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譲り羽  ―ゆずりは―  作者: 天野鉄心
第一章 三つの仔
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事件前夜 ②

「さあ、自慢のロールスロイスにご搭乗いただきましょうかね」

 キッカリ三十分で帰り支度を整えた鯨井と美保は、中島病院の関係者用駐車場ではなく来院者用駐車場まで歩き、中古の軽自動車の前に居た。

 鯨井はリモコンキーでロックを解除し、恭しく後部座席のドアを開く。

 確かに車体の塗装はロールスロイス様の深いブラックだが、丸っこくて小さい車体を照らす深夜の街灯の光でも目立つほど水垢と埃が白く浮いている。

 美保には中古というよりスクラップ寸前の故障車に見えたようで、わずかに口元が引きつらせている。

「クジラさん、こんなみすぼらしいロールスロイス見たことないんだけど。たまには洗車しないと、車が可哀そうだよ。彼女が可哀そうだよ」

「酷い言われようだな。俺自身のメンテナンスもままならんのに、車がピカピカなのもおかしいやろ。それより、彼女が可哀そうになる理由が分からんぞ」

 自分自身の無頓着を指摘されるのは仕方ないが、五十を目前にして独身である鯨井に、車に絡めて彼女が出来ない理由を指摘されても困ってしまう。

「あのねぇ、クジラさん。車っていうのは女性と同じなの。わずかな時間でいいから手をかけたり機嫌を見てあげるだけで、運転手の命令に素直に従うものなのよ。それから、目上のお客さんは後ろでいいけど親しい人を送迎する時は助手席に乗せるべきよ」

「そんなもんかねぇ」

 美保の剣幕に押され気味の鯨井は、それでも呑気に顎髭を撫でている。

「そうなの。特に、私を乗せる時は助手席にしてくださいな。ハイ! やり直し!」

 まるで鬼嫁か女王様だな、などと考えながら鯨井は後部座席のドアを閉じ、助手席のドアを開く。

「へいへい。では、どうぞ」

「ありがとう」

 ややおざなりな鯨井のエスコートに、美保はしおらしくお辞儀をして大きなお尻を助手席に突っ込み、長くて肉付きの良い脚を見せつけるように片方ずつ座席に入れる。

 毎日の残業と時間外の調べもののせいなのか、疲れと睡眠不足のせいか、鯨井は思わず生唾を飲んでしまった。

 誰の何に見とれてしまったかを思い出し、軽く首を振り静かに助手席のドアを閉じる。

「……やれやれ」

 運転席側へ回り込みながら、今日は美保の作戦にハマッてしまいそうだなと感じ、美保にバレないように気を引き締める。

「……シートベルトした? んじゃ、行きますよん」

 変なムードにならないように鯨井はおどけた調子で軽自動車をスタートさせる。


 フロントガラスの下半分にヘッドライトに照らされた道路と植え込みが浮かび上がり、少し遠くの工事現場のフェンスが虎柄に反射している。

 上半分は防塵ネットで覆われた建設中のマンションやビルが影となって立ちはだかり、わずかなすき間から夜間工事の明かりが夜空に跳ね返って見えた。

「あんなのじゃ星空なんて見えないよね」

「うん? ああ、俺らよりも遅い時間にご苦労様だよねぇ」

「おじいちゃんからは星空が見えるって聞いてたのに、とんだ肩透かしだったわ」

「美保ちゃんは、星空を見たことあるのかい?」

 鯨井の師匠が孫を呼び寄せるのに、星空を餌に釣ったのが面白くて美保の話に乗ってみた。

「東京の実家、覚えてるでしょ。写真や映像では知っているけど、あんな都会じゃ空なんか見上げないもの。家族旅行でグアムに行ったこともあるけど、まだ小さかったから覚えてないし」

「そりゃもったいないことしたなぁ。クジラのオジサンは奈良のだだっ広いとこの生まれだから、山まで行ったらすごいのが見れたよ」

 自慢するつもりはなかったが、鯨井が少年期に見た満天の星空の素晴らしさは伝えたいと思った。

「クジラさんもロマンチックなところがあるんだ?」

「ちょっと違うなぁ」

 そう。男と女では星空を見て思うことは全く違う。

「男は星を見ても奇麗とか素晴らしいとか思う前に、野望とか夢とか物語を考えてしまうんだよ。それで何十年も経ってから『あれは素晴らしかった』と思い返すだけの生き物なんだ」

「なにそれ。まるで昔の女を思い出してるみたい」

「あん? ……ああ、確かにな! アッハッハッハッ! 美保ちゃんの言うとおりかもしれん」

 美保の直感的な返事に鯨井は一瞬置いてけぼりになったが、夢や野望などという青臭い単語を選んだ自分のセンスは、美保の言う通り『別れた女』を忘れられない女々しい言い回しだった。

 この少しズレた会話がジェネレーションギャップなのか、男女の価値観の違いなのか、それとも鯨井と美保の相性なのか、常日頃脳ミソのことばかり考えている鯨井にも分からなかった。

 しかし愉快な気持ちにはなっていた。

 反して、美保はずっと笑っている鯨井を見て、小娘のズレた発言を小馬鹿にされたと思ったのか、やや不機嫌な顔をしている。

「ごめんよ。馬鹿にしたわけじゃないんだ。着飾った服の中身がすごくダサイパンツだと言い当てられたから、俺が恥ずかしくなって笑ったんだよ。気にしないでくれな」

「ん。もういい」


 交差点に差し掛かるところだったので一旦停止のタイミングで美保の様子を伺ってみると、鯨井とは反対の方にそっぽを向けてしまっていて表情は見れなかった。

 ――本心を隠したい時はヅカヅカ踏み込んでくるのに、本心を晒した時は聞いてくれないんだな――

 車中という狭さのせいなのか、研究室で顔を合わせている時とは勝手が違い、真面目とオフザケのバランスが狂ってしまったようだ。

 ここ数年の鯨井の迷いが態度として出てしまったのか、決断すべきタイミングが目に見える形で迫っていると感じられた。

 鯨井が抱く美保への思いと、美保が向けてくれる鯨井への思いはきっと同じものだ。

 だが二人が思いを通じ合わせるためには、野々村穂積教授の後釜争奪戦が大きな障害となって立ちはだかっている。

 野々村教授は医師免許を取得後すぐに脳外科手術の先進技術を学ぶために渡米し、沢山の技術や理論を日本に持ち帰り、専属医育成プログラムにH・Bを含めた脳外科と脳神経外科を新設させた功労者とされている。

 これまでにも自身の息子や鯨井を含め、膨大な数の弟子を教え育て上げてきた。

 医学界からも世間からも名医と称された野々村教授も、現在は肺を患って病床の身となってしまい、年齢も八十歳を越えたこともあり、引退の噂が囁かれ始めている。

 世間とは冷たく性根の暗いもので、野々村教授の容態を案ずる声よりも教授職と学会の席は誰が引き継ぐのかという噂の方が大きく広まっている。

 その噂の中に鯨井の名前が上がっていることがまた悩ましい。

 教授の息子さんの名前が挙がったり、他の弟子の名前が挙がる事に、鯨井はなんの異論もない。むしろ後釜争いなど自分とは無縁のものだと思っていた。

 しかしどうやら遷都に際して、中島病院経由で野々村教授が自分を呼び寄せたことが、世間には『教授の信頼厚い愛弟子』とか『教授も認めた知識と実力』とか『次代を担わせるために傍に呼んだ』と映ったらしい。

 鯨井からすればたまたま重篤な患者を持っていなかったことと、教授から勉強の機会を戴いただけのつもりで招聘に応じたに過ぎなかった。

 きっと野々村教授は見込みのあるほうぼうの弟子達に声は掛けたはずだし、諸兄はたまたま即座に動けなかっただけに過ぎないはずだ。

 さすが野々村の弟子と褒めそやされる脳外科医達は、すべからく難解で重篤な患者達から救いを求められ、身軽に転院出来るはずはないからだ。

 鯨井はそうではなかったし、自分の実力は自分が良く分かっている。まだまだ修行を積まねばならない。


「……美保ちゃん、この辺だよな?」

 アスファルト舗装される前の砂利が敷き詰まった路地から国道28号線に差し掛かったので、無言のまま窓の外を向いている美保に声をかけた。

 新都で再会しなければもう少し上手に付き合えたし向き合えたと思う反面、新都で再会したからこんな気持ちになったとも思える。

 鯨井と美保の関係は、後釜争い以上に乗るか反るかの局面にある。

「左だよ」

「はいはい」

 まだ機嫌が直っていないのかと美保の方に注意が向いていたため、国道を東進してくるバイクに気付くのが遅れた。

 路地から軽自動車の頭を少し出したところでヘッドライトの光に気付きブレーキを踏んだが、二台で並進していたバイクの歩道側を走っていた方がギリギリでかわして駆け抜けていった。

 ヒヤリとした瞬間が過ぎ鯨井はホッと息をついたが、通り過ぎたバイクはエンジンを派手にフカしながら少し先で停まっている。

「こりゃいかんな。美保ちゃん、キッチリ窓を閉めてドアをロックしてくれ」

 なかなか走り去らないバイクから、片方がこちらに手を挙げる素振りが見えたので、鯨井は嫌な予感がしてすぐに美保に指示を出した。

 返事はなかったが、美保は言うとおりにしてくれたようだ。

 次いで通勤用に羽織っているジャケットを脱ぎ、美保の頭に被せる。

「美保ちゃんの可愛い顔を見せるのはもったいない。あとあと厄介事にならないように、ちょっと我慢しててな」

 暗い車内だがうなづいてくれたようなので、運転席側のドアがロックされているか確かめてから、鯨井はゆっくりと車を発進させた。

「おい! 車、停めろ!」

 車内で準備している間に一人がバイクを下りて歩いて近寄って来ていて、右手を振り回しながら命令してきた。

「やあ! 上手く避けてくれて助かったよ。ケガはないみたいだね!」

「どこ見て運転しとんじゃ、ヘタクソ! 人、殺したいんやったら拳で来いや! やり返したんぞ、クラァ!」

 フルフェイスヘルメットで声がくぐもっているが、なかなかのテンションで捲し立ててくる。しかも車を叩いたり蹴ったりしないところを見ると、そこそこ頭の回る相手だと鯨井は判断した。

「ははは。人なんか殺したくないよ。それよりバイクの扱い上手いね。あのタイミングで華麗にかわしたよね。レースかなんかやってるのかい?」

 鯨井はハンドルから手を離さずに穏やかな表情で呑気に話をそらす。

「なんや!? そんな話どうでもええやろ! 今はオッサンが俺にせなあかんことあるやろっちゅー話や!」

「そうなのかい? てっきりレースやってるのかと思ったんだけどなぁ。だってさ、ここ片側三車線だよね? なのに君達は一番左の車線を二台横並びで走っていたろ?」

 車内から進行方向を指差すと、フルフェイスの男もそっちを見る。

 鯨井の軽自動車のヘッドライトに照らされて、左車線にバイクが二台並んで停まっている。

「だから、なんやねん! オッサンが俺を轢きかけたんは間違いないやろ!」

「轢きかけたは通用しないよ。こっちは時速五キロ以下で、君は五十キロは出してたからね。さっきのとこと停まってるとこのブレーキ跡でバレバレだよ。あ、証拠ならあるからね? ちゃんとドライブレコーダーアプリ使ってるから」

「なん! おま!」

 淡々と追い込んでいく鯨井は不器用にウインクしながら自分の目元を指差した。それだけでフルフェイス男に『眼球を通してH・Bに記録した』と《《思わせた》》。

「おい、田尻。もういいって! テツオさんが待ってんだって!」

「うっさい! 紀夫は黙ってろ! オッサン、なめんなよ! 降りてこいや!」

 鯨井はやれやれとため息をつき、疲れた顔を作る。

「ドライブレコーダー回ってるって言っただろ。あまり言いたくないんだが、あのバイクは君達の名義かい? ナンバーがちょっとおかしくないか? 道交法にも詳しくないようだし、交通違反も犯している。そもそも君達、何歳? 免許持ってる?」

 矢継ぎ早にそれらしいことを言いながら、鯨井は視線を鋭くしていく。

「おい、田尻。ほっといて行こうぜ」

「なんやお前? ケーサツか?」

「だったらどうする? 拳でやり合うか? ああん?」

 最後はなるべくドスを効かせてしゃくりあげるように睨む。

「チッ! 紀夫、行こうぜ」

「お、おお」

 ヘルメット越しでも悔しそうな顔が分かるくらい田尻君は大きな舌打ちをし、足早にバイクへと戻り始め、紀夫君も慌てて追いかけ、バイクの二人組は走り去った。

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