守人の眼 ④
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滋賀県大津市。
言わずと知れた日本最大の湖・琵琶湖の西岸から南部に広がる地域だ。
もともとの南部の市街地に加え、琵琶湖大橋周辺の商業施設が密集した区画とそれを囲むように広がる住宅地、そこから北には牧歌的な田園地帯が広がるという、広大な面積に様々な表情を持つ土地だ。
琵琶湖畔の四季折々の表情も風光明媚であるが、琵琶湖を囲む山々もその表情は豊かだ。
大津市には比叡山から北北東に向かって連なる比良山地があり、北比良・南比良・奥比良・リトル比良と分けられるほど沢山の山々が連なっている。
四季を通じて登山が楽しまれ、滝の名所や湿地帯へ訪れる者も多く、冬期には雪深さゆえスキー場も開く。
その山々の一つ、比良山の頂きに城ヶ崎真の一行が居た。
今日も七月の太陽が照りつける中、本田鉄郎の指示で早朝から起き出し、比良山地最高峰の武奈ヵ岳の登山道入り口となるイン谷口までバイクで移動し、現在は廃止されている比良ロープウェイの索道跡を登って比良山へと踏み入った。
イン谷口には新たな同行者が三人待ち構えていて、ワゴン車で運んで来た大きなプラスチックケースを一人一つずつ背負っての登山となった。
テツオや真を始めHD化した五人は息が上がることもなく頂上まで登ることが出来たが、同行者の逞しい大人達が呼吸を荒げていたのを見ると、HDは確実に少年たちの身体能力を高めている事が分かった。
「本田くん、この辺りで、いいだろう……」
「そうっすね。おーい! 集合!」
同行者のリーダー格であろうサングラスに口ヒゲの中年が、背負ってきたプラスチックケースを降ろしながら息も絶え絶えに提案し、テツオが了解して真らに声をかける。
比良山の頂上は自然の山らしくなく、コンクリートの基礎や廃屋が所々に伺えるほど開けていて、それでも雑草が腰まで背を伸ばして所々に木も生えている。サンサンと差し込む日光のせいか、辺りは草木の青臭い香りに満ちている。
「なんか、人の手が加わってそうだな」
荷物を置きながら紀夫がつぶやくと、同行者から説明が飛んだ。
「ここは大昔にスキー場だったんだよ。その辺のコンクリの土台はリフトの支柱の名残りなんだ」
「一時期は所有者が転々としてたけど、今回のことで我々の所有地になったのさ」
リーダー格の中年の隣りに居た、長身の二十代の男が説明すると、その後ろに居たやや小太りの男が言葉を足した。
少年達は答えようもなく「へぇ」と返すしかなかった。淡路島では冬場でも積雪は珍しく、ウインタースポーツよりもマリンスポーツの方が馴染みがあるし、未成年の彼らが土地の所有に興味があろうはずもない。
「ここまでくれば監視の目もないだろうから、ちゃんと紹介しとかないとな」
テツオが登山用に人数分揃えておいた長袖の紺のジャージに付いた草や虫を払いながら真たちを振り向く。
「詳しくは言えないけど、とある企業で研究開発をされている方々で、名前は明かせないということで俺も聞いていない。だから仇名になるんだけど、こちらから大佐。大尉。軍曹と覚えて欲しい」
テツオはまずサングラスに口ヒゲの中年を指し、次に背の高い二十代の男を指し、最後に二十代の小太りの男を指した。
「うっす」
真を含め、田尻も紀夫も納得いかない顔ではあったが、一応頭を下げて挨拶をした。
テツオに紹介されるまで地面に屈んでいた大佐が立ち上がり、揃いのグリーンの登山服の胸を張る。
「やましいことはないんだが、何分、事情が事情だ。名前や身元を隠すことを許して欲しい」
「我々は軍隊や警察とは無縁だけど、本田君の野望と利害が一致してね。たまたま準備していた商品を試してみようという話になったんだ」
「HDだっけ? ここまで登ってくるだけでもそのポテンシャルは興味深い。ぜひ君達の目的に役立てて欲しい」
大佐に続いて大尉と軍曹が口上を述べると、テツオは真らを紹介し、今日の段取りを説明し始めた。
「俺も含めてだけど、まずHDでどれだけ身体が強化されたかを調べようと思ってる。その対比ってわけじゃないけど、大尉の身体能力を基準にしようと思って来てもらってる。その後は、大きな声じゃ言えないけど、大佐が研究してる商品を智明と戦うための武器に転用できないかってのを試してみるつもりだ」
テツオの説明に田尻は苦い顔をする。
HDの効果は確かなもののようだと認めてはいるが、実験台のような扱われ方にはまだわだかまりがある。
「もしかして、マシンガンとかレーザーガンみたいなのっすか?」
少し前のめりに紀夫が聞く。
「はっはっはっ。そんな違法なモノは持ってきてないよ。期待を裏切って申し訳ないが、普通に使うなら合法なモノしか用意していない」
「だけど、面白いモノだから後のお楽しみだね」
大佐の否定に落胆した紀夫だが、軍曹の含みのある言葉に少しだけ気分を持ち直す。
一方で、真は急激に増してきた緊張感に生唾を飲んだ。
テツオがさらっと言ってのけた『智明と戦う』という言葉が、テツオの手配によって実現しようとしていると実感し始めたからだ。
「大尉、まずは基本的なところからやってみようか」
「そうですね……。では、あの辺りまで駆け下りて、また駆け上がってくるというのはどうでしょう?」
「ジャンプ力とか、何か投げたりとかもしたいっすね」
テツオを含め大佐と大尉が身体能力を計る方法を相談し始めると、不意に真の肩が叩かれた。
「は、はい?」
「あんま固くなるなよ。まだテストだからな?」
「ありがとう、ございます」
「な! 武器って何だろうな? やっぱり銃かな? それとも剣かな?」
「ここまでリラックスしたらただの馬鹿だからな。程よくな?」
「ハイ!」
「こら、真! そこはハイじゃねーだろ!」
「す、すんません」
気遣ってくれる田尻とハシャギ気味の紀夫に挟まれながら、真は『もっとしっかりしなければ』と自らを戒めた。
目の前で水素爆弾を爆発させてみせたり、鬼頭優里をさらわれたりと、真は智明にずいぶんと差を付けられたように感じている。しかし、テツオに助力を求めたことで身体をナノマシンで強化し、武器と思しき力を授けられようとしている。
この緊張を勇気と自信に変えねばと強く意識した。
「おーい。始めるよー」
「うぃっす!」
長々と続いていた田尻と紀夫の口論はもはやじゃれ合いの域で、その証拠に瀬名の呼びかけにアッサリと口論は切り上げられている。
そればかりか二人の表情は一瞬で引き締められていて、真も自分で自分の頬を叩いて気合を入れた。
まずは単純に、斜面を百メートルほど駆け下りて反転して駆け上がってくるというのをやることになった。
なんでも大尉は陸上競技の有名選手だったそうで、十種競技の日本記録も出したことがあり五輪強化選手にも選ばれたことがあるそうだ。
百八十センチ以上ある身長と均整の取れた肢体も相まって、走・跳・投を全て極めなければならない十種競技の記録は確かなもののように見えた。
だが結果は真たちHD化した少年達の圧勝だった。
大尉のタイムも、本来なら驚異的な数値のはずだが、ゼエハアと呼吸を整える大尉に対して、半分近いタイムで走りきった少年達は息も乱していない。
中でもテツオが群を抜いて早く、下りで折り返し地点をオーバーランしたのに、一番で駆け上がってきたくらいだ。
テストはさらに続き、俊敏さを計るための反復横飛びでは瀬名が計測が追いつかないほどの回数を叩き出し、ジャンプ力を計ろうとすると紀夫が十メートル近い木を飛び越えてしまい、腕力を計ろうとして落ちていたコンクリート塊を投げると田尻が頂きの向こうにまで投げ飛ばしてしまった。
どれもこれも大尉の記録を置き去りにしてしまう結果となった。
「これはすごいな……。彼はうちで一番身体能力が高いのに……」
大佐は、力を出し尽くしてズタボロになって大の字で寝転がっている大尉を眺めながら、驚きのあまり言葉が出てこないようだ。
「例のハーディー、でしたか? ずいぶん個性というか、個人差が出るようですね。走力では本田君。ジャンプ力では紀夫君。瞬発力では瀬名君。投擲力では田尻君。……ただ、総合的には本田君と真君のバランスが良いですね」
全員の計測と記録を行っていた軍曹が総括してくれた。
「さすが!」
「やっぱテツオさんが一番かぁ」
テツオを囃し立てる田尻と紀夫の後ろで、人知れず真が落ち込んでしまう。
「おいおい。なんで真はオチてんだよ? 田尻や紀夫や瀬名より評価は高いんだぞ?」
「そうっすけど……」
弱々しく答える真を見かねてか、テツオは田尻と紀夫の尻を叩く。
真に見えないところでアゴをシャクって『元気付けろ』と合図もした。
「そ、そうだぞ真! お前は一番年下なのに総合二位なんだぞ」
「そうだな。一芸よりも総合の方が良いに決まってる」
「真くん。バランスって大事なんだぜー? テツオの何がすごいって、コソコソ筋トレしてるとこだ。そのテツオに筋トレしてないお前が一歩差なんだぜ? 胸張っていいんだぞー」
田尻と紀夫はともかく、しれっと秘密をバラした瀬名に舌打ちしつつ、テツオは相変わらずの瀬名の口八丁に感心する。総括では二位だが、『一歩差』というデータは誰も明かしていない。
「僕からも、一言……」
ようやく呼吸が整った大尉が体を起こし、真の方を真っ直ぐに見て話し始める。
「今のテストは単純な体の能力を計ったに過ぎない。しかも君と本田君には筋力の差に加えて、体格の差もある。つまり、基礎的な筋力を鍛えていない君には計り知れない伸びしろがあるんだ。そして、一点集中型よりもバランス型の方が、様々な状況に対処しやすい。瀬名君の言うように胸を張っていい成績だよ」
「あ、あり、ありがとうございます」
大尉が手放しで褒めたせいか、照れや恥ずかしさでどもってしまったが、真はなんとか礼を言った。
「……さて。これでHDとやらのだいたいの基礎体力が分かったな。軍曹、まずはアレから見せてあげてくれ」
話の切れ目を埋めるように大佐が仕切り、軍曹が置きっぱなしになっていたプラスチックケースの一つを開いた。