検査結果 ②
※
旧南あわじ市神代にある国生警察仮設署。
昼間の機動隊の大惨敗から数時間が経過し、すでに日も暮れ、報告書を書き終えた黒田幸喜は最上階の喫煙所に居た。
表向きは報告書をまとめただけに見せているが、実際は高橋智明と鬼頭優里から頼まれた死亡者リストのコピーも済ませておいた。
とはいえ、管轄外ともいえる現場への訪問や捜査資料のコピーなど、かなり危ない橋を渡った疲労感は止めどが無い。
だから、というわけではないがついでに有給休暇願いも提出しておいた。
この十日ほどの間に警察の仕事に限界を感じたり、真相を明かす事の虚無感を抱いたり、高橋智明が新しい国を興そうとしていることなど、黒田が信じたり基盤にしていたことが大きく形を変えてしまった気がした。長くはなくていいから、しばらく客観的に物事を考える時間を欲したのだ。
ついでに神戸で鯨井と会う予定もある。
「……よっしゃ! 行くか!」
タバコを吸いきって、数件のメール送信を終えたので黒田は気合を入れ直して立ち上がった。
そのままの勢いで一階まで階段を駆け下り、仮設署に配属される時に買った中古の自転車にまたがって警察官専用の寮へ帰る。途中でコンビニに寄って晩飯と飲み物を買っておいたので早々に腹に入れ、二泊三日程度の旅支度をして風呂に入る。
髪の毛が乾くまでエアコンで涼み、紺色のポロシャツとチノパンに着替えてタクシーで高速バスの乗り場へと移動した。
「……三宮行きは最終しかないんか」
運行表を見て中途半端な空き時間があることが分かり、喫煙所のない停留所であることに軽く絶望した。
仕方なく数席だけ設けられている待ち合いのベンチに腰掛けてふて寝する。
「……三十分もあるじゃない」
近くから聞こえた声に、スケジュール管理を失敗したのが自分だけじゃないことに少しホッとする。
黒田はふて寝中で目を閉じているので見えていないが、声から察するに若い女性のようで、しばらく迷った末に黒田の二つ隣のベンチに座ったようだ。
――ま、それしかないわな――
電車やバスの待ち時間は、ふて寝かH・Bでゲームやネットサーフィンするくらいしか暇つぶしの手段はない。
その後は新たな乗客は現れなかったようで、定刻どおりに高速バスがやってきたので黒田は乗車口へ向かう。
ラッキーなことに車内に乗客は少なく最後尾の席が空いていたので、着替えしか入っていないバッグを奥に放り込んで腰を落ち着けた。三宮が終点なので、これで気兼ねなく寝てしまえる。
「あら?」
「うん?」
黒田の後ろについて乗車してきた女性が、黒田の一列前の座席に座ろうとして変な声を出した。
「……野々村さん。野々村美保さん、やったかな?」
少し薄暗いバスの車内なので判別が難しかったが、以前中島病院襲撃事件の事情聴取などで顔を合わせていた、野々村美保に間違いなかった。
「どうも」
少し動揺した返事だったが、自身の素性を肯定したので、遅ればせながら黒田も軽くお辞儀を返す。
刑事と参考人という関係だからか、美保はそのまま座席に座り、黒田とは関わるつもりはないようだ。
――そりゃそうやわな。好き好んで刑事と世間話に興じる物好きはおらんわ――
ましてや夜間に運行している高速バスの車内だ。事件などに無関係な状態であれば雑談もあり得る話だが、黒田も彼女と何を話していいかわからないのだから、あえて関わるものでもないと判断した。
バスが発車すると同時に、黒田は背もたれに体を預け、腕組みをして寝る態勢に入る。
と、バスが走り始めて十分ほど経った頃、女性のささやき声が聞こえた。
「あの、隣いいですか?」
「ん、うん? 別にええけど……」
断る理由もなかったので黒田は美保の申し出を受け入れた。
程なく、高速道路上の停留所でバスが停車したタイミングで、キャリーバッグを担いで美保が隣席に移ってきた。
ただ、黒田の座る最後尾の座席は五人が横並びで座れるタイプなので、美保が一つ席を開けると思っていたら、キャリーバッグを網棚に放り込んで真隣に座ろうとしてきた。
そもそも窓側の席にバッグを置いていた黒田は窓から二番目に座っている。そこへ美保が網棚に荷物を載せようとすると、黒田の目の前で美保の胸が揺れ、慌てて視線を外す。
「失礼」
確か調書では野々村美保は二十歳と記載されていたのを思い出し、黒田は男女間の適正距離を保とうと、バッグをヒザに抱えて窓側の席へずれてやった。
「失礼します」
「ええ? ちょっと、近くないか?」
黒田が開けた席に滑り込んできた美保に動揺し、小声だが思わず抗議してしまった。
目の前で胸が揺れるのを見たせいもあるが、デニム地のショートパンツからは健康的な太ももがあらわになっているのだ。
「真横じゃないと移ってきた意味ないじゃないですか。内緒話、できないですし」
「内緒話? 俺と? 何を?」
黒田に合わせるように小声で反論してきた美保の言葉に、黒田は別の意味で動揺する。
野々村美保の婚約者である鯨井孝一郎の浮気を知る身としては、こんな密着状態で庇ったり隠し通してやる自信がない。
「やだ、私には婚約者がいるんですから、そういう話じゃないですよ」
「お? ああ、そりゃそうだ」
どうやら美保は黒田の動揺を違う意味に捉えたらしい。ならば、この後おかしなことにならないように布石を打っておこうと決める。
「せやけど、オッチャンも男やからな。刑事やいうても間違いが起こりかねん。あんまり刺激せんといてくれよ」
なるべく真面目くさった顔で言ってみたが、美保のリアクションは軽い。
「何かあって困るのはお互い様じゃない。それに、クジラさんと付き合ってるけど、私はオジサンキラーじゃないですから」
「はは。なるほど、そりゃそうだ」
若干『オジサン』という単語にヘコんだが、なんとか愛想笑いでごまかした。
――自分で言うのと相手に言われるんはかなり違うな――
いつか感じた自分と鯨井との違いを改めて考え始めてしまい、慌てて頭から追い出す。
「……刑事さんは、どこまで行くの?」
「三宮まで。ちょっと知り合いと会わなあかんねん」
播磨玲美の事があるのでさすがに『鯨井に会いに行く』とは言わないでおく。
「ああ、お仕事なのね。普段着だからお休みなのかと思った」
「いいや、急な私用やさかい有給休暇取ったんや。この前の仕事が切り上げになったんもあってな。……野々村さんは、どこまで行くん?」
「京都までよ。お祖父ちゃんの具合が良くないの」
理由が理由なだけに、これまでより低いトーンで美保が答えた。
「確か、野々村さんのお祖父さんって高名なお医者さんやなかったか?」
「一応ね。……私には普通のお祖父ちゃんだけどね」
困ったような寂しそうな、そんな笑顔を見せる美保に黒田は年甲斐もなく慌ててしまう。
――鯨井のオッサンが落ちるわけだ――
感受性が豊かなのか、一瞬一瞬の感情に合わせて様々な表情を見せる美保に、大抵の男は釘付けになってしまうだろう。一見すると平凡に見える彼女だが、その仕草や表情が彼女の全てを魅力的に輝かせていくのだ。
「だいぶ悪いんか?」
「うん。もう、九十近いから」
「……そうか」
いつの間にか黒田の左肩に寄りかかっていた美保は、心配や不安や寂しさを押し流すように、ひっそりと涙を流している。
こうなってしまっては黒田はかける言葉を知らず、太ももの上で重ねられている美保の両手に、自分の手を重ねてやることしかできなかった。
「……ちょっと……ごめん……」
「美保、ちゃん?」
美保が切れ切れにつぶやいたかと思うと、黒田に寄りかかっていた体を滑らせ、黒田の上半身とバッグの間に顔を埋めてしまう。
――本来、これは鯨井のオッサンの役目やろ――
年若い女性の肢体が体に密着していることは、役得といえば役得なのだが、野々村美保を取り巻く人間関係を知っているぶん後ろめたくもある。
しかし美保に間違いは犯さないと宣言した手前、生殺しのまま三宮までの二時間を耐え忍ぶ。
「……美保ちゃん! 美保ちゃん!」
いつの間にか黒田のヒザの上で泣きながら寝てしまった美保を揺り起こす。
「……ん。あ、え? ……ごめんなさい」
目を覚ました美保は自身の無防備さを恥じらい、慌てて体を起こす。
「ええよ。もうすぐ着くから」
「そう。すっかり刑事さんに甘えちゃった」
顔を真っ赤にしながら照れ笑いを浮かべる美保に動揺しつつ、黒田も笑い返す。
程なくバスは三宮バスターミナルに到着し、黒田と美保は一番最後に降車した。
「さて、宿を探さないとな」
「この時間にあるかしら?」
JR三宮駅から元町方面へ歩きながら、黒田はおや?と思う。
「美保ちゃん、宿取ってないんか?」
「うん。夕方に突然連絡が来たから、移動手段の検索で手一杯だったから。刑事さんも?」
黒田が立ち止まったので美保が引っ張っていたキャリーバッグも静かになる。
「俺はオッサンやから、漫画喫茶でもカラオケボックスでもカプセルホテルでも、なんとかなる思っとったからな。調べもしてなかったわ」
「そういうとこ、クジラさんみたい」
美保はクスクス笑ってから、すぐ黙ってしまい、目を閉じてH・Bで検索を始めたようだ。
「ダメね。ラブホテルしか空いてないみたい」
「どうする?」
「ちょうど男と女だし、仕方ないかな。刑事さんとだし」
美保の軽い言い草にさすがに黒田が慌てる。
「ちょっと待て! こういう時に刑事さんはやめてくれ! お、俺も男や。ラブホは、アカン」
「えっと、じゃあ、黒田さん、でいいんでしたっけ? 私に野宿しろってこと?」
「そうは言わんけど……」
一歩詰め寄って上目遣いに見つめてくる美保の視線から逃れようと、黒田は頭をかきながらあらぬ方を向く。
「じゃあ、女がいいって言ってるんだからいいじゃない。行きましょう」
顔をそむけたまま目線だけ戻した瞬間を狙ったように、美保はニッコリと微笑んで、器用に黒田の左手小指を握ってさっさと歩き始めてしまう。
「しかし、やなぁ……」
「いいのよ。クジラさんだって好き勝手やってるんだもの」
黒田に怒っている訳ではないのだろうが、投げやりな美保の言葉に黒田は言い返せなくなってしまった。
年の差カップルの旅行中だと思われても仕方のない取り合わせの二人は、外観や値段も気にせずに一軒のラブホテルへと入った。
部屋に着くなり入り口脇に荷物を置いて間もなく、美保は黒田に飛びつくようにして唇に吸い付いた。黒田も本能のままに受け止めて美保をもみくちゃにし、衣服も最小限だけ取り去って体を重ねた。
獣が獲物を食らうように荒々しい黒田の吐息の中、美保は正直で魅惑的な声を上げつつ「中はダメ!」と訴えた。
――俺は何をしてるんや?――
まだ息を弾ませたままの美保をなだめながら、黒田は猛ったままの男性器に反して一気に冷めていく気持ちに慌てていた。
「こんなことして、良かったんか?」
「……人生、長いんだもん。こんな日があったっていいんじゃない?」
今時の娘、とは思いたくなかったが、そこまでサッパリと割り切れる美保の気持ちが気になった。
後始末をしてやりながら聞いてみる。
「最初からそのつもりやったんか? 衝動的なもんか?」
「どうだろう? ……なんとなく、かな?」
美保は複雑な表情をしながら、モゾモゾと黒田の体の下から這い出ようとしていたので、黒田は体をどけてベッドに腰掛けた。
美保はあっけらかんと体を起こして、同じようにベッドに腰掛けて服を脱ぎ始める。黒田もチノパンがヒザに引っかかったままなのを思い出して脱ぎ去ったが、美保の裸からは目を反らした。
「意外と真面目なんですね。早かったし」
この一言に黒田と美保の人間としての幅が表れた気がした。
「俺は、遊んでないだけや。古い人間やと思われるかもしれんけど、セックスは恋愛の延長やと思ってる。刑事っちゅう仕事も遊びを許さん。それだけのことや」
「でも、したよ。私のことを好きになってくれたとか?」
美保の顔は見えないが、その声はからかっているようにしか聞こえない。なのに、黒田は自分の顔が真っ赤になっていくのが分かって尚更慌てた。
「君は、すごく魅力的や。鯨井のセンセが結婚を考えたんも今なら分かる気がする。バスん中で引っ付いた時に、抱きたいと思ったんも本音や。キスしたら止まらんようになったんも君が素敵やからや。……でも、好きとかは、ちゃう。なんか、ちゃう」
自分の本心を語っているはずなのに、どんどん言い訳じみてしまうことに黒田は虚しくなっていく。
――こりゃあ、未経験の高校生より酷いな――
冷静な分析が頭をよぎった瞬間、美保は黒田に止めを刺してしまう。
「女が抱かれていいって言った時くらい、割り切って良いんだよ。男が一時の快楽で抱くように、女だって清算したいことがあって抱かれに行く時があるんだもん。オスとメスみたいに出会い頭でセックスするなんてよくある話じゃない。理性やルールでセックスしないのは人間くらいのものよ」
娘ほどの年齢の美保の口から、やたら達観したお説教を受け、黒田の心も体もすっかり縮んでしまった。
「やっぱり堅いんかのぅ……」
「すごく良かったよ?」
「そっちやない」
言葉の食い違いに苦笑しつつ、鯨井と玲美の関係に義憤のような感情を持った自分が幼稚に見えてしまう。
「そっちね。……仕事はそれでいいと思いますよ。でも同意のセックスにルールは作らないで欲しいな。生で中出しは論外だけど」
「君って子は……」
そういえば野々村美保は医学生だったことを思い出し、改めて自分は医療従事者とは相容れないなと感じた。
どの人物も湿っぽく恋愛を語ったかと思えば、動物的にセックスを割り切って考え、やたら達観した理屈で黒田を追い詰めてくる。
「なぁに?」
「……いや。本当に内緒話になってしもたな」
「私が黒田さんとこんなことするのは今夜だけよ。むしろ夢みたいな?」
「こんな夢は高校以来だ」
黒田はポロシャツを脱ぎ捨てて再び美保を押し倒した。