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譲り羽  ―ゆずりは―  作者: 天野鉄心
第三章 広がる波紋
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検査結果 ④

「やれやれだな」


 独りごちてから黒田は喫茶店へ入り、少し遅い朝食を摂ってから鯨井へメールを送った。

 意外にも食後のコーヒーとタバコを楽しんでいる間に返信が届き、ポートライナーへの経路検索をしてから喫茶店を出た。

 七月に入ってすぐの木曜日なのに加え、出勤時間から外れているせいかポートライナーは空いていた。

 美保とのセックスで久々に使った筋肉が悲鳴をあげている黒田には、目的の駅まで座席に座れたのは幸いだった。

 そう思ったのもつかの間、駅舎を出て遺伝子科学解析室の方角を向くと、なかなかに距離がある。


「この前は車やったしな。クソッタレが」


 周りに聞こえない程度に毒ついてみたがそれで距離が縮まるわけでもなく、覚悟を決めて歩き出す。


「明日は、絶対、筋肉、痛やな……」


 まだ昼までに時間はあるが、怒鳴りつけたいくらいの青空から容赦なく日射しが襲ってきて、黒田の体力を奪っていく。


「はあ、はあ、歳の、せい、とは、思いたく、ないな……」


 一キロも歩いていないというのに呼吸が乱れてしまい、目前に迫った遺伝子科学解析室を眺めながら、自動販売機で栄養ドリンクを買って一気に流し込む。

 辛うじてバッグに入っていたフェイスタオルで汗を拭い、呼吸を整えてから研究室へ入る。

 前回、鯨井に案内された入り口へと向かうと、守衛とも受付とも見える中年が黒田のことを覚えてくれており、説明をせずとも鯨井を呼び出してくれた。

 ほどなく、奥の通路から鯨井が現れ黒田に手招きをする。


「なんや、疲れた顔しとるの」

 前回と同じくやたら長く下りていくエレベーターの微妙な空気の中、鯨井は気安く声をかけてきた。

「メールしたやろ。機動隊じゃ自衛隊じゃと面倒な仕事済ましてから来たんや。疲れも出る」

「ご苦労さんやの」

 他人事だからと笑う鯨井に苛立ち、黒田はやり返したくなる。

「そっちは血色良さそうやな。毎晩お楽しみか?」

「……ほどほどだ」

 播磨玲美との肉体関係を揶揄したのだが、鯨井は余裕ありげにいなしてきた。


 思わず野々村美保との火遊びを暴露してやろうかと思ったが、それでも鯨井の圧倒的優位は変わらないので無駄なことはやめにした。


「……自衛隊の件、知っとるか?」

「演習、という話らしいが……。そこまでのことになってるのか?」

「警察があかんかったら自衛隊、自衛隊があかんかったらアメリカか国連軍、ていう順序なだけちゃうか。もっとも、銃とか爆弾が効くとは思えんけどな。……それよりは、この機に乗じて自衛隊を軍にしようとか、自衛隊を派遣した政府を転覆させようとか、とっ捕まえて実験台にしようとか、色んなことが起こりそうでワヤクチャになりそうや」


 現状、高橋智明への対処は自衛隊を演習という名目で新皇居へ差し向けるものだけだが、黒田はそこから破滅や混乱が連鎖すると予想したため、鯨井は大げさに肩をすくめて舌を出した。


「政治とか経済とか、なんでどっか腐ってるんだろうかねぇ……」

「おいおい。本職放り出して研究に没頭してるモンが言うなよ」

「違いない」

 黒田の敬意のない指摘を鯨井が認めた時、丁度エレベーターが停止してドアが開いた。

「お疲れ様、刑事さん」

「あ、ああ。どうも」

 エレベーターホールで待ち構えていた播磨玲美に意味不明な動揺をしつつ、一応挨拶を返せたことに安心する。

 質素なパンツスタイルに白衣をまとっている玲美は、なぜだか分からないが髪型や化粧に気合が入っている。

 黒田のためではないことは明白だが、鯨井のためだと考えるのはいささか道理が通らない。この一週間、彼女はずっと鯨井のそばで過ごしていたのだから、今日に限って女を上げておく必要はないはずだ。

「相変わらずお美しいですな」

「あら、おだてても何も出ませんよ?」

「いやいや全く。本心ですよ」

 柄にもなくご機嫌取りなどしたものだから、言葉が出てこずにありきたりに誤魔化した。


 一同は乾いた笑いをたたえながら通路を進み、応答式の自動ドアを通って柏木珠江(かしわぎたまえ)教授の研究室へと入る。

「やあ。ノコノコとやって来たね」

「改めまして、お世話になりやす」

 相変わらずの偏屈な珠江の挨拶に、黒田はあからさまに下から媚びる。

 珠江も黒田も、今日の会談が終われば二度と関わることはないとふんでの振る舞いだ。

「さて、挨拶はこんなもんでいいかね。タダで講義をしなくちゃならん上に、通常業務を止めて厄介事が増えたんだ。手土産もなしじゃ、コーヒーも出す気が失せるね」

「相変わらず手厳しいですな。一応、持参はしてますよ」


 鯨井とのメールのやり取りで、珠江が常識的な挨拶を嫌う旨は耳にしていたし、おべっかやおべんちゃらも嫌うことは承知していた。それでも菓子折りの用意くらいはしておけという鯨井の助言で、瓦煎餅とオレンジチョコスティックとビワを練り込んだパイを用意しておいた。


「刑事にしては気をきかせるじゃないか。一美(かずみ)、コーヒーを淹れておやり。一郎も手伝いな」

 珠江が、アニメで見たことのある戦闘司令室のような研究室の隅っこで作業していた一組の男女に声をかけると、どこかよく似た顔立ちの二人が返事をして傍らのドアへ向かう。

 以前、一美と呼ばれた女性研究員とは顔を合わせているが、その姉で今も壁面の大型パネルの下で作業をしている孝子(たかこ)という女性研究員も、鯨井と珠江の遺伝情報を人工受精させた私生児だと聞かされて驚いた経緯がある。

 黒田はもしかして、という疑惑の目を鯨井に向けると、鯨井は頬をかきながらうなずいた。

「彼は一美の双子の弟だ。まあ、平たく言えば俺とセンセの三人目の子供だな」

「なるべく自然な交配を行ったら孝子が生まれたからね。性別をコントロール可能かの試験はしておかなければならないだろう?」

 相変わらずの倫理や道徳から外れた発言に憤りを覚えたが、前回それについて黒田はこてんぱんにやり込められたし、今朝最大級の不倫理を犯した黒田が怒るのはお門違いだと思って黙っておいた。


「さあ、まずは落ち着きましょうか」

 珠江と黒田の様子を見て気遣ったのか、玲美が全員に着席を促して、研究室の会議テーブルを指し示した。

「そうですね。ありがとう」

 なぜだか玲美に気を遣った返事をして黒田はその指示に従って着席する。

 黒田と正対する位置に珠江と鯨井が座り、玲美は傍らに退いた。

 黒田はおや?と思ったが、播磨玲美は婦人科の医師であることを思い出した。遺伝子解析や脳外科の専門医ではないために今日は発言しないからだな、と勝手に納得しておいた。


 ――俺まで播磨玲美の色香に惑ってもうたら美保ちゃんが可哀そうやからな――


 美保を気遣うふうにしなければ自制できない自身の幼さは棚に上げてこれである。

 ともあれ、全員が席についたところでコーヒーとお茶受けが配され、解析結果の説明が始まる。


「さて、まずは高橋智明のMRIから推測できる異常から始めていくんやが、全体的な印象としては『体が作り変えられた』と考えている」

「作り変えられた?」


 早速、黒田の疑問の声が飛ぶ。


「一般的にそんなことは起こり得ないと思うやろうが、人間に限らず動物の体は常に作り変えられている。簡単に言えば新陳代謝なんだが、高橋智明の場合は文字通りの作り変えで、一度皮膚を切開して骨格そのものが変形した。そうとしか言えない現象や作用が行われた、と仮定している」


「新陳代謝は分かるが、骨格の変形と同義で作り変えたっちゅうのが混乱するな」


 新陳代謝とは、古くなったり傷んだ細胞を排除し、新しい細胞を分裂によって発生させ、組織の機能を落とさずに入れ替えることを言う。

 しかし鯨井の口にした『作り変えられた』とは響きや印象が全く異なることを黒田は指摘した。


「そんなに小難しく引っかかるとこじゃないさね。幼児から少年、少年から青年への成長だと考えれば分かるだろう」

「一次成長とか二次性徴というやつか」

「そういうことさね」


 アゴをさすって納得する黒田に対し、珠江はつまらなさそうにコーヒーをすする。

 かなり序の口でつまずいているようだ。


「高橋智明は七月生まれだと聞いとる。だとすれば二次性徴の時期とも重なるし、精通や身長の変化の一部とも捉えられる。事実、彼の過去の健康診断の記録を調べたら、中学二年時点で157センチだった身長が、MRI検査時の一回目は163センチ、二回目は167センチになっとる」


 いつの間に、どんな手段や経路で調べたのか、高橋智明の健康診断のデータまで引っ張ってきていたことに黒田は舌を巻く。


「待て待て。確かMRIの撮影は一回目と二回目で数時間しか開いてなかったんやなかったか?」


「ああ。しかも皮膚を切開して関節も外されている箇所があるから、現在の身長は165センチ強に落ち着いている予想だ。しかし、二年生時の身長から考えても伸び方は急すぎる。後で話そうと思っとった事やが、精巣や大脳の体積を計算してみたら彼はようやっと本格的な二次性徴を迎えた頃と言っていい。成長痛を伴うような急激な身長の増加はもう少し後で起こる段階なんだ」


 MRI一つでここまで分析していることにゾッとしつつ、黒田はちょっとした思い付きを言ってみる。


「なんか、成長を前借りしたみたいやな?」

「ははは! 面白い発想だね」


 腕組みをしてうつむき加減で座っていた珠江が楽しそうに声を上げて笑って言った。


「あまり生化学で『前借り』という考えはないから笑ってしまったよ。しかし、面白い考えなのは確かだね。通常は、高橋智明もそうなんだがね、成長は環境や栄養状態や遺伝的プログラムなんかの関係から、阻害や遅延という考え方が一般的でね。まれに早熟という言葉が表すように、平均よりも早く二次性徴を迎える例は多くあっても、前借りするような成長の仕方はまず無い。……解析して感じたことだけで言えば高橋智明はどちらかといえば『遅延』、または『停滞』していたと思えるくらいさね。ようやっと夢精を経験したかオナニーを覚えたってとこだろう」


 黒田は思わず苦笑いを漏らす。

 夢精など、二十年ぶりくらいに耳にした単語だ。


「私は何らかのキッカケによって停滞していた成長を、『急いで取り戻した』と考えていたんだけど、刑事の言う『前借り』という考えの方が面白いね」


「……光栄です」


 予想外のところで珠江に受け入れられたので、黒田は控えめに受け止めることにした。

 珠江の機嫌を損ねないためもあるが、昨日の智明と優里との会談が頭をよぎったからだ。

『成長の前借り』も、やけに大人ぶろうとしていた智明の印象から出た単語といえる。


「じゃあちょっと遺伝の話も出たからこっちを先に済まそうかね。……さっきの話で『停滞』という言葉を使ったけど、これは見た目やデータだけを見て『成長が遅いね』という意味ではない。明らかにプロブラムとか設計図という先天的な状態として、この検体は『停滞』という状態にあったと分かったということさね」


 黒田にはまた分からない表現が出てきた。


「停滞していた? 生まれた時からこの状態で止まって待つように決まってた、と?」


 珠江は一つうなずく。


「遺伝情報上はそうなるね。何かを待っていたのか、何かの準備をしていたのか……。なんにせよ、段階的に成長していくべき設計図に『ここで待機』とあったから、通常よりもゆっくりとした成長に留まっていたと考えているよ。だからさっきのような『成長を慌てて取り戻す』といった考えを示したんだがね」


 黒田は何かを考察するポーズを取りはするが、基礎知識のない素人には考えるだけのものでしかない。


「もう一つ分かったことがある」

「なんでしょう?」

「これは検体単独だとなんとも判断しにくい部分なんだがね。恐らくこの検体の両親は、血縁の非常に近しい者同士で交配したんだろうということさね」

「血縁の近い者? それは、近新婚とか、そういうことか?」


 普段あまり使わない言葉に黒田は動揺した。

 過去に携わった通報や事件で耳にしたことはあるが、大抵は不幸やトラブルがつきまとう言葉だからだ。


「近代日本、いや世界的に見ても法治国家では近新婚や近親姦は禁止の傾向にあるから、一般的とは言えないさね。……頭の悪い人間は奇形が生まれるとか、化け物が誕生してしまうとかで禁忌であると捉えがちだが、そんなのは可能性と数字の世界の話さね。事件や騒動にならないだけで実例はいくつもあるだろうし、私以上の狂信者はどっかで研究してるだろう」


 自嘲気味に笑う珠江だが、黒田は笑えない。黒田が関わった近親姦はDVと同じくらい後味の悪い事件だったからだ。

 自分の母や娘や姉妹を抱くという想像も黒田の中にはない。


「話がそれたね。……この検体のケースで言うと、親子での近親姦よりも兄妹や姉弟の可能性が高いと解析結果では出ているね。遺伝というものは正直な反面、数多の選択肢が複雑に絡んでしまうぶん、傾向という分別は面白いくらい成り立ちを語ってくれる。結果、私はこの子を神と呼んでもいいと思うくらい惚れちまうねぇ」


「センセ、そこまでにしときましょう」


 悦に入る珠江を鯨井が止めに入る。

 確かに黒田が聞いていても珠江の発言は一足飛びに飛躍していて、細部はよく分からなかった。

 しかも異端児と称されるほどの柏木珠江が『神』などと表現するとは、相当なことだとも思えた。


「まさか天下の柏木センセが神を持ち出してくるとは思わなんだな」


「驚くことはないさね。神は居る。ただ、宗教や信念や概念とは違うだけさね。まだ発見も提唱もされていないだけだから、神と呼ばざるを得ない。そういうものがあってもいいと思わないかい?」


「まあ、確かに」


 珠江らしい考え方に黒田は安心した。


「お? 今の例えが分かるんやったら、じゃあもっかい俺の話に戻ってみるかの」

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