは風呂だ。サヤカ、空いてる部屋に荷物置いたらなんかデリバリーしといてよ」
「デリでいいの? 材料あるなら作るけど?」
「腹ペコの男が五人居るんだぞ? サヤカだって大阪から走ってきたんだし、手料理はアイツらにはもったいない」
サヤカの肩を抱いて別荘へと入っていきながら、テツオはこの後の段取りを決めていく。
「クイーンの手料理、食べたかったなぁ……」
「じゃあ、食後のコーヒーくらいは淹れてあげるね」
「あざっす! 一生の思い出っす!」
何気なくつぶやいた紀夫のぼやきに、意外なサヤカのサービスが返ってきてまた空気が変わった。
テツオとくっついて歩くサヤカに付いていく感じで別荘に入った真だが、後ろ姿ですら非の打ち所のないサヤカのプロポーションに目を奪われてしまう。
――堅物の田尻さんまでデレデレしちゃうのも当然だよな――
つい一週間前までは身近な女性の中では、鬼頭優里を最高の女性だと考えていた真だが、たった今鈴木沙耶香が抜き去ってしまった。
――でも優里はまだ十五歳だからな。十八歳になる頃にはどうなってることか――
サヤカの余計なお肉のない背中や、くびれた腰、小さくて締まったヒップ、スラッとした脚を眺めながら、優里もサヤカ並のスタイルに成長するだろうと夢想してしまった。
「……見過ぎなのだ」
不意にスケベな視線を注意されて左側を見ると、貴美が上目遣いで真を見つめていた。
「いや、そんな、あの……。素敵だから、つい」
なんとも言えない貴美の神秘的で心の内を見抜くような視線に、真はうろたえてしまった。
「……私も、同意する」
不思議と柔らかい笑顔を見せて貴美が笑い、立ち止まった。
真も合わせるように立ち止まる。
「おい、真。お前の部屋はそっちだったろ? 行き過ぎだ」
「クイーンに見とれてたのか?」
「そ、そんなんじゃないっス!」
田尻と紀夫に冷やかされて、真は慌てて自分に割り当てられた部屋へと飛び込んだ。
なんとも言えない気恥ずかしさや動揺を鎮め、着替えを用意して浴場へと向かう。
旅館の浴場のように広い脱衣所に入ると、脱衣籠が幾つか使用中だったので、田尻や紀夫が入浴中なのだろうと判断して、真も服を脱いでいく。
途中、腕や腹が視界に入ると、訓練で避けそびれたゴム弾の当たった跡がアザとなって浮いていた。
しかしもう体内のナノマシンが治療し始めているようで、痛みや違和感は感じない。
考えてみれば不思議なもので、見た目や手触りは生身の頃と変わらないはずなのに、自分の体が機械や金属へと作り変わっていて、威力を落としていたとはいえゴム弾のような武器にも怪我せず耐えられている。
――前みたいにはならない――
智明の戯れに付き合わされ、高空から放逐された事を思い出してしまい、重くなりがちな気分を今度こそ洗い流すために浴場へと入った。
案の定、男メンバー全員が先に来ていて、十人は入れる湯船に寝そべるようにしてリラックスしていた。
「アッチィから先出るわ」
ちょうどエアバレットやエアジャイロの話をしていたようだが、真が入ってくるのと入れ替わりでテツオが退出し、そのせいで一気にクイーンの話へと切り替わって、真の頭の中にテツオとサヤカの濃厚なキスシーンやセクシーな後ろ姿が再生された。
普段なら紀夫一人が真をイジるような場面だが、なぜだかクイーンが絡むと田尻も一過言あるようで、いつの間にやらクイーンの容姿でどこが素晴らしいかを発表する場になってしまった。
十代男子の日常といえばそれまでだが……。
語り尽くせぬテーマで時間を忘れて語り合ってしまい、いつの間にか瀬名は姿を消しており、体が温まった者から順に退出していき真は最後に浴場を出た。
用意しておいた寝間着代わりのジャージとシャツを着てダイニングヘ向かうと、すでに全員が集まって食事が始まっていた。
「先にやってるぞ」
「うっす」
藍色の作務衣姿のテツオが手招きして真を呼び込み、空いている席を示してくれた。
席について隣を見ると、貴美がサラダとライスだけの食事をしていた。
さして気に留めずに、食欲の赴くままピザや唐揚げをよそい、コーラのペットボトルの封を切る。
そこからは意識から切り離されていた空腹が一気に押し寄せ、一心不乱に料理を食べ続けた。
テツオの指示があったのか、サヤカは多種多様なデリバリーを注文していたようで、ピザや唐揚げだけでなく焼きそばや鶏や豚の鉄板焼き、寿司やホルモン、パイやチーズケーキまで並んでいた。
そのほとんどは五人の男子達の腹に納まり、サヤカと貴美は本当にサラダとライスしか食べなかったようだ。
「菜食主義なんだ?」
サヤカが約束通り食後のコーヒーを振る舞い、周囲が雑談タイムに移り始めたどさくさで真は貴美にそう声をかけた。
早くに食事を終えていた貴美は、サヤカとたまに口を聞く程度で、部屋着感ありありのピンクの薄衣を乱しもせずにずっとチェアーに座っていた。
物静かな人だとも思ったが、初対面の男ばかりで話づらいのかなとも思っての声かけだった。
「いや。修行中の身ゆえ、動物の肉や生物を食べられぬのだ」
「そうなんだ。そんなこともあるんだ……」
『修行』という単語があまりにも自分の生活とは縁遠いため、とりあえず返事は返したものの真は次の言葉を継げなくなってしまった。
「……今日は訓練をされていたとお聞きした。どういった事をされたのか?」
真が口ごもっていると、意外にも貴美から質問された。
「うえっと、そうだな……。空気鉄砲って知ってる? 筒に弾を詰めて反対側から押したら、ポンッて弾が飛ぶやつ。アレの強力なやつの使い方を教わったよ。後は、サバゲーっていってオモチャの鉄砲で撃ち合うゲームがあるんだけど、その要領で撃ち合いとかの戦い方とか弾の避け方とか、相手の陣地への攻め方とか、そういうのを教えてもらったよ」
「……なるほど」
長い説明を一言で返され、真は当惑する。
このまま貴美が黙ってしまえば会話は終わるし、真が黙っていても会話は終わってしまう。
どうしたものかと思いあぐねていたところへ、テツオが全員に聞こえるように声をかけた。
「明日のことを言うの忘れてたよ」
瀬名はもちろんのこと、田尻も紀夫もおしゃべりをやめ、貴美や真と同様にテツオヘ視線を向けた。
「明日は朝飯食ったら、この別荘のテニスコートで今日の訓練のおさらいをするつもりだ。借りてる別荘だからエアバレットは使えないけどな」
エアバレットは圧縮空気を撃ち出す武器である。最弱の威力でも木の幹を破損させられるのだから、貸し別荘の備品や施設を壊すわけにはいかない。
これには全員が納得した。
「それと、さっき紹介した貴美ちゃんも訓練に参加してもらうつもりだから、明日はよろしく頼むよ」
「……むしろこちらが無理を言った立場。こ、こちらこそ、お頼み、申す」
途中まではテツオの言葉にスラスラと答えていたが、全員の視線が集中していることに動揺して後半はどもってしまった。
――なんで女の子が智明と戦う訓練に参加するんだ?――
社交辞令的にお辞儀した貴美に合わせて皆がお辞儀を返すなか、真は漠然とした疑問を抱いた、が、今すぐそれを貴美に聞けるほど仲良くはなれていないし、そういったことを聞ける空気でもない。
「それから、男連中はもう一回HDの検査あるからな」
「いいっ!? またっすか?」
「昨日が最終じゃなかったんすか?」
寝耳に水の予定を聞かされ、真の貴美への疑問はこちらの疑問に追いやられてしまう。
「そうだったんだけどな。エアバレットとエアジャイロの話をしたら興味あるって言い出したんだよ。なんか分からんが、そういったスポーティな趣味に向いたアプリの開発もやってるんだとさ」
「……厚かましいな」
ボソッとつぶやかれた辛辣な言葉は田尻のものだ。
真からすれば『企業の開発者だからそんなこともあるのかな』程度だったが、田尻は某企業の開発者の篠崎と木村には個人的な感情があるようだった。
「そう言うなよ。向こうさんも仕事だからな。発売前の商品の実験をしたくてたまらないんだろう。その代わりって訳じゃないんだけど、ウチと洲本走連のメンバーの数だけ『タネ』を貰えることになったからな。向こうよりこっちの方が利益はデカイんだ」
「すんません」
テツオにたしなめられて田尻は素直に謝った。
WSSと洲本走連のメンバーは、合算すれば百人を超える。
通常市販されているH・Bの『タネ』で数万円、有名企業が販売している人気アプリ満載のプレミアムバージョンなら十万円以上する。もしHDが市販されるならH・Bと同等の価格になるだろうから、それだけの数の『タネ』をアプリの試用との交換条件で百セット以上用意してくれるとは、大盤振る舞いと言わざるを得まい。
これはテツオや瀬名やフランソワーズ・モリシャンの交渉が巧みなのか、それとも篠崎や木村の企みがあるのかは分からないが、少年達には得るものばかりなので短絡的にこき下ろせるものではないだろう。
田尻にも個人的な思惑はあっても、それが分かるから素直な態度を示したはずだ。
「それ、明日早速試していいかな?」
少しピリついた空気を取り払ったのはサヤカの楽しげな声だった。
「HDか? 明日はやめといた方がいいな。二日ほど安静にしてなきゃいけないくらい関節とか違和感ありまくりだからな」
重病人のような寝たきりの日々を思い出したのか、テツオの表情は苦々しい。
「そうなの?」
「マジっす! 腕も足も動かしづらくて、バイクにも乗れないくらい痛いっすよ!」
「だな。明日か明後日にはアワジに戻らなきゃだしなー」
「そうなんだ……。じゃあアワジ帰ってからにしようかな」
HDをやや見くびっていたサヤカを、紀夫と瀬名が説得するように押し留めた。ここに居る全員がクイーンたるサヤカのバイクテクニックを知っているが、肉体を硬質化するHDはインストールされるまでが意外と辛い。
「そのへん、明日来る専門家に説明聞いてからの方がいいしな。……ついでだけど、明日の訓練次第じゃ明後日はアワジまでツーリングだからな。体調を整えとくに越したことはない」
テツオはカルピス風の乳製飲料に不満そうな顔をしながら、話のまとめに入っていく。
「……今日の夕方のニュースなんだけどな。どこの誰が飛ばしたか分からない気球が、新しい皇居の近くを飛んでたらしいんだ」
いつもとは違うテツオの重々しい声に全員が続く言葉を待つ。
「これまでの事はニュースになってないけど、俺らからすりゃあ『あんだけの事があって、このタイミングで、このニュース』ってことは、なんか意味があるように聞こえてくるはずだ」
一旦間を置いたテツオは、一人ずつに視線を合わせていく。
誰かが生唾を飲んで喉を鳴らした。
「その裏でな、近々自衛隊が皇居で演習をやるってニュースもある。ニュースになってるくらいだから、自衛隊はもう準備を進めてるはずだ。ってことは、俺らが先か自衛隊が先かってタイミングだ。分かるよな?」
テツオは全てを語らず、もう一度全員と目を合わせていく。
「俺がやります! 智明をぶっ倒して正気に戻すのは俺の役目です」
テツオと目が合ったのをキッカケに真は力強く宣言した。
「俺がやります!」
真の本気度を計るように見返してくるテツオヘ、真はもう一度言った。
「元々お前の『お願い』から始まったことだからな。自衛隊より先に動けるように、情報を集めておくよ」
だから今から張り切りすぎるな、と言わんばかりにテツオは真に優しい笑顔を送った。
「あざっす!」
真がなるべく気持ちを込めた返事を返すと、テツオも満足げな顔になって一つ柏手を打つ。
「よし! 明日も朝から訓練とか色々あるからな。この辺で切り上げて後は自由時間にしよう。朝飯は七時で手配しとくから。寝坊すんなよ」
「ういーす!」
各々適当な返事をしつつ、ゆるりと立ち上がってテーブルの上を片付け始める。
金髪の紀夫やスキンヘッドの田尻が、率先してデリバリーの容器や取り皿ににしていた紙皿や割り箸を重ね始めると、一番年下の真も可燃・プラ・リサイクルに分別するためにゴミ箱を引っ張ってきた。
一見不良っぽい三人が命令や指示もなく後片付けをする様に、貴美は驚いてしまって少し行動が遅れた。
「キミ、手伝って」
「あ、はい」
貴美が気後れしたことに気付いたサヤカが、貴美を流しの方へ招いた。
「ど、どうすればいい?」
「あ、じゃあね、私は容器を洗うから、キミはペットボトルとカンをすすいでくれる? ……こういう感じ」
「あい分かった」
サヤカは一つだけ手本を見せ、スポンジを手に取ってプラ容器を洗っていく。その横で貴美は手本通りに洗い進めていく。
「おっと、洗ったやつは逆さまにして水を切ってくれな」
「あ、はい」
皆の動きを見ていたテツオは、貴美がペットボトルや缶の洗い方や分別に慣れていないことを見抜き、貴美が洗い終わったペットボトルと缶を水切りカゴに立てるように指示した。
プラ容器を集めてサヤカの持ち場に運び終えた田尻は、洗い終わった容器を拭こうとしたが、所定の場所には布巾がなかった。
「布巾、ないっすよ?」
「あ! 洗ったの取り込んでねーな。仕方ない。キッチンペーパーでいいよー」
「ういっす」
瀬名の指示を得てその通りに進める。
「真、取ってきてくれるか?」
「え? あー、ういっす」
真に布巾を取りに行かせたのは紀夫の策略で、貴美が洗い終わったペットボトルと缶の水気を拭く係を担えば、サヤカの近くに立てるからだ。
田尻が早々にプラ容器を拭き始めたのは、サヤカの真横に陣取れるからだ。その証拠に、田尻の体はサヤカの居る左の方へ傾いている(ただし無闇に触れてはいけないという緊張で左腕は動かせないでいる)し、なんとも締まりのない顔で作業している。
「キミちゃん、丁寧だなぁ。しっかりやっちゃうと手が荒れるから、ほどほどでいいんだぜ」
「……そうなのか」
紀夫のアドバイスに素直に従う貴美だが、自然崇拝者の貴美は真冬でも川の水で炊事洗濯を行う。紀夫が思うより家事は達者だ。
「ちょっと、布巾濡らしていいっすか?」
「うん? いいわよ」
「失礼しまっす……」
真が布巾を湿らせて搾れるようにサヤカはスペースを開けてやる。
「…………あん。オッパイ当たったよー」
「わ、私も」
「す、すんません。狭かったので」
「まぁこぉとぉぉ!」
「ちゃうっすよ! ちゃうっすよ! 事故っすよ!」
「クイーン、すんません。後でシメときます」
真のヒジが乳房に当たったサヤカと貴美は怒るどころか気にせず笑っているのに、田尻と紀夫は強く真を責めた。特に紀夫は鉄拳制裁上等の怒り具合だ。
「ほれほれ。遊んでないで早く終わらそうぜ」
「そうよ。もんだんじゃないからセーフよ」
「マジっすか!?」
一番怒り出しそうなテツオが笑っているので、サヤカも下品なジョークを言い始める。
「サヤカ! 田尻!」
さすがにお調子に乗ってしまったサヤカと田尻に釘を指し、テツオは口を閉じたゴミ袋を捨てに行く。
「……怒られちゃったね」
「う、うっす」
テツオに見えないところでサヤカは田尻にウインクをしながらペロッと舌を出しておどけた。
田尻と真は顔を真っ赤にしながら残りの作業を片付けた。テツオの機嫌が悪くなったからか、紀夫も最後までおちゃらけなかった。
「……うし、片付いたな。解散だ」
テツオの言葉を待ってましたとばかりに田尻と紀夫は連れ立って裏手のウッドデッキへ向かった。おそらくタバコを吸いに行くのだろう。
テツオは瀬名と一緒にリビングの方へ歩いていく。
サヤカと貴美は部屋へ戻るようだ。
真は田尻と紀夫を追うべきか、サヤカと貴美を追うべきかを迷い、サヤカ達の方を優先することにした。